俵万智の最新歌集である。先日著者が「週刊朝日」で林あまりと対談している記事を見たが、原発事故で緊急に避難してから暮らした石垣島での生活を経て、子供の進学を機に宮崎県に移住して安定した生活を築いているらしい様子が伝わってきた。1987年に『サラダ記念日』がミリオンセラーになって、紅白歌合戦のゲスト審査員の一人として出演しているのを見た記憶があるが、その当時はかわいいので林あまりの言うように「万智ちゃん」と呼ばれていたりした。それから三十年以上も経ち、八十年代もすでに歴史として回顧される時代となった。
今回私は、年末から栞をはさみながら時間をかけてこの歌集を読了した。このところ短歌以外のことに頭が行っていたので、次に書く時はこの歌集のことを書こうと思って昨年からずっと過ごして来たのである。急に書く気になったのは、次の歌を見つけたせいだ。
動詞から名詞になれば嘘くさし癒しとか気づきとか学びとか
「癒し」はともかくとして、この「気づき」や「学び」というオブラートに包んだような語彙は、学校現場でちょくちょく使用される言葉なのである。「子供たちに深い〈学び〉を保証する」というような使われ方をする。
さすがに詩歌人らしい敏感な感性で、作者はこの「気づき」とか「学び」という言葉の持っている御仕着せの感じ、何となく居心地のわるい欺瞞的なニュアンスを感じ取っている。子供たちは自発的に「気づき」、そして「学ぶ」。それには仕掛けが必要で、教師はそのサポートをするのだ、というような考え方が上から推奨されて、一時期教案の書類に「指導」と書くと「支援」と書きなおさせられるという事が、小学校などで徹底されたことがあった。こういう使用する用語の支配というところからして、私は「文科省-教育委員会」というものが好きになれない。はっきり言って、大方の教育委員会は文科省の奴隷である。上で何か言うと、それを忖度してさらに過剰なことを教育委員会がやってしまうというシステムが、きちんとできあがっている。
余談になるが、一頃「アクティブ・ラーニング」という言葉が流行したが、その後、文科省は今後この言葉を公式に使うことを控えるという通達だか何だか知らないけれど、そういう指示を現場に下ろした。それが、それより前に幾年もかかって「アクティブ・ラーニング」という標語がようやく現場に浸透し、行き渡ったあとだったので、現場は非常に戸惑った。しかし、そこは慣れたもので、今度はなんか「アクティブ・ラーニング」っていう言葉を使ってはだめらしいよ、そうか、それなら推奨される新しい言い方に変えればいいのね、というわけで、しばらくしたらきっちり対応できるようになった。それで近頃は「アクティブ・ラーニング」が、創造性と思考力を高めるための学びの工夫、とかなんとかいう言い方に変わっているのだが、長ったらしい呪文みたいで、私はいまそれを正確に思い出して書けない。気になる方は文科省のホームページをごらんください。
閑話休題。(閑話でもないのだけれど、読者によっては、わからんわ、でしょう。)
さてそれで、気を取り直して、とにかく著者が元気そうで、読んでいると、たぶん『チョコレート革命』以来はらはら見守って来た愛読者には、末尾の方にかためて置いてある相聞に何とも言えない幸せ感があって、世の中にはこの人にはハッピーでいてほしいというタイプのひとがいて、タレントだと宮崎美子とか菊池桃子みたいな、うん、元気なんだね、よかった、よかったという感じで、こちらもうれしくなってしまうような、そういうはげまされる存在として俵さんがいるということは確かなことだと、私は思う。
これでやめにしようと思ったのだが、ここでやめたらばかにしているのかと邪推する人もいるのかなと思ったので、もうすこし書く。
ティラノサウルスの子どもみたいなゴーヤーがご近所さんの畑から来る
地頭鶏のモモ焼き噛めば心までいぶされて飲む芋のお湯割り
※「地頭鶏」に「じとつこ」と振り仮名。
実にとどこおるところのない歌だ。この自然な感じが俵マジックなので、凡百の歌人には「ティラノサウルスの子ども」「ゴーヤー」「ご近所さん」という言葉を一首のなかに入れることはできない。たぶん「ご近所さん」という一単語だけで俗臭ふんぷんたる歌になってしまうと思う。「地頭鶏のモモ焼き」の歌も同様で、「心までいぶされて飲む」は俗になるすれすれの修辞。結句の「芋のお湯割り」に至っては、思いもよらない。絶対に普通の人が使ったらアウトの歌になる。やってみようか。
怪獣のかたちと思うゴーヤーをまな板の上に載せて一刀両断 (凡庸歌人)
地頭鶏のモモ焼きうましお湯割りの芋焼酎はたちまち半分 (凡庸歌人)
みたいな歌(やや誇張がありますが)は、けっこう目にするので、まあ簡単に言うと理屈になっているところがまずい。俵万智さんはそこがすれすれのところでクリアできてしまうわけで、それは昔からずっと天才的なところがあるわけなのね。このブログを毎日見に来てくださっている凡庸歌人さん、すみません。なんて言ったら、もう読みに来てくれないかもしれないけれど、ここで爆笑された方は、まだ短歌が続けられると思いますよ。
今回私は、年末から栞をはさみながら時間をかけてこの歌集を読了した。このところ短歌以外のことに頭が行っていたので、次に書く時はこの歌集のことを書こうと思って昨年からずっと過ごして来たのである。急に書く気になったのは、次の歌を見つけたせいだ。
動詞から名詞になれば嘘くさし癒しとか気づきとか学びとか
「癒し」はともかくとして、この「気づき」や「学び」というオブラートに包んだような語彙は、学校現場でちょくちょく使用される言葉なのである。「子供たちに深い〈学び〉を保証する」というような使われ方をする。
さすがに詩歌人らしい敏感な感性で、作者はこの「気づき」とか「学び」という言葉の持っている御仕着せの感じ、何となく居心地のわるい欺瞞的なニュアンスを感じ取っている。子供たちは自発的に「気づき」、そして「学ぶ」。それには仕掛けが必要で、教師はそのサポートをするのだ、というような考え方が上から推奨されて、一時期教案の書類に「指導」と書くと「支援」と書きなおさせられるという事が、小学校などで徹底されたことがあった。こういう使用する用語の支配というところからして、私は「文科省-教育委員会」というものが好きになれない。はっきり言って、大方の教育委員会は文科省の奴隷である。上で何か言うと、それを忖度してさらに過剰なことを教育委員会がやってしまうというシステムが、きちんとできあがっている。
余談になるが、一頃「アクティブ・ラーニング」という言葉が流行したが、その後、文科省は今後この言葉を公式に使うことを控えるという通達だか何だか知らないけれど、そういう指示を現場に下ろした。それが、それより前に幾年もかかって「アクティブ・ラーニング」という標語がようやく現場に浸透し、行き渡ったあとだったので、現場は非常に戸惑った。しかし、そこは慣れたもので、今度はなんか「アクティブ・ラーニング」っていう言葉を使ってはだめらしいよ、そうか、それなら推奨される新しい言い方に変えればいいのね、というわけで、しばらくしたらきっちり対応できるようになった。それで近頃は「アクティブ・ラーニング」が、創造性と思考力を高めるための学びの工夫、とかなんとかいう言い方に変わっているのだが、長ったらしい呪文みたいで、私はいまそれを正確に思い出して書けない。気になる方は文科省のホームページをごらんください。
閑話休題。(閑話でもないのだけれど、読者によっては、わからんわ、でしょう。)
さてそれで、気を取り直して、とにかく著者が元気そうで、読んでいると、たぶん『チョコレート革命』以来はらはら見守って来た愛読者には、末尾の方にかためて置いてある相聞に何とも言えない幸せ感があって、世の中にはこの人にはハッピーでいてほしいというタイプのひとがいて、タレントだと宮崎美子とか菊池桃子みたいな、うん、元気なんだね、よかった、よかったという感じで、こちらもうれしくなってしまうような、そういうはげまされる存在として俵さんがいるということは確かなことだと、私は思う。
これでやめにしようと思ったのだが、ここでやめたらばかにしているのかと邪推する人もいるのかなと思ったので、もうすこし書く。
ティラノサウルスの子どもみたいなゴーヤーがご近所さんの畑から来る
地頭鶏のモモ焼き噛めば心までいぶされて飲む芋のお湯割り
※「地頭鶏」に「じとつこ」と振り仮名。
実にとどこおるところのない歌だ。この自然な感じが俵マジックなので、凡百の歌人には「ティラノサウルスの子ども」「ゴーヤー」「ご近所さん」という言葉を一首のなかに入れることはできない。たぶん「ご近所さん」という一単語だけで俗臭ふんぷんたる歌になってしまうと思う。「地頭鶏のモモ焼き」の歌も同様で、「心までいぶされて飲む」は俗になるすれすれの修辞。結句の「芋のお湯割り」に至っては、思いもよらない。絶対に普通の人が使ったらアウトの歌になる。やってみようか。
怪獣のかたちと思うゴーヤーをまな板の上に載せて一刀両断 (凡庸歌人)
地頭鶏のモモ焼きうましお湯割りの芋焼酎はたちまち半分 (凡庸歌人)
みたいな歌(やや誇張がありますが)は、けっこう目にするので、まあ簡単に言うと理屈になっているところがまずい。俵万智さんはそこがすれすれのところでクリアできてしまうわけで、それは昔からずっと天才的なところがあるわけなのね。このブログを毎日見に来てくださっている凡庸歌人さん、すみません。なんて言ったら、もう読みに来てくれないかもしれないけれど、ここで爆笑された方は、まだ短歌が続けられると思いますよ。
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