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のため文字数の制限でカットされる記事を分割して再掲します。
白いレッテルが貼られ白い化粧箱に入れられていた〆張鶴 純 の”外側”は、その”中身”と高い次元でバランスしていた-------そんな思いが今でも私には強く残っています。
白い箱と白いレッテルに目立つように印刷されていた”純の字”は、故宮尾隆吉前社長がご趣味だった水彩画用の絵筆を使って書かれた-------私にはそう伺った記憶が残っています。
中身の酒質と外装が高い次元でバランスし”渾然一体”となっていた〆張鶴 純 に、私が感じたものは伝統を受け継ぎながらの「新しさ、それも革新的な新しさ」だったのです。
三十年以上の時間が経過した現在も、その中身と外装の”コンセプト”が変わっていない〆張鶴 純 がまったく”古びていない”事実が、出会った最初に感じた「革新的な新しさ」が間違いでなかったことを証明している-------私にはそう思えるのです。
”時代の風”が〆張鶴 純 にとって追い風になる------私はそう確信していたのです。
大苦戦をしていることが、北関東の地方都市のH市まではその”追い風”がまだ十分に届いていないことを証明していましたが、時間の経過が”味方”になることを私は強く意識していたのです。
また、〆張鶴・宮尾酒造の製造石数、特に全体の10%以下でしかなかった純米酒の増石には限界があることを”認識”せざるを得なかったため、”追い風”を誰もが認識できるようになる時間との”競争”で、〆張鶴 純 の”割り当て実績”を現時点の地元H市の〆張鶴 純 のファンだけではなく”将来のファンのため”にも、一本でも多く獲得しなければならないことも、私は強く意識していたのです。
全体の量が10%しか増えないとき、あるいは”悪平等”なのかも知れませんがいくら増量の要望があろうとも、昨年の実績に対して一律10%のアップしか”現実的な方法”はありません。
年間300本の実績の10%アップは30本で合計で330本、年間1000本の実績の10%アップは100本で合計1100本になります---------蔵自体が動きが取れない完全な逼迫状況になったときの年間割り当ての330本はどうしようもない本数ですが、1100本なら少ないなりに(来店されるお客様のご希望どうりには対応できないまでも)何とかすることができます。
それゆえに、なるべく早く年間1000本の”壁”を破る必要性を、私は強く感じていたのです。
私が〆張鶴・宮尾酒造と取引をさせていただいた最初の年から、下半期は月30本の割り当てになりました。
「このままの状況だと12月までで酒が1本も無くなってしまいますので---------。」というやもを得ない理由だったのですが、”追い風”が私の店に届くより前に〆張鶴 純 の逼迫が迫っていたのです。
取引を始めさせてもらってからの半年の間に、私は〆張鶴・宮尾酒造を3回訪れていました。
おそまつで能天気な私は「自分が何も知らないこと」を自覚していましたので、今思うと大変なご迷惑をおかけしたのではと反省しているのですが、初歩の初歩のようなことも含め「自分が知りたいことを」宮尾行男専務(現社長)、宮尾隆吉社長(故人)に質問し教えていだだいていました。
そして村上の帰りには必ず新潟市に回り、早福岩男早福酒食品店社長(現会長)に新潟淡麗辛口の銘柄のことだけではなく、その新潟淡麗辛口を「どのように売っていくか」-------その当時の酒販店の常識では逆立ちしても考えられなかった「町の酒屋としての生き方」も教えてもらっていたのです。
”大苦戦”の中での”下期割り当て”の知らせを聞いたとき、自分の”確信”を現実に近づけるため、(今思うと大袈裟で穴があったら入りたい心境になりますが)やれるだけやってみようと覚悟をしたのです。
以前に何回も書いていますが、私の”実家”であったN酒店は”ごく普通の酒屋”で、ご多分に漏れずビールや月桂冠に代表されるNBの日本酒を中心にそれなりに売っていました。
規模も大きくもなく小さくもない”ごく普通の酒屋”だったのですが、私で三代目という”歴史”もあり、それなりに評価されていたと思われます。
その”ごく普通の酒屋”であるN酒店の店頭の「一番良い場所」に、〆張鶴や八海山を持ち込んで並べたのは、私の反抗でもあり”私の居場所”を造るためであり、将来を見越した「酒販店として差別化」がその理由ではなかったのです。
そして〆張鶴や八海山、早福酒食品店を訪れるためによく新潟県に行ったのも、”仕事上の出張”と言うよりも「期間、場所限定の家出」と言ったほうが実態に即していました。
この「期間、場所限定の家出」は短い場合でも4~5日で長いと一週間になったのですが、
それだけ私が店に居なくても、N酒店の営業に支障がでなかった”事実”が、この時期の私の”存在の軽さ”を証明しています。
月桂冠や剣菱を買いに来て、〆張鶴や八海山の話を長い時間聞かされたお客様も”閉口された”と思われますが、ごく少数の〆張鶴や八海山を知っていてN酒店に来店されたお客様も大量の灘、伏見のNBの中に”同列に置かれている”のを見て”面食らった”と思われます。
このときの私にあったのは、たぶん、熱意とその熱意を良いほうに”誤解”してくれるきわめて少数の理解者だけだったのです。
”追い風”がまだ私の住む北関東のH市までは届いていないという”事実”は、裏を返せば、月桂冠に代表される灘、伏見のNBがブランドとしての戦闘力を保持していて、まだ売れることを意味していました。
しかし〆張鶴・宮尾酒造や早福岩男さんとの「言葉のキャッチボール」の中で、そう遠くない将来に灘、伏見のNBがブランドとしての戦闘力を失い価格競争に巻き込まれていくことを、おそまつで能天気な私でも予想できていました。
まだビールやNBの日本酒が、”普通の価格”で売れているという状況が続いているうちに、〆張鶴 純 を将来の柱にするための”最初の関門”の年間1000本の実績を全力で取りに出なければならないことを、〆張鶴・宮尾酒造の「下期割り当てのお知らせ」が、私に教えてくれたのです。
売れる本数を売っているだけでは、数年で1000本の壁を越えることは到底出来ません。
「下期割り当て」が終了した翌年の4月~9月に昨年の実績を大幅に上回る数字を、私は発注したのです。
当時は新潟淡麗辛口といえども需要の中心は冬場であり、春先から夏は不需要期になり〆張鶴・宮尾酒造の取引酒販店といえども需要が落ちるため、蔵には僅かですが余裕が生じることもあってオーダーどうりの数字ではないにせよ、出来る限り実績を超えた本数を蔵は送ってくれました。
私はその〆張鶴 純 を来店するお客様だけではなく、親戚・縁者・友人・知人を問わず事情の許す限り「試飲してもらう人の拡大」に使わせてもらったのです。
そしてまた”下期割り当て”がやってくるのですが、その冬にはまだ”実績割当”になっていなかった〆張鶴活性生、〆張鶴しぼりたて生原酒をできるだけ発注し「試飲してもらう人の拡大」に使ったのですが、季節限定ということもありまた生原酒は売れ残っても冷蔵保存(0~2度C)すればその”魅力が向上”することも手伝って、配ることは配ったのですが予想以上に反応が良く”冷蔵能力の不足”に襲われる結果となってしまったのです。
かなり以前に発売中止になり現在飲むことの出来ない〆張鶴活性生は、飲んだ人の記憶の中だけに存在する、「幻の〆張鶴」と言えるのかも知れません。
ざっくり言うと、〆張鶴活性生は、「絞る直前の醪を瓶詰め」したものです。
ほとんど、仕込み中の蔵に行かなければ飲めない醪と同じもので、発生し続ける炭酸ガスを抜くために瓶の栓の王冠に”穴”を開けて出荷されていた”要冷蔵必須品”だったのです。
高い温度に置いておくと、たとえ栓に穴が開いてようと”増大する炭酸ガスの圧力”で栓が天井にまで”吹っ飛ぶ”管理が楽ではない日本酒なのですが、その爽やかな風味には今でも忘れられない魅力がありました。
いろいろな事情があり、再発売は難しいことは私自身も承知しておりますが、私の周囲からは仕込みの時期になると必ず、「昔のように〆張の活性生を飲みたいなぁ----」との声が聞こえてきます。
「直接お会いする機会があれば超限定で、輸送もクール便で着くと同時に冷蔵庫に保管という条件で再発売していただけないかと宮尾行男社長にお願いしてみようと考えてはいるけど、その実現は難しいかも--------」と答えることしか私には出来ないのです。
その後私は、冷蔵能力増強のため、0~2度Cの温度を保持する2坪のプレハブ冷蔵庫を設置し、上半期は〆張鶴 純 を冬場は活性生やしぼりたて生原酒を蔵から送って頂けるだけ冷蔵庫に入れ続けることになるのです。
しかしそれも長くは続かなかったのです。
昭和五十年代終盤になると、〆張鶴は取り扱い全アイテムが完全な”年間割り当て”にならざるを得ないほどの”逼迫状況”に蔵は追い込まれていました。
私の店でも、大吟醸、特級、1級、2級の本醸造、純のみならず、活性生、しぼりてて生原酒をも含めた「完全な年間月別数量割り当て」の状況下にありました。
しかし昭和五十年代前半からの「売れても売れなくても実績を拡大するという”方針”」のおかげで、〆張鶴の販売数量自体は関東の他の正規取扱店と比べて極端に多くなくても、純と活性生、しぼりたて生原酒の割り当て数量が他の正規取扱店に比べてかなり多いという状況にありました。
料飲店との取引ももちろんゼロでありませんでしたが、エンドユーザーの消費者の庶民の酒飲みを中心に販売しようとしていたため、元々取引がありかつ最初の頃から取り扱っていただいた少数の料飲店以外は〆張鶴を販売していなかったたため、以前からのお客様には迷惑をかけずに済んでいましたが、きわめて強く吹き始めていた〆張鶴への”追い風”が運んでくれた「〆張鶴 純 を求めて来店される”新規のお客様”」への対応には苦慮することとなったのです。
〆張鶴 純 は高くなったその知名度と”希少な美味い純米酒であること”と、需要に対する供給量の少なさも手伝って、エンドユーザーの消費者とっては、正規取扱店段階で実感している”逼迫状況”よりもかなりひどい”逼迫状況下”」にあったと思われます。
「〆張鶴 純 は、たとえ正規取扱店であっても酒販店で”買える酒”ではなく、料飲店で”お一人様二合まで”という限定条件で飲む酒」-------残念ながら、多くの庶民の酒飲みの”実感”はこのようなものであったと思われます。
私の店に来店された”新規のお客様”も、〆張鶴 純 の名前や”その中身の美味さ”を知っていても、白いレッテルが貼られ白い箱にはいった”その外装”を見たことのない人がほとんどだったのです。
この時期、夏であっても〆張鶴は純だけでも月100本以上入荷し本醸造も含めると200本以上入荷するようになっていましたが、7~8月の夏場でも本醸造には若干の余裕はありましたが、純は苦しい状況になっていました。
夏場の入荷本数は、11月~1月の最大需要期のための”ストック”の意味合いで全量2坪の冷蔵庫で”冷蔵保管”するのが、”本来の目的”でした。
その酒造年度により違いはありましたが、毎年5%から10%の間くらいの昨年度実績に対する”プラスされた本数”はあったのですが、もともと11月~1月の実績本数は「需要に対応出来るほど多くなかった」ため夏場の実績を”冷蔵保管によってスライドさせて”補っていたのです。
しかし新潟淡麗辛口は、八海山や千代の光も含めて”冷やして飲む需要”も多く、
「冷やして飲むなら冬場も美味いが夏場もより美味い」------という声が多くなり、冷蔵保管の0~2度Cの温度が家に持ち帰っても家庭用冷蔵庫で冷やすのと同じくらい”冷えている”ことも手伝い、”ストック”が難しくなるほど売れるようになってしまったのです。
その状況下に、「〆張鶴 純 を求めて来店される”新規のお客様”」が増え始め、私はさらに苦しい局面に立たされたのです。
「酒は面白くて楽しいもの」、「酒は庶民の楽しみ」、「酒が庶民の楽しみである以上、酒を造る人間も酒を売る人間も庶民の立場に立たなければいけない」、「鶴の友は長い間お世話になっている地元の人に飲んでもらうために造っているのであって、都会や県外の人のために造っているつもりはない」---------鶴の友・樋木尚一郎社長の考え方を、”知識あるいは理屈”として理解することは難しいことではないのかも知れません。
たぶんほとんどの人は、積極的な否定はしないと思われます。
しかしそれを”知識や理屈”では無く、日常的でごく当たり前の”肌の感覚”として捉えることはきわめて難しく、鶴の友・樋木尚一郎社長の「ごく当たり前の日常」を見せていただいた私はまるで「何の準備も心構えも無く軽い気持で来てみたら、目の前にアイガー北壁があった」ような”心境”で、最小限の消極的肯定ですらおそまつで能天気な私には大変な”困難”に思えたのです。
上記は、鶴の友について-3--NO1(http://blog.goo.ne.jp/sakefan2005/d/20090902)の引用です。
この苦しい局面に立たされたとき、私は鶴の友・樋木尚一郎社長が私に教え続けてくれていた考え方を、ほんの僅かですが”肌の感覚”で捉えることが可能になり始めたのかも知れません。
「〆張鶴 純 を求めて来店される”新規のお客様”」のお住まいが”都会であればあるほど”、酒販店で普通の価格で買うことが難しい状態にある事実は、残念ながら私も十分承知しており(日本酒のファンの一人として)お気の毒だとも思っていました。
〆張鶴の看板を掲げた酒販店である以上、何とか対応したい気持も弱くはなかったのですが「売る本数より投げる本数のほうがはるかに多い」ときから支持してくれ、その支持を年を経るごとに拡大再生産してくれた、私にとって大切な地元のエンドユーザーの消費者である庶民の酒飲みのための本数を削ってまで対応することは、私にはとうてい出来ないことだったのです。
私の店の”地元のお客さん”は、昭和五十年代初めより〆張鶴 純 の販売を支えてくれたのですが、それは〆張鶴 純 が有名だったからでもなく純米酒だったからでもありません。
その時点では私の地元H市では無名に近かった、〆張鶴 純 の伝統を受け継ぎながらの”革新的な新しさ”を認め支持してくれたごく少数の同世代の人達と、私の熱意そのものを「応援し育ててやろう」と手助けをしてくれた私の周囲の兄や叔父さんにあたる世代の人達の好意的な応援があって始めて「売れても売れなくても実績を拡大する”方針”」を私は取ることができ、その私にとって本当にありがたい人達の地元における”好意的応援の拡大再生産”が私の店の「〆張鶴の逼迫状態」を造りだしてくれたのです。
この時期から〆張鶴、八海山もその酒質よりも手に入り難い希少性、言い換えれば”幻しの酒的部分”に評価の対象が移り始め、新潟淡麗辛口も、
「地に足の着いた需要から、ブームあるいはバブルと言るかも知れない、急拡大していくと予想できた”足場の弱い不安定な需要”」にその照準を合わせ始めたように、今の私には感じられます。
その象徴的な出来事が、朝日酒造の”久保田の発売”だったように私には思えます。
良いとか悪いとかではありませんが、私自身が体験してきた昭和五十年代初めからの”時代”と久保田が発売された昭和六十年以降の”時代”では、日本酒の世界の片隅にいた自分自身の”実感”では大きな違いがあるように思えます。
久保田以前(の世代)、久保田以後(の世代)という言葉を私はブログの中で何回も使わせてもらっていますが、私が新潟淡麗辛口を知ることになって僅か十年で新潟淡麗辛口は大きくその姿を変え酒造・酒販の日本酒の世界全体も大きく変化したと、私には思えてならないからです。
自分の好きなもの(あるいは商品)は時間が経っても変わることはあまりありませんが、売れるもの(商品)は時間の経過とともに変わっていきます。
昭和五十年代自分の好きなものであった新潟淡麗辛口も、昭和六十年以降は売れる商品になっていましたが、私自身もその流れに逆らわずにそれなりに”適応”していましたが、”人の縁”が原点だった私は新潟淡麗辛口を”売れる商品”としての存在だけではなく、やや大袈裟に言うと、私自身のある種の「考え方、スタンスを表現することが出来る存在」としても捉えていたように思われるのです。