岩波書店月刊誌「世界」で開示されている文書
2010年末、2011年1月、2011年6月頃、2011年末、2012年1月の世界の開示文書です。この文書を読んで感じることは政治、経済、自然災害と社会情勢の変化です。
2010年下期尖閣諸島問題でゆれていたことが相当「過去のこと」に感じられます。しかし、1年半前のことでした。もうすぐ、3.11東日本大震災発生後、1年が経とうとしています。この1年が日本の政治経済の変化にどのような影響を及ぼしかが歴史の中で検証されると思います。
<2010年末の文書>
歴史は何のために在るか。建前としては、過ちを繰り返さないために在ることになっている。だが、現実には、つくづくそう思うのだが、手を変えて過ちをくりかえしてきたのが歴史ではないか。そのことを学ばせてくれるのが、また歴史だ。それをまたしても痛感させてくれるのが、今世紀の初めから進行している世界の経済 (金融) の歴史だ。この際だから言わせていただくと、ある時代の歴史をひもとくには、そのひとつ前の歴史と対比し、その間の異同を露わにさせるという骨法を、いつの間にか筆者は採るようになった。最近では、いまのアメリカの政治における対立の根を掘り起こすため、南北戦争、その背後にある聖書と奴隷制の問題を、翻訳を通じて解明を試み、得るところが大きかった。現在の世界がおちいっている長期停滞と対比されるべきは、もちろん1930年代の世界恐慌だ。 赤木昭夫 (元慶應義塾大学教授)
<2011年1月の文書>
事件や紛争が起こるたびに、いつのまにか一定の「構図」が造りだされる。それを受けて政界やメディアにおいて、この「構図」に沿った情報が大量に流され、有識者やアナリストといった人たちがワイドショーや政治バラエティで、それを補強するようなコメントを繰り返し、やがてこの「構図」は「世論」として定着していく。
尖閣問題でいえば日本と中国の対立図式であり、北朝鮮の砲撃問題でいえば、同国を抑制するのは中国の責任であるといった構図である。
しかし、冷静に事実関係を検証し、歴史を遡って問題を再検討すれば、前者は実は日米関係の問題であり、後者は何よりも北朝鮮と米国の問題であることが明らかとなってくる。こうした地道な作業に基づいて、既存の「構図」を根底から覆していくことが、今こそ求められているのではなかろうか。今回の拙論は、これに向けての一つの試みである。 豊下楢彦 (関西学院大学教授)
<2011年5月の文書>
原子力発電とは、ウランの核分裂反応を利用した蒸気機関である。今日標準的になった100万kWといわれる原発では1年間に1トンのウランを核分裂させる。広島原爆で核分裂したウランは800gであったから、優に1000倍を超える。原発は機械であり、事故を起こさない機械はない。原発を動かしているのは人間で、間違いを犯さない人間はいない。電気を多量に消費するのは都会だが、万一の事故のことを考えれば、原発を都会に立てることはできなかった。そこで、原発は過疎地に押し付けられ、厖大な電気を使う豊かな生活のためには「必要悪」と言われてきた。私は40年間、いつか破局的な事故が起きると警告してきた。何とか破局的な事故が起きる前に原発を止めたいと願って来た。しかし、福島原発事故は起きてしまった。現在進行中の事故を収束に向かわせるため、今後、多くの作業員が被曝する。周辺の多くの人々も、歴史を刻んできた土地を捨てて避難するか、被曝を覚悟で住み続けるか選択するしかない。それを思うと、言葉にできない無念さがある。
これほどの悲劇を前にまだ原発が運転され続けていることを、信じがたい気持ちで私は眺める。世論調査では、停電すると困るので原発は必要とする人が多数いると言う。もし、享楽的生活を続けるために電気が必要と言うのであれば、原発は是非都会に作って欲しい。それができないのであれば、電気が足りようと足りまいと原発は即刻全廃すべきものと私は思う。小出裕章 (京都大学原子炉実験所)
<2011年6月の文書>
情報とマネーとエネルギーの三つは、現代文明に欠かせないある種の「メディア」(媒介物)の役割を果たしている。見えにくく意識しにくいが故に、その有り様がその国や社会の政治と民主主義の成熟度や変化を表象している。
情報は、かつての情報公開の段階から、今やインターネットやフェイスブック、ウィキリークスまで生まれ、誰もが共有し、受け手であると同時に発信者という方向に大きく変わってきた。マネーも、リーマンショックやギリシアの通貨危機が起きて、ローカルに主体的な管理が意識されてきた。
その二つに比べ、エネルギーは「国策」として国民に閉じられてきた。その民主化の遅れが、福島第一原発事故という歴史的な大事故を招いた真因の一つであることが、その事故によって白日に晒された。
地域の自立とエネルギーの主権を私たちが取り戻すことが必要であり、今やそれを可能とする自然エネルギーという選択肢がある。飯田哲也 (環境エネルギー政策研究所)
<2012年1月の文書>
日本のエネルギー政策は内容もひどいが、それを決める議論の形にも大きな問題があった。担当の役所がほとんどのメンバーを指名する形で議論の組織を作り、「事務局」と称する役人が筋書きを書くという「審議会方式」で、政策が決められてきたからだ。
東京電力福島第1発電所の大事故を受けて始まったエネルギー政策の見直しの中では、この議論のプロセス自体を考え直すことも不可欠なはずなのだが、残念ながらこの姿は、事故後も変わらない。
エネルギー政策の見直しの中心となる総合資源エネルギー調査会の基本問題委員会の委員長を、同調査会の会長として過去のエネルギー基本計画を取りまとめた新日鉄の三村明夫会長が務めることには大きな違和感を感じる。
アカウンタビリティのないこんな方式はいい加減にやめ、真に民主的な政策議論と決定の仕組みを早急につくる必要がある。それはエネルギー政策に限った問題ではない。 井田徹治 (共同通信)
2010年末、2011年1月、2011年6月頃、2011年末、2012年1月の世界の開示文書です。この文書を読んで感じることは政治、経済、自然災害と社会情勢の変化です。
2010年下期尖閣諸島問題でゆれていたことが相当「過去のこと」に感じられます。しかし、1年半前のことでした。もうすぐ、3.11東日本大震災発生後、1年が経とうとしています。この1年が日本の政治経済の変化にどのような影響を及ぼしかが歴史の中で検証されると思います。
<2010年末の文書>
歴史は何のために在るか。建前としては、過ちを繰り返さないために在ることになっている。だが、現実には、つくづくそう思うのだが、手を変えて過ちをくりかえしてきたのが歴史ではないか。そのことを学ばせてくれるのが、また歴史だ。それをまたしても痛感させてくれるのが、今世紀の初めから進行している世界の経済 (金融) の歴史だ。この際だから言わせていただくと、ある時代の歴史をひもとくには、そのひとつ前の歴史と対比し、その間の異同を露わにさせるという骨法を、いつの間にか筆者は採るようになった。最近では、いまのアメリカの政治における対立の根を掘り起こすため、南北戦争、その背後にある聖書と奴隷制の問題を、翻訳を通じて解明を試み、得るところが大きかった。現在の世界がおちいっている長期停滞と対比されるべきは、もちろん1930年代の世界恐慌だ。 赤木昭夫 (元慶應義塾大学教授)
<2011年1月の文書>
事件や紛争が起こるたびに、いつのまにか一定の「構図」が造りだされる。それを受けて政界やメディアにおいて、この「構図」に沿った情報が大量に流され、有識者やアナリストといった人たちがワイドショーや政治バラエティで、それを補強するようなコメントを繰り返し、やがてこの「構図」は「世論」として定着していく。
尖閣問題でいえば日本と中国の対立図式であり、北朝鮮の砲撃問題でいえば、同国を抑制するのは中国の責任であるといった構図である。
しかし、冷静に事実関係を検証し、歴史を遡って問題を再検討すれば、前者は実は日米関係の問題であり、後者は何よりも北朝鮮と米国の問題であることが明らかとなってくる。こうした地道な作業に基づいて、既存の「構図」を根底から覆していくことが、今こそ求められているのではなかろうか。今回の拙論は、これに向けての一つの試みである。 豊下楢彦 (関西学院大学教授)
<2011年5月の文書>
原子力発電とは、ウランの核分裂反応を利用した蒸気機関である。今日標準的になった100万kWといわれる原発では1年間に1トンのウランを核分裂させる。広島原爆で核分裂したウランは800gであったから、優に1000倍を超える。原発は機械であり、事故を起こさない機械はない。原発を動かしているのは人間で、間違いを犯さない人間はいない。電気を多量に消費するのは都会だが、万一の事故のことを考えれば、原発を都会に立てることはできなかった。そこで、原発は過疎地に押し付けられ、厖大な電気を使う豊かな生活のためには「必要悪」と言われてきた。私は40年間、いつか破局的な事故が起きると警告してきた。何とか破局的な事故が起きる前に原発を止めたいと願って来た。しかし、福島原発事故は起きてしまった。現在進行中の事故を収束に向かわせるため、今後、多くの作業員が被曝する。周辺の多くの人々も、歴史を刻んできた土地を捨てて避難するか、被曝を覚悟で住み続けるか選択するしかない。それを思うと、言葉にできない無念さがある。
これほどの悲劇を前にまだ原発が運転され続けていることを、信じがたい気持ちで私は眺める。世論調査では、停電すると困るので原発は必要とする人が多数いると言う。もし、享楽的生活を続けるために電気が必要と言うのであれば、原発は是非都会に作って欲しい。それができないのであれば、電気が足りようと足りまいと原発は即刻全廃すべきものと私は思う。小出裕章 (京都大学原子炉実験所)
<2011年6月の文書>
情報とマネーとエネルギーの三つは、現代文明に欠かせないある種の「メディア」(媒介物)の役割を果たしている。見えにくく意識しにくいが故に、その有り様がその国や社会の政治と民主主義の成熟度や変化を表象している。
情報は、かつての情報公開の段階から、今やインターネットやフェイスブック、ウィキリークスまで生まれ、誰もが共有し、受け手であると同時に発信者という方向に大きく変わってきた。マネーも、リーマンショックやギリシアの通貨危機が起きて、ローカルに主体的な管理が意識されてきた。
その二つに比べ、エネルギーは「国策」として国民に閉じられてきた。その民主化の遅れが、福島第一原発事故という歴史的な大事故を招いた真因の一つであることが、その事故によって白日に晒された。
地域の自立とエネルギーの主権を私たちが取り戻すことが必要であり、今やそれを可能とする自然エネルギーという選択肢がある。飯田哲也 (環境エネルギー政策研究所)
<2012年1月の文書>
日本のエネルギー政策は内容もひどいが、それを決める議論の形にも大きな問題があった。担当の役所がほとんどのメンバーを指名する形で議論の組織を作り、「事務局」と称する役人が筋書きを書くという「審議会方式」で、政策が決められてきたからだ。
東京電力福島第1発電所の大事故を受けて始まったエネルギー政策の見直しの中では、この議論のプロセス自体を考え直すことも不可欠なはずなのだが、残念ながらこの姿は、事故後も変わらない。
エネルギー政策の見直しの中心となる総合資源エネルギー調査会の基本問題委員会の委員長を、同調査会の会長として過去のエネルギー基本計画を取りまとめた新日鉄の三村明夫会長が務めることには大きな違和感を感じる。
アカウンタビリティのないこんな方式はいい加減にやめ、真に民主的な政策議論と決定の仕組みを早急につくる必要がある。それはエネルギー政策に限った問題ではない。 井田徹治 (共同通信)