さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

吉田隼人歌集『忘却のための試論』について 2

2016年04月30日 | 現代短歌 文学 文化
この歌集は、大きく三部に分かれる。第一部は、文句なく傑作と思う。その興奮は、初見の際にブログの文章にしるした。第二部については、若い人の意見を聞きたいところ。第三部は、末尾が耽美的、浪漫的に過ぎるようだ。死の想念にもたれすぎている気がする。あとがきに示されている文学観は、ある意味できわめてオーソドックスなものであり、これは塚本邦雄の系譜にあるものだ。しかし、

 「この十年間を僕は生きたというよりは、生と死を両極とする振り子のように頼りなく揺れ動いてきたに過ぎない。その間には「死」の側に大きく傾くことが一再ならずあり、こと二〇一一年に襲ってきた幾つかの外的な危機は、誠に遺憾ながら本書の第一部をなす「砂糖と亡霊」や「忘却のための試論」といった連作群に作者の実生活の影を色濃く落とすこととなった。」

と記すところから得られる作者情報こそは、むしろ最大の<私性>の表現になっていはしないか。しかも作者自身が「誠に遺憾ながら」と言う内容が、――それはどこのところを指すのかは実際には弁別・判別しがたいのであるが――むしろ作品のスパイスとなって、こちらの読む興味をかきたてるのである。と言うよりも、そのようにして滲み出てくるものの中からしか、表現の真実性というものはあらわれないのではないだろうか。

  さらに第三部の戦争や死をめぐる連作は、濃厚に自殺願望とのたたかいが投影されたものであろう。ところが、その濃厚な死との対話の表現こそ、極めて完成度は高いのであるけれども、従来の文学的エクリチュールから大きく外れるものではないもののように思われる。明治の象徴派詩人蒲原有明らの営みを継承するマニエリスムの試みとでも言ったらいいのだろうか。しかし、呼び込まれる歌語も古めかしく予定調和的で、短歌の世界ではすでにあったものではないか。やはり作者には、現代の表現として、当代の言語状況に果敢にかかわり続けることを放棄してほしくないと思うのである。

  そういう意味では、第二部の種々の試みがある作品のなかに可能性はあると思うし、作者自身が破綻していると感ずるという第一部の作品の友人の死らしき(示唆されているだけで明確にはわからない)事実や、失恋らしき(死んだ友人と失恋の相手が同じなのか、ちがうのか、そういった事実的な背景は一切突き止められない)できごと、これははっきりとわかる震災の影のようなもの(でも、自分に近しい人の誰がどうなったのもほとんどわからないし、作者の家族や近親の被災の程度もよくはわからない)を提示する書き方を、今後敢えて忌避する必要はないのではないかと思う。震災の経験を、実生活が作品の虚構世界に及ぼした否定的なこととして語る作者の文学観は、第三部の「烏羽玉」や「流砂海岸」の連作をみるかぎり生産的ではない。私はこれをあまり評価しない。とは言うものの、同じ第三部の前半は、純粋にエクリチュールとして楽しめる高度な詩的達成であると思う。ここのところだけでも、この人が今後プロとして通用するレベルをクリアしていることがわかるのである。

◇技術的なことについてのメモ◇ 
 冒頭のマラルメの詩の文語訳が楽しかったけれども、一つ気になったのは、最後の連の「まがごとくらきあまつより くだりてなほもしづけしの」の「しづけしの」の部分で、私は原詩を読めないので、もしかしたら「の」の脚韻の連続で工夫したところなのかもしれないが、ここは「しづけきに」ぐらいにした方が、日本語の文としては座りがいいのではないかと思う。
 もう一つ、121ページの「ほのほにみほる」という句について、「見惚る」は、漢字表記にした方がいいかもしれない。意味として終止形は分かりにくい。むしろ「見入る」とか。または「みほるる」とか…。 ※今年の現代歌人協会賞をとったということなので、このぐらいなことは言っても許されるだろうと思って書いてみました。


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