さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

秋山佐和子『長夜の眠り 釈迢空の一首鑑賞』

2017年05月06日 | 現代短歌 文学 文化
 『うたびとⅡ』(森山晴美集3)のなかに収録されている著者と岡野弘彦との対談を読んでいたら、

「歌の訳を「大意」として訳すのもおかしい。昔は現代語訳に苦心して、美しく訳したものです。今はあらすじが売れて読まれている。僕は「死者の書」のあらすじを頼まれたけれど、そんな愚劣なことに加担したくないと言って断った。」

 という言葉があった。インターネットというのは、「大意」が幅をきかせる文化だ。ここまでが枕である。

 岡野弘彦とつながりの濃い本で、先日出たばかりの秋山佐和子著『長夜の眠り――釈迢空の一首鑑賞』のよろしさを、何と表現したらいいだろうか。心優しい筆致で、人の世のかなしみに触れながら、作品の中から己のこころに響く言葉だけを取り出してみせる。折口から岡野へ、岡野から秋山へと、バトンを手渡すように相承してきたものに、読者は本書によって触れることができる。

端的に言うと、それはこの世とあの世の境にあるものを見つめ続けることが、人生に意味をもたらすという感覚である。それは、生の「かそけさ」を、言葉(声、息)の音によってあらわすことへの全身的な没入と集中によって成就されるものだから、「調べ」と「文体」がなくてはかなわないことなのだ。それが古代の「ウタ」につながる「様式」の持つ意味である。ただしその様式は、常に模索されなくてはならない。それが迢空の種々の詩型式や表記の仕方の創案につながった。次の歌についての本書の一節を引いてみたい。

山びとの 言ひゆくことのかそけさよ。きその夜、鹿の 峰をわたりし   釈 迢空

「この歌の鹿も、(略)神聖な役割を担った鹿と読みたい。それは、「かそけさ」という語のもたらす、或る古代的な力による。珍しいものを見たり、困ったことだ、とおおっぴらにいう意味合いから遠い雰囲気がこの「言ひゆくことのかそけさよ」に表されているからだ。
そして、一呼吸をおいて、「きその夜、鹿の」と、山びとの息をひそめた短い会話がそのまま伝えられ、結句で「峰をわたりし」と、山あいの細いけもの道をゆく鹿の姿を眼前に表出する。読後、はるかな時間を感じ、自分の身のうちに折り畳まれた古い祖たちの姿へと還っていくような感覚を覚える。」

しばしばすぐれた詩歌は美酒にたとえられる。歌の読みにも熟成する時間、読者が言葉と対話する時間が必要だ。本書には、秋山佐和子の人生の歳月が重ねられていると言っていいだろう。先に引いた森山の著書にもそれは感じられる。







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