“さるかに合戦”  臼蔵 と 蜂助・栗坊 の呟き

震災や原発の情報が少なくなりつつあることを感じながら被災地東北から自分達が思っていることを発信していきます。

大阪橋下の暴挙と船 中 八 策

2012年02月16日 15時00分00秒 | 臼蔵の呟き
土佐藩士の坂本竜馬は「幕府を支持する藩はまだ多い、無理に武力で討伐しようとすれば内乱が起きるし、そうなればイギリスやフランスの外国勢が干渉してくるので平穏に事態を解決したい」 と考え1867(慶応3)年6月長崎から上洛する途中、船中で新しい政治の方針をまとめました。その内容は次の八つです。

1、政権を朝廷に返すこと
1、上下の議会を置き、すべて公論に基づいて政治を行うこと
1、公卿・大名のほか世のすぐれた人材の中から顧問を選ぶこと
1、新しく国家の基本になる法律(憲法)を定めること
1、外国と新たに平等な条約を結び直すこと
1、海軍の力を強めること
1、親兵を設けて都を守ること
1、金銀の比率や物の値段を外国と同じにするよう努めること

この船中八策にもりこまれた竜馬の理想は慶喜の大政奉還により一つの実を結びました。 竜馬はさらに新政府樹立にむけ奔走しましたが同年11月同士の中岡慎太郎とともに暗殺され、血を流さずに平和のうちに新政府をつくる願いは消えました。
この竜馬の「船中八策」を名前だけ、模して大阪橋下が維新の会で国政に打って出ようとしています。とんでもない集団です。マスコミは取り上げていませんが、大阪市職員に「労使関係に関する職員アンケート調査」なるものは橋下名で提出を要求しています。

そのアンケート調査は市職員の労組活動、選挙などに関してどのような行動を行ったかを質問し、回答するように要求(まさに高圧的に)しています。とんでもない調査内容です。憲法に規定された政治活動、労働組合活動の自由に対する攻撃、暴挙です。
アンケート内容でさらに問題なのは、相手から誘われた場所、日時などを記載するように求めています。戦争中の思想攻撃まがいの「密告」を求めています。こんなことをしたら、市の職場は疑心暗鬼に陥り人間関係、信頼関係はずたずたになってしまいます。市役所は市民のための行政でありながら「職員は分断され」「思想統制」の対象とされて、市民のため行政が出来るのでしょうか。たとえば、このようなときに大震災、大津波が来て被害が出たときに職員は市民のために犠牲的精神を発揮することが出来るのでしょうか?私は出来るはずがないと思います。
選挙で橋下に投票したということは「白紙委任状」を与えたわけではないし、まして、憲法に抵触するような行為を免罪することはあってはならないことです。竜馬も「船中八策」も怒っていることと思います。

年金、医療保険料などの企業負担

2012年02月16日 11時00分00秒 | 臼蔵の呟き
北海道札幌に戻り、屋根の雪下ろしと家の周辺の除雪をします。例年よりも雪が多いようです。また、寒く、地域全体が冷凍庫にすっぽりはいったような感じです。駅から家まで歩く間に耳が落ちそうな感じ(強風で)マフラーでほほかぶりを行って耳の痛みを抑えました。
住宅街は排雪(有料で町内会単位1軒あたり1万円前後)が進んでいます。排泄された地域、道路は道幅が広くなり、火災などの緊急車両があっても入ることが出来るくらいの道幅が確保されています。

NHKが2月15日朝報道している番組で「103万円問題」、医療保険料、年金保険料の負担問題を企業側、働く側からの意見などを報道しました。その中で、「損か得か」「儲かるか儲からない」などの視点で議論しているのを聞いて違和感を感じました。

パート労働者に失業保険、年金、医療保険料を入れた賃金保障を行うべきです。短時間労働に時間単価を切り下げ、一切の社会的経費を削除して働かすこと自身が生きる権利を奪っていることではないかと思います。短時間労働者を安いコストで使える労働者としてしか認識しない企業家、政府、労働行政の浅はかな考え方が問題です。その結果、働く側、短時間労働者も103万問題で夫の扶養家族に入ることを「儲かる」と錯覚し、社会保障料の切捨てをうけ入れてしまう傾向も出てきてしまったのだと思います。

企業は、短時間労働者、派遣労働者、正規労働者の働きに対して全て社会保険料を入れて労働単価を計算することが必要だと認識する、認識させることが必要です。保険料支払いを逃れるために契約時間をさらに短くすることが現実に進んでいるそうです。このようなことを許さないために法律上の整備、労働者は声をあげる必要があると思います。

日本は人口減少、高齢化が急速に進みます。また、労働人口の減少は結果として国家の財政収入を減少させることを考えれば、働くことは社会的価値あることであり、「税負担を逃れ、損得」で考えるような問題ではないと思います。まして、不要にはいるか、入らないかなどで損得問題に矮小化してはならない問題と思います。


一流俳優 渡辺謙

2012年02月16日 06時00分12秒 | 蜂助の呟き
こんにちは。蜂助です。今日は、俳優の渡辺謙さんの話です。

私は、映画が好きでよく見ます。渡辺謙さんが出ているラストサムライは、トム・クルーズと対等に演じていました。SAYURI(サユリ)では、中国の人気女優チャン・ツィイーと共演していました、コンリーも居ましたね。クリント・イーストウッド監督の硫黄島からの手紙では栗原陸軍大将役として出ていました。

渡辺謙さんはハリウッドだって世界中のどこだって通用する大俳優ですが、人間としても一流だと最近感じていました。東日本大震災直後から被災地支援を熱心に取り組んでいたくれていたからです。最近、その思いを確信する出来事がありました。スイスのダボス会議に出席して菅直人元首相なんかよりもっと日本人としてのメッセージを世界に伝えてくれたからです。感動しました。

ほとんどの新聞で、渡辺謙さんのメッセージを伝えていないのが残念です。

特に、【「原子力」という、人間が最後までコントロールできない物質に頼って生きて行く恐怖を味わった今、再生エネルギーに大きく舵を取らなければ、子供たちに未来を手渡すことはかなわないと感じています。】 の部分もです。


要約などを書くより全文を見ていただいた方が伝わります。

東京新聞 TOKYOWeb(2012年1月26日)より転載

【渡辺謙さん、ダボス会議スピーチ全文】
渡辺謙さん、ダボス会議でスピーチ 原子力からの転換訴える
2012年1月26日

 スイスで25日に開会した世界経済フォーラム年次総会「ダボス会議」で、俳優の渡辺謙さんがスピーチに立ち、各国から寄せられた東日本大震災の被災地支援への深い感謝と立ち上がる決意を語るとともに、原子力から再生エネルギーへの転換を訴えた。
 
渡辺さんは、震災発生直後から、インターネットにメッセージなどで被災者を応援するサイト「kizuna311」を立ち上げ、現地を幾度も訪れるなど、支援活動を積極的に続けている。
 スピーチは現地時間25日午前(日本時間同日午後)に行われた。渡辺さんは「私たちの決意として、世界に届いてほしいと思います」と話している。
 
スピーチ全文は次の通り。
 初めまして、俳優をしております渡辺謙と申します。
 まず、昨年の大震災の折に、多くのサポート、メッセージをいただいたこと、本当にありがとうございます。皆さんからの力を私たちの勇気に変えて前に進んで行こうと思っています。
 私はさまざまな作品の「役」を通して、これまでいろんな時代を生きて来ました。日本の1000年前の貴族、500年前の武将、そして数々の侍たち。さらには近代の軍人や一般の町人たちも。その時代にはその時代の価値観があり、人々の生き方も変化してきました。役を作るために日本の歴史を学ぶことで、さまざまなことを知りました。ただ、時にはインカ帝国の最後の皇帝アタワルパと言う役もありましたが…。
 その中で、私がもっとも好きな時代が明治です。19世紀末の日本。そう、映画「ラストサムライ」の時代です。260年という長きにわたって国を閉じ、外国との接触を避けて来た日本が、国を開いたころの話です。そのころの日本は貧しかった。封建主義が人々を支配し、民主主義などというものは皆目存在しませんでした。人々は圧政や貧困に苦しみ生きていた。私は教科書でそう教わりました。
 しかし、当時日本を訪れた外国の宣教師たちが書いた文章にはこう書いてあります。人々はすべからく貧しく、汚れた着物を着、家もみすぼらしい。しかし皆笑顔が絶えず、子供は楽しく走り回り、老人は皆に見守られながら暮らしている。世界中でこんなに幸福に満ちあふれた国は見たことがないと。
 それから日本にはさまざまなことが起こりました。長い戦争の果てに、荒れ果てた焦土から新しい日本を築く時代に移りました。
 私は「戦後はもう終わった」と叫ばれていたころ、1959年に農村で、教師の次男坊として産まれました。まだ蒸気機関車が走り、学校の後は山や川で遊ぶ暮らしでした。冬は雪に閉じ込められ、決して豊かな暮らしではなかった気がします。しかし私が俳優と言う仕事を始めたころから、今までの三十年あまり、社会は激変しました。携帯電話、インターネット、本当に子供のころのSF小説のような暮らしが当たり前のようにできるようになりました。物質的な豊かさは飽和状態になって来ました。文明は僕たちの想像をも超えてしまったのです。そして映画は飛び出すようにもなってしまったのです。
 そんな時代に、私たちは大地震を経験したのです。それまで美しく多くの幸を恵んでくれた海は、多くの命を飲み込み、生活のすべてを流し去ってしまいました。電気は途絶え、携帯電話やインターネットもつながらず、人は行き場を失いました。そこに何が残っていたか。何も持たない人間でした。しかし人が人を救い、支え、寄り添う行為がありました。それはどんな世代や職業や地位の違いも必要なかったのです。それは私たちが持っていた「絆」という文化だったのです。
 「絆」、漢字では半分の糸と書きます。半分の糸がどこかの誰かとつながっているという意味です。困っている人がいれば助ける。おなかがすいている人がいれば分け合う。人として当たり前の行為です。そこにはそれまでの歴史や国境すら存在しませんでした。多くの外国から支援者がやって来てくれました。絆は世界ともつながっていたのです。人と人が運命的で強く、でもさりげなくつながって行く「絆」は、すべてが流されてしまった荒野に残された光だったのです。
 いま日本は、少しずつ震災や津波の傷を癒やし、その「絆」を頼りに前進しようともがいています。
 国は栄えて行くべきだ、経済や文明は発展していくべきだ、人は進化して行くべきだ。私たちはそうして前へ前へ進み、上を見上げて来ました。しかし度を超えた成長は無理を呼びます。日本には「足るを知る」という言葉があります。自分に必要な物を知っていると言う意味です。人間が一人生きて行く為の物質はそんなに多くないはずです。こんなに電気に頼らなくても人間は生きて行けるはずです。「原子力」という、人間が最後までコントロールできない物質に頼って生きて行く恐怖を味わった今、再生エネルギーに大きく舵を取らなければ、子供たちに未来を手渡すことはかなわないと感じています。
 私たちはもっとシンプルでつつましい、新しい「幸福」というものを創造する力があると信じています。がれきの荒野を見た私たちだからこそ、今までと違う「新しい日本」を作りたいと切に願っているのです。今あるものを捨て、今までやって来たことを変えるのは大きな痛みと勇気が必要です。しかし、今やらなければ未来は見えて来ません。心から笑いながら、支え合いながら生きて行く日本を、皆さまにお見せできるよう努力しようと思っています。そしてこの「絆」を世界の皆さまともつないで行きたいと思っています。