どんなに技巧をこらしていても歌の言葉が自然に感じられるように読める歌集というのは、いい歌集である。それは、ぱらぱらと流し読みしただけで感じ取れるもので、空気のようなものだ。香り、と言ってもいいが、無意味な歌ほど、その気配だけで立ち上がってきて、こちらにしみることが多い。つまりは、カーディガンみたいに何げなく羽織れる。
なんとなく見てはいけない焼跡に青いネットが被されている
この感じ方。こちらが痛んでいるときほど、よくわかる。この一首前には、次の歌がある。
カーテンは下にむかってやさしさを垂らしてそれがときに傲慢
以前の私は、こういう歌をみていろいろ書くのが楽しみだったが、最近はいちいちうるさいなと思うようになってしまって、短歌の雑誌で歌の解釈を書き手が述べていると、だいたい飛ばしてしまう。
そうは言いつつ、無粋ながら絵解きすると、カーテンはやさしさをもって、「私」や「弱い存在」、「見られたくない存在」を覆い隠すということをしてくれる。が、その善意のようなものは、それ自体が「隠す」、もっと言うなら隠蔽するという暴力を行使しているのでもある。差別語狩りもそうだろうし、ポリティカル・コレクトネスのコードへの配慮もそうだろう。
ここで一首目の歌に戻って、「なんとなく見てはいけない焼跡に」という言い方の絶妙なつながりにうなずくわけである。
ねむりゆくときに肋骨重たかり生き残ったらこんなさびしさ
死はそばにあるようでまた死者だけのものであることそうであること
両方は同じ一連にある。具体的な事実は消してあるので、読者はいろいろな文脈や場面にかかわらせながら読むことができる。自分のこととしても、身近なひとのこととしても読めるような余地がある。むろん作者自身の病気の経験が先立つことを日頃から短歌に親しんでいるような読者は知っている。けれども、歌はそのつど、言葉の一回ごとに立ち上がる力を受け止めながら読むほうがいい。
いつからか、死がそこにある、ということを感じながら私も日々をすごすようになったからか、こういう歌がすっと入ってくる。病気でよわっているときには、自分の体、筋肉や骨が、ものとして重たく感じられるということがある。一首めは、その体感を受け止めながら、生きているということを実感している。そうして二首目のように、厳然とした死についての認識も、素直に首肯できる。
巻頭の歌を引く。
風が好き風にさやげるものが好き胸に大きな蝶をひろげて
自分が蝶になって、風の化身になって、胸いっぱい空気を吸って。この解放感がすてきだ。いい歌だと思う。
なんとなく見てはいけない焼跡に青いネットが被されている
この感じ方。こちらが痛んでいるときほど、よくわかる。この一首前には、次の歌がある。
カーテンは下にむかってやさしさを垂らしてそれがときに傲慢
以前の私は、こういう歌をみていろいろ書くのが楽しみだったが、最近はいちいちうるさいなと思うようになってしまって、短歌の雑誌で歌の解釈を書き手が述べていると、だいたい飛ばしてしまう。
そうは言いつつ、無粋ながら絵解きすると、カーテンはやさしさをもって、「私」や「弱い存在」、「見られたくない存在」を覆い隠すということをしてくれる。が、その善意のようなものは、それ自体が「隠す」、もっと言うなら隠蔽するという暴力を行使しているのでもある。差別語狩りもそうだろうし、ポリティカル・コレクトネスのコードへの配慮もそうだろう。
ここで一首目の歌に戻って、「なんとなく見てはいけない焼跡に」という言い方の絶妙なつながりにうなずくわけである。
ねむりゆくときに肋骨重たかり生き残ったらこんなさびしさ
死はそばにあるようでまた死者だけのものであることそうであること
両方は同じ一連にある。具体的な事実は消してあるので、読者はいろいろな文脈や場面にかかわらせながら読むことができる。自分のこととしても、身近なひとのこととしても読めるような余地がある。むろん作者自身の病気の経験が先立つことを日頃から短歌に親しんでいるような読者は知っている。けれども、歌はそのつど、言葉の一回ごとに立ち上がる力を受け止めながら読むほうがいい。
いつからか、死がそこにある、ということを感じながら私も日々をすごすようになったからか、こういう歌がすっと入ってくる。病気でよわっているときには、自分の体、筋肉や骨が、ものとして重たく感じられるということがある。一首めは、その体感を受け止めながら、生きているということを実感している。そうして二首目のように、厳然とした死についての認識も、素直に首肯できる。
巻頭の歌を引く。
風が好き風にさやげるものが好き胸に大きな蝶をひろげて
自分が蝶になって、風の化身になって、胸いっぱい空気を吸って。この解放感がすてきだ。いい歌だと思う。
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