“さるかに合戦”  臼蔵 と 蜂助・栗坊 の呟き

震災や原発の情報が少なくなりつつあることを感じながら被災地東北から自分達が思っていることを発信していきます。

原子力発電所の再稼働はできない

2015年03月09日 10時59分31秒 | 臼蔵の呟き

「科学的に未知があるというのなら、しかし危険だけれど経済活動に不可欠だというのなら、科学的合理性の代わりに少なくとも社会的合意は必要なはずです。政治家でも役人でも電力会社でも学者でもなく、国民が主体的に決めること」

 「原因不明のまま、国民に是非も聞かないというところに、この国の政治家、役人たちの根源的な隠蔽(いんぺい)体質があると言っても過言ではないでしょう。国民に聞けないのは、世論調査結果がすでに非を述べているからでしょうか。もしそうならば、これほど国民をばかにした話はありません。」

<東京新聞社説>原因不明で動かせるか

 福島の原発事故から四年がたとうとしているが、事故原因は不明のままです。それで再稼働を急ごうとするところにそもそも無理があるのではないか。

 たとえば自動車が設計などの問題で事故を起こしたら、原因を突き止め、同種の車も直したうえで走らせるではありませんか。子どもでも分かることです。

 原因究明が不十分なままでは再稼働にかかわる議論に入れない、と言い続けているのは、新潟県の泉田裕彦知事です。

 県には東電・柏崎刈羽原発があります。七基が集中立地し、地盤がよくないため、四十メートルも掘り下げて建設されている。

◆原発取り巻く無責任

 知事の不安は、少なからぬ国民の不安でもあるでしょう。不安は二つに分けられそうです。

 第一は、原因不明とそれを許している無責任体制です。東電はもちろん、政治家も役人も、学者も、です。

 東電は政治家と役人のかげに隠れ、政治家は東電と役人のせいにし、役人は審議会などの学者たちのせいにして、結局だれも自分が悪かったとは言わない。

 学者たちはさすがにばつが悪いのか、原子力学会や地震学会は反省を述べましたが、だれが悪いのかはよく分からない。

 要するにみんな大津波のせいにして「想定外」という言葉の中へ逃げ込んだのです。いやみを言えば、私はがんばったという人しか見当たらない。

 福島の被災者から見れば、これほど人をばかにした話はありません。古里は奪われたが、奪った者がだれか分からない。きちんと謝罪する者なく、怒りを向ける先もはっきりせず、土地を守ってきた祖先に申し訳のしようもない。

◆段差生じた柏崎刈羽

 大津波の想定を議論にのせながら無視した者たち、原子炉の設計上の危うさは米国からの内部告発で知りながら放置した者たち。事故後情報を持ちながら伝えなかった者たち。

 それとも原発という巨大すぎる科学は、飛行機や鉄道などと違って、人が過ちを犯しても破滅的結果には至らない、フェイルセーフという手法が使えないのか。

 これらの疑問が解けないのに、場所や機種が違うとはいえ、原発を再稼働してもいいのだろうか。百パーセントの安全は、事故後だれも言わなくなりました。だから避難計画づくりやヨウ素剤の配布も行われます。

 しかし事故原因が不明のままでは、本当はどれほど危険なのか、実際にどれほど防止可能なのか、見当のつくはずもありません。

 第二の不安は地震です。日本はあいにく地震国です。

 柏崎刈羽の地盤の悪さは先に書きました。辺りは古くからの油田地帯で液状化がおきやすい。

 二〇〇七年七月十六日、新潟県中越沖地震(震度6強)で、1号機の近くでは1メートルを超す段差ができ、3号機は地盤沈下のため変圧器が出火した。核燃料プールの水は全基であふれ出した。

 もしも、地震がさらに大きければ福島のようになっていたかもしれない。もちろん仮定の話ですが想像するだけで恐ろしくなる。

 福島の事故について国会事故調の報告書は、津波より前、地震直後の配管の亀裂破断を「断定はできないが…」という断り書き付きで大いに疑っています。動き始めたイソコン(非常用復水器)を止めたことで「炉圧の下がりが速いので、漏洩(ろうえい)を確かめたかった」という運転員の証言を得ています。

 ただ放射線量が高くて内部を調べられないので、確かめられないのです。

 しかし、そうならば事故原因としてあらゆる可能性、また最悪を想定するのが科学的態度というものです。新潟県知事の心配は、地震国日本ならどこでももちうる心配なのです。

 科学的に未知があるというのなら、しかし危険だけれど経済活動に不可欠だというのなら、科学的合理性の代わりに少なくとも社会的合意は必要なはずです。政治家でも役人でも電力会社でも学者でもなく、国民が主体的に決めることなのです。

◆国民に是非も聞かず

 一九七八年、米スリーマイル島原発事故の前年、オーストリアでは国民投票で過半数が反対し、スウェーデン、イタリアが続き、ドイツはメルケル政権より前の二〇〇〇年に政府と電力業界の合意で最初の脱原発方針を決めている。

 原因不明のまま、国民に是非も聞かないというところに、この国の政治家、役人たちの根源的な隠蔽(いんぺい)体質があると言っても過言ではないでしょう。国民に聞けないのは、世論調査結果がすでに非を述べているからでしょうか。もしそうならば、これほど国民をばかにした話はありません。

 


まっとうな社会を築く

2015年03月09日 09時03分49秒 | 臼蔵の呟き

歴史の進歩は、どのような人物であっても、その変化,進歩から逃れることはできません。侵略戦争推進、軍国主義復活を扇動しても、平和な社会を求める世界、人類のうねりを止めることはできません。

旧天皇制政府の侵略戦争による莫大な被害を、歴史の教訓として活かさなければなりません。

<信濃毎日社説>まっとうな社会を築く★旧河野村長の遺言

 敗戦直後に悲劇は起きた。1945(昭和20)年8月。満州の首都、新京近郊に入植し2年目の下伊那の河野村開拓団である。73人が集団自決したのだ。翌年の夏。分村移民を決め、開拓団を送り出した村長、胡桃沢盛(もり)は自死した。41歳だった。

 70年の時を経て、村長の孫で精神科医の胡桃沢伸さん(東大阪市在住)が先月、阿智村の満蒙(まんもう)開拓平和記念館で講演した。〈祖父が残したもの〉。こうした場で初めて話すテーマと内容だった。
 祖父の死は家庭内で語られなかった。胸の上に大きな岩が乗り、「話すな」と命じている。伸さんは幼いころからそう感じていた。 2004年、父親が盛の日記の公開を決意。満蒙開拓の歴史を後世に伝える下伊那の活動を知り、祖父と向き合うようになった。

 講演を引き受けたのは、戦争を招きかねない安倍晋三政権に危機感を抱いているからでもある。「戦前にぐいぐい戻ろうとしている。今、何も言わないわけにはいかんだろうと」

   ▽皇国農村の模範

 胡桃沢盛は1905(明治38)年、養蚕農家の長男に生まれた。日記は村長日誌と合わせ30冊。120万字に上る。飯田市歴史研究所のゼミに参加する市民らが3年がかりでパソコンに打ち込んだ。

 以下、胡桃沢日記とその解説から足跡をたどる。

 盛は大正時代に青春を過ごし、社会主義に共鳴。社会運動家の山本宣治らが講師を務めた「信南自由大学」に参加している。

 1940年、36歳の若さで村長に就任。その直後、皇居で行われた紀元二千六百年式典に参列。日記には〈聖代に生を受けし喜を高らかに唱う。我が民族のみの持つ誇りだ〉と感動を記した。

 1941年12月8日、日本は太平洋戦争に突入した。世界恐慌を契機に急落した繭価はこのころ持ち直し、満州移民の希望者が減少。国はあの手この手で自治体に移民送出を割り当てる。

 盛は満州移民に当初はためらっていた。だが次第に国策の歯車に組み込まれていく。

 1943年9月。河野村は天皇に尽くす農村「皇国農村」の指定を受けた。大きな眼目の自作農を増やすことは、小作率が高い現状から断念せざるを得なかった。残る選択肢は、一定の割合の村民を満州に送る分村移民だった。

 〈安息のみを願っていては今の時局を乗りきれない。俺も男だ〉。分村移民を決断した同年10月22日付の日記にある。

 やがて盛は国策を率先遂行する模範的なリーダーと評価された。

 村には皇国農村確立運動の補助金として9万7500円が配分された。移民の送り出しや村に残った農家の育成などに使われた。

 45年になると開拓団から男性が召集された。ソ連が侵攻した8月9日以降は高齢の団長と女性、子供ばかりに。そして敗戦。土地や家から追い出されていた現地中国人の暴動が起きた。絶望した団員は16日夜から17日朝の間に次々と仲間を手にかけていった。

 盛は敗戦後の日々をぼうぜん自失の中で送る。〈満州に在る同胞の事愈々憂慮を伝えらる。冬が迫り来る〉=11月26日付。

 翌46年4月、盛は村長を辞職。農業暮らしに入る。日記には開拓団の末路の記述は見られないが、自責の念、葛藤、苦悩が伝わる。

 夏に入るとさらに追い詰められている状況が分かる。

 〈頭鬱々(うつうつ)として落ちつかず〉=7月9日。

 〈終日の不慣れな労働に身体がぐたぐたに疲れ、神経のみ光る〉=7月14日。

 日記は16日付で終わる。死を選んだのは27日である。

   ▽終わらない戦争

 盛の日記は全6巻が刊行され脚光を浴びている。だが伸さんは講演で訴えた。祖父を美化してほしくない。分村決断という過ちを犯した加害の人であり、日本がアジアを侵略し迷惑をかけた全体像の中で位置付けてほしい―と。

 「祖父は責任を認め、後悔が痛切にあった」。伸さんはそこに死の意味があり、加害の悔いこそ伝えたいと考える。そして、その先に進むにはどうしたらいいか、会場の人たちにも問うた。

 今も世界の至るところで起きている悲劇と応答する。理不尽なことに泣き寝入りしない。加害者は過ちを認める。そうした責任を個人が果たすだけでなく、皆の手でまっとうなことが堂々と通る社会を築く。そうした問題提起だ。

 会場には河野村開拓団員でただ一人、生還した久保田諫(いさむ)さん(85)もいた。「気持ちが苦しさを増したとしか言いようがないが、よくぞ話してくれた」

 終わらない戦争がある。戦後70年談話を出す安倍首相にも知ってほしい事実である。