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新潟淡麗辛口の蔵の人々と”庶民の酒飲み”の間で過ごした長い年月
(昭和五十年代~現在)を書き続けているブログです。

〆張鶴について--NO1

2009-10-15 22:50:02 | 〆張鶴について

20057_011_2

おそまつで能天気な私ですが、一人の日本酒のファンとして感じ続けていることがあります。
あくまで私個人の個人的な意見に過ぎませんので、大したことがない「毛色の変わった人間の、毛色の変わった”感想”」と思っていただき、気軽に見ていただければ助かります。
ただ、相変わらず”長い作文”ですので、”お急ぎの方”はパスしていただいたほうが良いのかも知れませんが-----------。


純米酒雑感(昭和五十年代前半の〆張鶴 純 からの視点)

前回、鶴の友におじゃましたとき、樋木社長より、こんなお話を伺いました。 吟醸酒にこだわる ”マニア、あるいは酒通”の方が ”運良く”新潟市の料飲店で鶴の友の吟醸の「上々の諸白」を偶然に飲まれて(実際これは本当に運が良い)、蔵に電話してきたそうです。 「おたくの吟醸酒は本当に美味いが、私には納得できないことがある。あれほど美味いのになんで純米吟醸じゃないのですか」-----樋木さんは、丁寧な説明もしたのですがご本人は最後まで納得されなかったそうです。 私に言わせていただくとそれは、”大馬力の高価格のスポ-ツカ-”のスピ-ド違反車を捕まえるためにイギリスやイタリア、フランスが高速道路に配備しているスバル インプレッサWRX、WRX STI を普通車やミニバンの価格で出しているメーカーの世界ラリ-選手権を実際に戦うWRカーを、「なぜ、クラウンやシーマじゃないのか?」と言ってるようなものです。 ご本人も ”お気に入り”の純米吟醸と直接比較して飲めば一瞬で分かることなのですが-----。  

これは私が2005年8月に書いた「長いブログのスタートです」の一部です。
http://blog.goo.ne.jp/sakefan2005/d/20050831

かなりの冗談と笑いを含んだ様子で細井専務は、「Nさんにお叱りを受けるかもしれないが、私は純米酒が日本酒のベースだと考えていますので、私のところでは純米、純米吟醸の合計が全体の50%以上になっています」と、あからさまではないが”自負”も感じさせる口調で話してくれました。
私は苦笑しながら、「私は”純米至上主義者”ではありませんが、”純米否定論者”でもありません。純米酒を否定しているのなら30年も〆張鶴 純 を飲んでいる訳がない。
ただエンドユーザーの消費者のサイドから見て、いろいろな理由で本醸造がベースなのではないかと思っているだけです」と返答しました。

30年前と変わらない600石という数字の中で酒を造り続けていくためには、単価を上げていくのがひとつの方法であり自然な流れです。
その中で何種類かの純米、何種類かの純米吟醸、何種類かの大吟醸などを少量多品種で売り切って1本あたりの単価を上げると同時に売れ残りのリスクを低減する-------地酒として生きていこうとする小さな蔵にとって、國権に限らず多くの蔵にとって、確かに有効で効率の良い方法です。
しかしその方法は、従来からの酒のファンや酒のマニアには有効だと私も同感しますが、他のアルコール商品と”戦い”若い需要層を増やしていく”反攻”には、必ずしも有効とは言えず、総需要の拡大には繋がらないのではないのか-------という危惧も私自身は感じざるを得ないのです。

鶴の友の上々の諸白(大吟醸)、特選、純米には酒のファン・マニアからも高い評価があり、数量の少なさもあり新潟市以外の県内・県外で最も手に入りにくい新潟淡麗辛口の酒になっていますが、鶴の友の最大の価値は、二千円以下の価格であり鶴の友の中では一番下の販売価格の酒で一番数量のある上白(本醸造)が、特に日本酒のファンでもないごく普通のエンドユーザーの消費者に、飲む機会さえあれば、その美味さとコストパフォーマンスに”驚きに近い”高い評価を受けている点にあると私は思っています。
〆張鶴は鶴の友に比べやや価格が高いが、(鶴の友と比べれば販売数量が圧倒的に多いため飲める機会を得る人も桁違いに多く)鶴の友への評価と似たような評価をするエンドユーザーの人数が鶴の友より圧倒的に多いように思われます。

鶴の友・樋木酒造も、〆張鶴・宮尾酒造も”少量多品種”とは縁が無い、30年前とほとんど変わっていないシンプルな”商品構成”を守り続けています。
鶴の友も〆張鶴も、「鶴の友の何々が美味い、〆張鶴の何々が良い」ではなく、
「鶴の友だから美味い、〆張鶴だから良い」という銘柄全体への評価をエンドユーザーの消費者から受けている、と私は感じています。
そしてそれは昭和四十年代後半の、「地酒としての鶴の友はこうあるべき」という鶴の友・樋木尚一郎社長の”頑固なまでの信念”が鶴の友の酒質に反映し、「どんな状況でもこれを失ったら〆張鶴ではなくなる」------”企業”としての成長と”酒蔵であり続ける”ことのバランスを、〆張鶴・宮尾行男社長が苦心しながら常に取ってきたことが〆張鶴の酒質に反映しているからだ、と私には思えてならないのです。

これは國権について--NO4の一部です。
http://blog.goo.ne.jp/sakefan2005/d/20090404



上記のふたつの引用のとうり、私は純米酒至上主義者でもなければ純米酒否定論者でもありません。
飲んで美味いかどうかが私にとっては一番”大切”で、その美味い日本酒が純米か本醸造なのかという”区別”はあまり気にしていない-------と言ったほうが”正確”かも知れません。
私のような財布の中身に”余裕”のない庶民の酒飲みにとっては、「その酒の美味さとその酒の価格のバランス」が一番重要だからです。

現在に比べると、はるかに純米酒が少なかった昭和五十年代前半から”純米酒の状況”を見てきたせいか、単に酒化率が悪いためその価格が高くなってしまうだけではなく、造りも造った後の”酒質保全”にも気を使わなければならず、なおかつエンドユーザーの消費者に届いた段階で「保全された美味さと価格のバランス」が取れている純米酒があまり多くないという印象が、まるで”後遺症”のように私には今も少なからず残っています。
特に新潟淡麗辛口においては、この時期、本醸造で”実現できている酒質”を本醸造と大きくは変わらない価格で”実現”できている純米酒は、本当に”希少”だったのです。

この時期、酒販店としてもおそまつで能天気な私が、”発見”できたこのレベルの純米酒は、「〆張鶴 純 」だけでした。
当時の〆張鶴 純 は八海山や〆張鶴の本醸造との価格差も小さく、ナショナルブランド(NB)の月桂冠の一級酒との価格差もあまり大きなものではありませんでした。
確か2200円~2300円くらいだったように記憶しているのですが、現在とは違い当時は〆張鶴といえどもその知名度も高くなく、北関東の地方都市のH市ではその名前を知っているエンドユーザーの消費者はきわめて少なく、最初の数年は「売る本数より投げる本数のほうがはるかに多い」大苦戦の状況だったのです。

それでも私が、〆張鶴 純 の実績を拡大し続け、売ることを諦めなかったのには理由があったのです。

現在も高い評価と高い知名度を誇る〆張鶴 純 は、この昭和五十年代前半にはその酒質の根幹が完成していたと、私個人は、そう感じています。
新潟県産の酒造好適米の五百万石を中心にした米を精米歩合60%にまで削り、粕歩合が40%以上になってしまうほどの低温長期の醪で造りだされたこの純米酒は、当時の関東信越国税局や国税庁醸造試験場の清酒鑑評会用の大吟醸の造りの手法が惜しみなく投入された、純米吟醸と言うべきレベルにあった------今の時点から振り返っても私個人はそう思えるからです。

昭和五十年代前半の「完成していた〆張鶴 純 」は、現在の3500~5000円の一線級の純米吟醸や、精米歩合が50%になり「名実ともに純米吟醸になった」現在の〆張鶴 純 とも十分に戦える”水準”にあったと、今でも私個人は感じています。
まるで”綱渡り”をしているような、軽さと切れの良さがあったこの時期の八海山と同等の切れを持ちながらも、八海山には少なかったまるみと舌触りの良さそして「どこも出ていない、どこも引っ込んでいないバランスの良さ」があり、料理の邪魔もしなければ飲み飽きもしない-----------庶民の酒飲みにとってはその酒質の水準の高さに比べ価格が極めて安い、本当に有り難い日本酒だったのです。

「二十一世紀には日本酒なんてものは無くなる」------この時期の数年前の学生のころの私は本気でそう思っていました。
酒販店の三代目として育ってきた私は、他の人より子供のころから日本酒を知る機会に”恵まれて”いたため上記の”感想”を持つようになったと思われるのですが、その”感想”は主として月桂冠に代表される大手ナショナルブランド(NB)の日本酒によって”造り出された”ものでした。
何回も書いていますが、当時のNBの日本酒は今思っても「清酒風アルコール飲料」と言われかねない”かなりひどい”ものでした。
二十歳を超えてようやく酒が飲めるようになった私の同級生達は、悪いイメージしか日本酒に持っておらず、たぶん、飲みたくないアルコール飲料の”アンケート”をとったら「間違いなくトップを争える立場」にあったはずです。

これも何回も書いていますがNBの名誉のためにあえて言うと、現在のNBはその当時のNBとは”別物”と言えるほどの酒質向上を実現しています。
逆に地酒側の方が、残念ながら銘柄によっては、かつてとは”別物”になりつつあるのかと思わざるを得ないほどの酒質低下を感じる機会が少なくないのです。

酒販店に生まれ「アルコールに囲まれて」育ったにも関わらず、不埒にも〆張鶴と八海山に出会う前の私は、日本酒は”中高年の飲み物”と思い一顧だにしなかったのです。
そんな不埒なイメージを日本酒に持っていた私でしたが、〆張鶴 純 に出会ったとき、八海山の南雲浩さん(現六日町けやき苑店主)の紹介で宮尾酒造を訪れ、故宮尾隆吉前社長の紹介で早福岩男早福酒食品店社長(現会長)を訪ねることになる”流れ”の中で、「この酒なら自分の同級生に胸を張って勧められるし、彼らにも支持されるはずだ」というそれまでとは”180度違う”確信を感じたのです。

白いレッテルが貼られ白い化粧箱に入れられていた〆張鶴 純 の”外側”は、その”中身”と高い次元でバランスしていた-------そんな思いが今でも私には強く残っています。
白い箱と白いレッテルに目立つように印刷されていた”純の字”は、故宮尾隆吉前社長がご趣味だった水彩画用の絵筆を使って書かれた-------私にはそう伺った記憶が残っています。
中身の酒質と外装が高い次元でバランスし”渾然一体”となっていた〆張鶴 純 に、私が感じたものは伝統を受け継ぎながらの「新しさ、それも革新的な新しさ」だったのです。
三十年以上の時間が経過した現在も、その中身と外装の”コンセプト”が変わっていない〆張鶴 純 がまったく”古びていない”事実が、出会った最初に感じた「革新的な新しさ」が間違いでなかったことを証明している-------私にはそう思えるのです。

”時代の風”が〆張鶴 純 にとって追い風になる------私はそう確信していたのです。
大苦戦をしていることが、北関東の地方都市のH市まではその”追い風”がまだ十分に届いていないことを証明していましたが、時間の経過が”味方”になることを私は強く意識していたのです。
また、〆張鶴・宮尾酒造の製造石数、特に全体の10%以下でしかなかった純米酒の増石には限界があることを”認識”せざるを得なかったため、”追い風”を誰もが認識できるようになる時間との”競争”で、〆張鶴 純 の”割り当て実績”を現時点の地元H市の〆張鶴 純 のファンだけではなく”将来のファンのため”にも、一本でも多く獲得しなければならないことも、私は強く意識していたのです。

全体の量が10%しか増えないとき、あるいは”悪平等”なのかも知れませんがいくら増量の要望があろうとも、昨年の実績に対して一律10%のアップしか”現実的な方法”はありません。
年間300本の実績の10%アップは30本で合計で330本、年間1000本の実績の10%アップは100本で合計1100本になります---------蔵自体が動きが取れない完全な逼迫状況になったときの年間割り当ての330本はどうしようもない本数ですが、1100本なら少ないなりに(来店されるお客様のご希望どうりには対応できないまでも)何とかすることができます。
それゆえに、なるべく早く年間1000本の”壁”を破る必要性を、私は強く感じていたのです。

私が〆張鶴・宮尾酒造と取引をさせていただいた最初の年から、下半期は月30本の割り当てになりました。
「このままの状況だと12月までで酒が1本も無くなってしまいますので---------。」というやもを得ない理由だったのですが、”追い風”が私の店に届くより前に〆張鶴 純 の逼迫が迫っていたのです。

取引を始めさせてもらってからの半年の間に、私は〆張鶴・宮尾酒造を3回訪れていました。
おそまつで能天気な私は「自分が何も知らないこと」を自覚していましたので、今思うと大変なご迷惑をおかけしたのではと反省しているのですが、初歩の初歩のようなことも含め「自分が知りたいことを」宮尾行男専務(現社長)、宮尾隆吉社長(故人)に質問し教えていだだいていました。
そして村上の帰りには必ず新潟市に回り、早福岩男早福酒食品店社長(現会長)に新潟淡麗辛口の銘柄のことだけではなく、その新潟淡麗辛口を「どのように売っていくか」-------その当時の酒販店の常識では逆立ちしても考えられなかった「町の酒屋としての生き方」も教えてもらっていたのです。

”大苦戦”の中での”下期割り当て”の知らせを聞いたとき、自分の”確信”を現実に近づけるため、(今思うと大袈裟で穴があったら入りたい心境になりますが)やれるだけやってみようと覚悟をしたのです。


以前に何回も書いていますが、私の”実家”であったN酒店は”ごく普通の酒屋”で、ご多分に漏れずビールや月桂冠に代表されるNBの日本酒を中心にそれなりに売っていました。
規模も大きくもなく小さくもない”ごく普通の酒屋”だったのですが、私で三代目という”歴史”もあり、それなりに評価されていたと思われます。
その”ごく普通の酒屋”であるN酒店の店頭の「一番良い場所」に、〆張鶴や八海山を持ち込んで並べたのは、私の反抗でもあり”私の居場所”を造るためであり、将来を見越した「酒販店として差別化」がその理由ではなかったのです。
そして〆張鶴や八海山、早福酒食品店を訪れるためによく新潟県に行ったのも、”仕事上の出張”と言うよりも「期間、場所限定の家出」と言ったほうが実態に即していました。
この「期間、場所限定の家出」は短い場合でも4~5日で長いと一週間になったのですが、
それだけ私が店に居なくても、N酒店の営業に支障がでなかった”事実”が、この時期の私の”存在の軽さ”を証明しています。

月桂冠や剣菱を買いに来て、〆張鶴や八海山の話を長い時間聞かされたお客様も”閉口された”と思われますが、ごく少数の〆張鶴や八海山を知っていてN酒店に来店されたお客様も大量の灘、伏見のNBの中に”同列に置かれている”のを見て”面食らった”と思われます。
このときの私にあったのは、たぶん、熱意とその熱意を良いほうに”誤解”してくれるきわめて少数の理解者だけだったのです。

”追い風”がまだ私の住む北関東のH市までは届いていないという”事実”は、裏を返せば、月桂冠に代表される灘、伏見のNBがブランドとしての戦闘力を保持していて、まだ売れることを意味していました。
しかし〆張鶴・宮尾酒造や早福岩男さんとの「言葉のキャッチボール」の中で、そう遠くない将来に灘、伏見のNBがブランドとしての戦闘力を失い価格競争に巻き込まれていくことを、おそまつで能天気な私でも予想できていました。

まだビールやNBの日本酒が、”普通の価格”で売れているという状況が続いているうちに、〆張鶴 純 を将来の柱にするための”最初の関門”の年間1000本の実績を全力で取りに出なければならないことを、〆張鶴・宮尾酒造の「下期割り当てのお知らせ」が、私に教えてくれたのです。


売れる本数を売っているだけでは、数年で1000本の壁を越えることは到底出来ません。
「下期割り当て」が終了した翌年の4月~9月に昨年の実績を大幅に上回る数字を、私は発注したのです。
当時は新潟淡麗辛口といえども需要の中心は冬場であり、春先から夏は不需要期になり〆張鶴・宮尾酒造の取引酒販店といえども需要が落ちるため、蔵には僅かですが余裕が生じることもあってオーダーどうりの数字ではないにせよ、出来る限り実績を超えた本数を蔵は送ってくれました。
私はその〆張鶴 純 を来店するお客様だけではなく、親戚・縁者・友人・知人を問わず事情の許す限り「試飲してもらう人の拡大」に使わせてもらったのです。

そしてまた”下期割り当て”がやってくるのですが、その冬にはまだ”実績割当”になっていなかった〆張鶴活性生、〆張鶴しぼりたて生原酒をできるだけ発注し「試飲してもらう人の拡大」に使ったのですが、季節限定ということもありまた生原酒は売れ残っても冷蔵保存(0~2度C)すればその”魅力が向上”することも手伝って、配ることは配ったのですが予想以上に反応が良く”冷蔵能力の不足”に襲われる結果となってしまったのです。

かなり以前に発売中止になり現在飲むことの出来ない〆張鶴活性生は、飲んだ人の記憶の中だけに存在する、「幻の〆張鶴」と言えるのかも知れません。
ざっくり言うと、〆張鶴活性生は、「絞る直前の醪を瓶詰め」したものです。
ほとんど、仕込み中の蔵に行かなければ飲めない醪と同じもので、発生し続ける炭酸ガスを抜くために瓶の栓の王冠に”穴”を開けて出荷されていた”要冷蔵必須品”だったのです。
高い温度に置いておくと、たとえ栓に穴が開いてようと”増大する炭酸ガスの圧力”で栓が天井にまで”吹っ飛ぶ”管理が楽ではない日本酒なのですが、その爽やかな風味には今でも忘れられない魅力がありました。
いろいろな事情があり、再発売は難しいことは私自身も承知しておりますが、私の周囲からは仕込みの時期になると必ず、「昔のように〆張の活性生を飲みたいなぁ----」との声が聞こえてきます。
「直接お会いする機会があれば超限定で、輸送もクール便で着くと同時に冷蔵庫に保管という条件で再発売していただけないかと宮尾行男社長にお願いしてみようと考えてはいるけど、その実現は難しいかも--------」と答えることしか私には出来ないのです。

その後私は、冷蔵能力増強のため、0~2度Cの温度を保持する2坪のプレハブ冷蔵庫を設置し、上半期は〆張鶴 純 を冬場は活性生やしぼりたて生原酒を蔵から送って頂けるだけ冷蔵庫に入れ続けることになるのです。
しかしそれも長くは続かなかったのです。

昭和五十年代終盤になると、〆張鶴は取り扱い全アイテムが完全な”年間割り当て”にならざるを得ないほどの”逼迫状況”に蔵は追い込まれていました。
私の店でも、大吟醸、特級、1級、2級の本醸造、純のみならず、活性生、しぼりてて生原酒をも含めた「完全な年間月別数量割り当て」の状況下にありました。
しかし昭和五十年代前半からの「売れても売れなくても実績を拡大するという”方針”」のおかげで、〆張鶴の販売数量自体は関東の他の正規取扱店と比べて極端に多くなくても、純と活性生、しぼりたて生原酒の割り当て数量が他の正規取扱店に比べてかなり多いという状況にありました。
料飲店との取引ももちろんゼロでありませんでしたが、エンドユーザーの消費者の庶民の酒飲みを中心に販売しようとしていたため、元々取引がありかつ最初の頃から取り扱っていただいた少数の料飲店以外は〆張鶴を販売していなかったたため、以前からのお客様には迷惑をかけずに済んでいましたが、きわめて強く吹き始めていた〆張鶴への”追い風”が運んでくれた「〆張鶴 純 を求めて来店される”新規のお客様”」への対応には苦慮することとなったのです。

〆張鶴 純 は高くなったその知名度と”希少な美味い純米酒であること”と、需要に対する供給量の少なさも手伝って、エンドユーザーの消費者とっては、正規取扱店段階で実感している”逼迫状況”よりもかなりひどい”逼迫状況下”」にあったと思われます。
「〆張鶴 純 は、たとえ正規取扱店であっても酒販店で”買える酒”ではなく、料飲店で”お一人様二合まで”という限定条件で飲む酒」-------残念ながら、多くの庶民の酒飲みの”実感”はこのようなものであったと思われます。
私の店に来店された”新規のお客様”も、〆張鶴 純 の名前や”その中身の美味さ”を知っていても、白いレッテルが貼られ白い箱にはいった”その外装”を見たことのない人がほとんどだったのです。

この時期、夏であっても〆張鶴は純だけでも月100本以上入荷し本醸造も含めると200本以上入荷するようになっていましたが、7~8月の夏場でも本醸造には若干の余裕はありましたが、純は苦しい状況になっていました。
夏場の入荷本数は、11月~1月の最大需要期のための”ストック”の意味合いで全量2坪の冷蔵庫で”冷蔵保管”するのが、”本来の目的”でした。
その酒造年度により違いはありましたが、毎年5%から10%の間くらいの昨年度実績に対する”プラスされた本数”はあったのですが、もともと11月~1月の実績本数は「需要に対応出来るほど多くなかった」ため夏場の実績を”冷蔵保管によってスライドさせて”補っていたのです。

しかし新潟淡麗辛口は、八海山や千代の光も含めて”冷やして飲む需要”も多く、
「冷やして飲むなら冬場も美味いが夏場もより美味い」------という声が多くなり、冷蔵保管の0~2度Cの温度が家に持ち帰っても家庭用冷蔵庫で冷やすのと同じくらい”冷えている”ことも手伝い、”ストック”が難しくなるほど売れるようになってしまったのです。
その状況下に、「〆張鶴 純 を求めて来店される”新規のお客様”」が増え始め、私はさらに苦しい局面に立たされたのです。

「酒は面白くて楽しいもの」、「酒は庶民の楽しみ」、「酒が庶民の楽しみである以上、酒を造る人間も酒を売る人間も庶民の立場に立たなければいけない」、「鶴の友は長い間お世話になっている地元の人に飲んでもらうために造っているのであって、都会や県外の人のために造っているつもりはない」---------鶴の友・樋木尚一郎社長の考え方を、”知識あるいは理屈”として理解することは難しいことではないのかも知れません。
たぶんほとんどの人は、積極的な否定はしないと思われます。
しかしそれを”知識や理屈”では無く、日常的でごく当たり前の”肌の感覚”として捉えることはきわめて難しく、鶴の友・樋木尚一郎社長の「ごく当たり前の日常」を見せていただいた私はまるで「何の準備も心構えも無く軽い気持で来てみたら、目の前にアイガー北壁があった」ような”心境”で、最小限の消極的肯定ですらおそまつで能天気な私には大変な”困難”に思えたのです。

上記は、鶴の友について-3--NO1(http://blog.goo.ne.jp/sakefan2005/d/20090902)の引用です。


この苦しい局面に立たされたとき、私は鶴の友・樋木尚一郎社長が私に教え続けてくれていた考え方を、ほんの僅かですが”肌の感覚”で捉えることが可能になり始めたのかも知れません。

「〆張鶴 純 を求めて来店される”新規のお客様”」のお住まいが”都会であればあるほど”、酒販店で普通の価格で買うことが難しい状態にある事実は、残念ながら私も十分承知しており(日本酒のファンの一人として)お気の毒だとも思っていました。
〆張鶴の看板を掲げた酒販店である以上、何とか対応したい気持も弱くはなかったのですが「売る本数より投げる本数のほうがはるかに多い」ときから支持してくれ、その支持を年を経るごとに拡大再生産してくれた、私にとって大切な地元のエンドユーザーの消費者である庶民の酒飲みのための本数を削ってまで対応することは、私にはとうてい出来ないことだったのです。

私の店の”地元のお客さん”は、昭和五十年代初めより〆張鶴 純 の販売を支えてくれたのですが、それは〆張鶴 純 が有名だったからでもなく純米酒だったからでもありません。
その時点では私の地元H市では無名に近かった、〆張鶴 純 の伝統を受け継ぎながらの”革新的な新しさ”を認め支持してくれたごく少数の同世代の人達と、私の熱意そのものを「応援し育ててやろう」と手助けをしてくれた私の周囲の兄や叔父さんにあたる世代の人達の好意的な応援があって始めて「売れても売れなくても実績を拡大する”方針”」を私は取ることができ、その私にとって本当にありがたい人達の地元における”好意的応援の拡大再生産”が私の店の「〆張鶴の逼迫状態」を造りだしてくれたのです。

この時期から〆張鶴、八海山もその酒質よりも手に入り難い希少性、言い換えれば”幻しの酒的部分”に評価の対象が移り始め、新潟淡麗辛口も、
「地に足の着いた需要から、ブームあるいはバブルと言るかも知れない、急拡大していくと予想できた”足場の弱い不安定な需要”」にその照準を合わせ始めたように、今の私には感じられます。
その象徴的な出来事が、朝日酒造の”久保田の発売”だったように私には思えます。

良いとか悪いとかではありませんが、私自身が体験してきた昭和五十年代初めからの”時代”と久保田が発売された昭和六十年以降の”時代”では、日本酒の世界の片隅にいた自分自身の”実感”では大きな違いがあるように思えます。
久保田以前(の世代)、久保田以後(の世代)という言葉を私はブログの中で何回も使わせてもらっていますが、私が新潟淡麗辛口を知ることになって僅か十年で新潟淡麗辛口は大きくその姿を変え酒造・酒販の日本酒の世界全体も大きく変化したと、私には思えてならないからです。

自分の好きなもの(あるいは商品)は時間が経っても変わることはあまりありませんが、売れるもの(商品)は時間の経過とともに変わっていきます。
昭和五十年代自分の好きなものであった新潟淡麗辛口も、昭和六十年以降は売れる商品になっていましたが、私自身もその流れに逆らわずにそれなりに”適応”していましたが、”人の縁”が原点だった私は新潟淡麗辛口を”売れる商品”としての存在だけではなく、やや大袈裟に言うと、私自身のある種の「考え方、スタンスを表現することが出来る存在」としても捉えていたように思われるのです。

私は何回も書いてるとうり、新潟淡麗辛口の「ブームのピーク以前」の平成三年に”日本酒の業界”を離れたため、日本酒バブルと言えた時期もそのバブルがはじけ焼酎ブームに押され続け、全アルコール飲料のシェアで焼酎の11.4%を大きく下回る7.6%にまで落ち込んだ現在に至るまで”日本酒の現場”を離れていたせいか、
「生きているタイムカプセルのように、久保田以前の昭和五十年代の”感覚”」が今も強く私には残っていて、それがかつて酒販店だった人間としても私を「ある意味で特殊な経歴を持つ、毛色の変わった人間」にしているのかも知れません。


昭和五十年代は、少なくても新潟淡麗辛口をその中心とした”地酒の蔵”と、エンドユーザーの消費者との”距離”が今よりも近く、私自身と同世代の若い層の日本酒のファンも少なくはなかったのです。
蔵と酒販店の関係も、人によりあるいは状況により”違い”があったにせよ、商売上だけのお付き合いだけではない人間対人間の”交流”があり、現在よりお互いの”距離”があまり離れていなかったように思えます。
時代が違う以上当たり前なのかも知れませんが、その昭和五十年代の視点で見ると現在の酒造・酒販の日本酒業界には、私個人は”違和感”を感じることが少なくありません。
その大きなひとつが「純米酒と生酛に対する考え方と評価」なのです。

私は昭和五十年代初めに〆張鶴 純 に出会ったのですが、その数年後には伊藤勝次杜氏の生酛を知り伊藤勝次杜氏の生酛単体での本醸造、純米の発売を強く蔵に要望することになります。
その当時は純米酒であることも生酛であることも「ステータスでは無い時代」で、純米酒そのものも現在よりはかなり少なくエンドユーザーの消費者にも知られておらず、強い”こだわり”を持つごく一部の蔵だけが造っていた純米酒しか、「飲んで美味いと思える純米酒」が無い時代だったのです。

純米酒を造ること自体はほとんどの蔵で可能だったと思われますが(実際にある程度の数量は造られていました)、酒化率が悪く高コストのため価格が高くなってしまうだけではなく、重くて、くどくて、しつこい-------ふつうに造ると”純米三悪”と言われたような”飲みにくい酒質”になりがちで、「糖類が添加されたNBの2級酒のほうがまだしも飲みやすくて美味い」と言われてしまうような状況だったのです。
その中の数少ない飲んで美味いと感じることが可能な純米も、瓶詰後の”美味さの保全”が簡単ではなく、”瓶詰め後の管理”に苦労があったのです。

〆張鶴 純 の”革新的新しさ”は、皮肉な言い方になるかも知れませんが、「純米という足を引っ張る”ハンデ”があるのに、あれだけ淡麗で綺麗な切れの良い酒を造れるのは凄い」という言葉で説明することが出来るのかも知れません。
しかも瓶詰め後の”管理”に苦労しなくてすむ”芯の強さ”も、〆張鶴 純 は併せ持っていたのです。


昭和五十年代半ばの頃と記憶しているのですが、宮尾行男専務(現社長)が珍しく苦笑を交えて、
「新規取引を希望されて蔵に来られる酒販店の方に、〆張鶴 純 は本当に純米で造っているのですか。
あの綺麗さと切れの良さは本醸造でなければ出ないと思うのですがと”質問”されたのですが、”もちろん純米です”とお答えしたのですが、私には思いがけない”質問”だったので----------」
と話してくれたことがあります。

この酒販店の方は、取引を求めて〆張鶴・宮尾酒造を訪れるくらいですから、他の蔵や他の純米酒をよくご存知だったからこその”質問”だったと、私には思えますし私にもその気持は少し分かるような気がします。
「軽快で、切れが良く、そっけないとは感じないまるみとやわらかさがあり、食べ物の味を邪魔もしないし、人間の体にも優しく酔いがさめるのも早い」-------これが新潟淡麗辛口に私が感じていたイメージなのですが、新潟の酒蔵といえどもごく一部の蔵でしか本醸造で実現していなかったイメージどうりの淡麗辛口を、その当時の一般的な”純米酒の造り”で実現させることには大きな困難があったからです。

「従来の日本酒のイメージを大きく破った淡麗辛口の、純米酒に有りがちな重さ、くどさや切れの悪さが無い純米酒らしくない純米酒」---------だからこそこの酒販店の方は、受け止めようによっては蔵元に対して失礼ではないかとも感じられる、無遠慮で素朴な”質問”をしてしまったと私には思えるのです。

誤解されると困るのであえて書いておきますが、私はこの当時も(現在もですが)新潟淡麗辛口だけが良いと思っていた訳ではありません。
もしそう思っていたなら、昭和五十年代半ばに南会津の國権や伊藤勝次杜氏の生酛の本醸造や純米酒を、苦戦しながらも売ろうと努力するはずもありません。
私が言いたいのは、昭和五十年代の新潟淡麗辛口は、エポックメーキング的存在であり酒造技術的側面においてもたとえごく一部の蔵だけであっても”最先端”を求め続けていた---------ということだけなのです。

昭和度五十年代前半に完成していた〆張鶴 純 の存在は、現在では当たり前と思える
純米酒のひとつの”基準”を造ったと、私は思っています。
その”基準”とは、平均精米歩合は60%かそれ以下の58%前後まで削り、清酒鑑評会用の出品吟醸酒の造りに準じた造りをしない限り、(淡麗辛口タイプだけではなくその他のタイプをも含めて)飲んで美味いと思える純米酒にはならない------という”基準”です。
その”基準に適合”した純米酒が、昭和五十年代後半から徐々に増え始め平成に入るとかなり多くなったのですが、残念ながら庶民の酒飲みの”晩酌で飲む酒”ではなくなり、”純米吟醸という形”で存在するようになったのです。
現在の〆張鶴 純 も純米吟醸となっています--------”純米吟醸という形”の中でもその高い酒質に比べ三千円強という価格は「きわめて安い」と思われますが、現在でも「毎日晩酌で飲めるほどの本数を確保」することのほうに大きな困難が存在しています。


昭和五十年代に比べると、現在の純米酒の”環境”は大きく変わっています。
灘、伏見のNBのみならず地方の地酒の蔵でも、「ワンカップの純米酒や紙パックの純米酒」を販売しているのは、現在は、さして珍しいことではなく普通の状況となっています。
エンドユーザーの消費者の間にも”認知度”が高くなり、日本酒(清酒)というカテゴリーの中で、今は、「半分とまではいかないが、三分の一くらいは独立した”分野”」として”純米酒という分野”が存在しているかのような印象を持つ人達が増えている---------そんな感じを私自身は持っています。

純米酒の数量が増えフィールドが拡大している事実は、純米酒という”分野の中”に酒質的にも価格的にも販売可能数量的にも、”ぴんきりの差”が拡大し”玉石混交の度合い”が拡大していることを意味していると思われるのですが、その中でどんなレベルの、どんなタイプの、どんな銘柄の純米酒を選ぶかで、「ご自分の個性や”酒に対する考え方”を表現”できる」ことがある程度可能になるほどには、”純米酒の世界”は拡大し成長してきたのではないか------とも私には思われるのです。
そうでなければ、南会津の細井信浩専務の國権のように約600石の販売石数の50%以上が純米吟醸、純米酒で占められている蔵が存在するはずもないのです。
かつてより純米酒を”愛飲”する人達が増えていることは、私自身にとっても喜ばしいことなのですが---------。

私自身が直接見聞きしたり、ネット上に公開されたブログで拝見させてもらった「純米優先主義、純米至上主義」の方々のご意見は、私自身が完全に同意することは難しくても、ひとつの「好み、あるいは考え方」としてあることは、私も十分理解できます。
しかし、純米酒を愛飲する層のごく一部には、「純米酒以外は本物の日本酒(清酒)とは言えない」--------あたかも「純米原理主義のような極端な意見」と私には思える、「好み、考え方」を持つ方もいらっしゃるようですが、この方々の意見には私自身は弱くない”違和感”を感じます。

昭和五十年代前半に比べ現在は、純米酒の販売石数が飛躍的に伸びているだけではなく、純米酒の酒質が全体としてかなり向上していることは、おそまつで能天気な私でも十分に理解できます。
しかし、「純粋、自然、本物、本来の、混ぜ物の無い------」などのあたかも”健康飲料”をイメージするような言葉で語られる”純米酒”と、「昔からの、日本酒本来の伝統を受け継ぐ、本物の酒」という表現で語られる”純米酒”には、私自身は少し”違和感と抵抗”を感じているのです。



以下の私個人の”考え”は、”屁理屈”に近いのではと私自身も感じる面があるのですが、昭和五十年代初めから純米酒を見せてもらってきた私自身の、正直な”感想”でもあるのです。


日本酒(他のアルコール飲料も同じですが)は、飲み方を誤れば身体を悪くし命を危うくする可能性もある、アルコール依存症の危険性もある、「健康食品や健康飲料そのもの」ではないと私は考えてきました。
正しい飲み方・楽しみ方をすれば、「面白くて楽しいだけではなく、『酒は百薬の長』と言われるように健康増進や健康の維持の役に立つ日本人の身体に優しい日本伝統のアルコール飲料」-------それが私が感じてきた”日本酒の姿”なのです。

「昔からの、日本酒本来の伝統を受け継ぐ」------この”昔から”の昔がどの時代までを含めているのかはよく分からないのですが、もし明治四十年以前の時代をも含むとしたら、「現在の純米酒のほとんどは『日本酒本来の伝統を”完全に”受け継いでいる』」とは言い難い面が私はあると感じています。

ごくごく一部の生酛の純米酒以外の現在の純米酒のほとんどは、速醸酛かあるいは山廃酛で造られていると思われます。
醸造試験場において、山廃酛が開発されたのが明治42年、速醸酛の開発は明治43年だったと私は記憶しています。
酛(酵母の培養液)という造りの根幹をなす部分に大きな変更が加えられている以上、明治四十年以前の生酛で造られていた純米酒と現在の純米酒がまったく同じものとは、私には思えないのです。
もし「昔の造り方を寸分違えずに受け継ぐことが”伝統の継承”」だとしたら、現在の日本酒は”伝統を継承”していないことになり、純米酒もその例外ではない-------ということになると私には思われるのです。

では、ごくごく一部の生酛の純米酒はどうでしょうか。
確かに生酛純米は、現在の日本酒の中では一番”伝統を継承”していると言えるのかも知れません。
しかし、私は酒販店を離れて以来”業界の情報”に疎くなっているためか、”家付き酵母と言われる野生酵母”で現在も造られている生酛の純米酒を私は見たことがありません。
私が昭和五十年代半ばに、酒販店としてその発売に関わった伊藤勝次杜氏の生酛の純米酒も、純粋な培養酵母である協会7号酵母を使っていたと私は記憶しています。

明治40年から市販が始まり昭和三十年代に一般的になった、野生酵母とはまったく違う純粋に培養された協会酵母の”目的”は、「酒であるが、造りに失敗し酒とは言えない状態」--------腐造の可能性の低減と、酒質の”再現性”の追及にあったと私は伺っていました。
協会酵母は”酒質の再現性と酒質の向上”に大きく寄与したと思われますが、明治40年以前には存在していないため、協会酵母を使用したとするなら、生酛の純米酒も「完全には”伝統を継承”している」とは、私には思えないのです。

私個人の個人的考えに過ぎませんが、現在の日本酒は”速醸酛、山廃酛、協会酵母”のいずれかの”恩恵”を受けている以上、純米酒であろうとなかろうと生酛であろうとなかろうと、濃淡の差が大きくあろう少なかろうと、「明治40年以前の造りを寸分違えずに受け継ぐという意味での”伝統の継承”」は行なわれていないと------屁理屈に近いと自分自身でも感じるのですが-------私にはそう思えるのです。

「伝統を受け継ぐということは、先人の ”デットコピ-”をすることではない。これでもか、これでもかと ”ぶち壊そう”としても ”ぶち壊せない”ものが伝統なんだ。伝統を受け継ぐには ”熱い気持ち”が必要なんだ。酒としていくら立派でも、博物館に入ってしまったら意味が無いんだ」-----嶋先生に伺った ”全文”はこのようなものでした。

これは、私が2005年8月に書いた「長いブログのスタートです」の博物館の項目からの引用です。
http://blog.goo.ne.jp/sakefan2005/d/20050831


私は若いころ、この嶋悌司先生(元新潟県醸造試験場長、元朝日酒造専務)の”伝統の受け継ぎ方”のお考えを直接伺って以来、この”伝統の受け継ぎ方”の信奉者でそれは今も変わっていません。
その”考え方”を、〆張鶴 純 に代表される新潟淡麗辛口、伊藤勝次杜氏の生酛、南会津の國権を昭和五十年代から平成の初めにかけて販売してゆく中で、”消化し受け止められる点”だけでもおそまつで能天気なりに”実践”していこうとしてきた私にとって、”デットコピーの伝統の継承”の考え方は”屁理屈”に近いものなのです。
その”屁理屈”に近い考え方をあえて述べたのは、現在の純米酒に対する”風潮”への批判や攻撃のためではありません。