春風駘蕩

いつの時代でもこうありたい

映画「県庁の星」

2006年03月25日 | 日記
映画「県庁の星」を観た。全国東宝系映画館で公開されたのが2月25日だから1ヵ月が経過している。その間、
どれくらいの観客数があったのかは知らないが、県庁のエリート公務員の挫折と再生の物語だけに地方でも結構観られて
いるのではないだろうか。

主人公の野村聡(織田裕二)はK県庁のキャリア公務員。「政治は人の上に人を作り、人の下に人を作る」を信条に
プライドも高く、業務にもそつがない上昇志向丸出しの男。恋人も地元大手建設会社の令嬢。人生は順風満帆。今後は
「特別養護老人施設建設」のビッグプロジェクトを足がかりに、更なるステップアップを狙っている。

野村は、そのプロジェクトを前に、県政の目玉である民間企業との人事交流研修のメンバーに選出され得意満面。ところが、
研修先は店員達のやる気がなく、客もまばらなしなびたスーパー「満天堂」。しかも、野村の教育係・二宮あき(柴咲コウ)
は自分より年下のパート店員だった。それでも出世のためと意気込む野村だが、書類第一で融通の利かない公務員と、
お客様第一で現場主義のパートがうまくいくわけもなく、二人は事あるごとに衝突する始末。

そして、あろうことか野村は「特別養護老人施設建設」プロジェクトからも外され、恋人にも別れを告げられ、失意の
どん底に。そんな時に野村の支えとなったのは意外にも二宮だった。そして、野村は二宮と危機に瀕したスーパーの改革に
乗り出し、その触れ合いの中でそれまでの人生で忘れていたものを取り戻していく。そして研修を終えて県庁に戻った野村は
県庁の改革にも乗り出していく。
 
組織図もマニュアルもない三流スーパー。そこにマニュアルを持ち込み、マニュアル通りに仕事を進めようとする
「県庁さん」。そのやり方に教育係の「パートさん」がいちいち反発する。役所と民間のカルチャーの違い、そのやりとり
がとても面白い。

原作は桂望実、監督は西谷弘。この作品で、是非、伝えておきたいのは、香川フィルムコミッションがロケ場所として
香川県庁を提供したこと。香川県は、社団法人香川県観光協会を事業主体として、県の知名度の向上、集客力の強化のため、
地元市町及び関係団体の協力を得ながら、映画、テレビ、CFなどのロケーション撮影の誘致、支援を行う
「香川フィルムコミッション事業」を行っている。この映画は香川県の協力で出来上がったのだ。

「愛国心」と「祖国愛」

2006年03月22日 | 日記
「王ジャパン」がキューバを破って世界一になり、日本中が勝利に沸いた21日、日教組は東京都内で臨時大会を開き、
教育基本法の改正に反対する決議を採択した。教育基本法に「愛国心」や「郷土愛」を盛り込むのは断じて容認できない
というのが彼らの主張である。日教組が一部教師による偏向集団であるとはいえ、このような教師が教壇に立っているのか
と思うと腹が立つ。

「愛国心」について、藤原正彦氏は著書『国家の品格』の中で次のように述べている。
「愛国心」という言葉には、「ナショナリズム」(国益主義)と「パトリオティズム」(祖国愛)の二種類の考えが流れ込ん
でいる。「ナショナリズム」とは、他国のことはどうでもいいから自国の国益のみを追求するという、あさましい思想。一方
の「パトリオティズム」とは、自国の文化、伝統、情緒、自然をこよなく愛するという、人類普遍の思想。

この二つの思想、美と醜を混ぜ合わせた「愛国心」をつくりあげたのが明治以降の日本で、この二つの思想を峻別しなかった
ため、戦後、GHQ指導のもと、「愛国心」は戦争の元凶として捨てられてしまった。「愛国心」の否定が「祖国愛」の否定
にまでつながったところに今日の思想的混迷があると指摘している。

藤原氏は、「愛国心」ではなく、「祖国愛」という言葉を意識的に使いたいと言う。同時に、政治家や官僚にはある程度の
ナショナリズムが必要だとも言っている。なぜなら、世界中の指導者は例外なく国益しか考えていないからで、日本の指導者
だけが高邁な思想を貫いていると、日本は大損をする。安全や繁栄さえ脅かされる。

だから、国民は、ナショナリズムを敬遠しつつ、指導者たちのバランスあるナショナリズムを容認するという大人の態度が
必要だと言う。現実の世界を見ると、残念ながらダブルスタンダード(二重基準)で行くしか仕方がないというのが藤原氏の
見解だ。

政治家は「愛国心」という言葉を好んで使うが、それが国益を表現するものであり、国民が容認する範囲内であれば許される
という理解は極めて現実的である。

「祖国愛」という言葉の意味はすばらしいと思うが、GHQによって捨てられてしまったもののうち良質なものは取り戻すと
いう意味からも、今の日本人に必要なものは、やはり「愛国心」の方ではないかと思う。

近藤元次先生の13回忌

2006年03月20日 | 日記
今年は、近藤元次・元農水大臣の13回忌に当たる。3月9日夜、在京の関係者数名で偲ぶ会を開き、
彼岸入りの18日には新潟に行き、市内の真城院にある先生のお墓にお参りした。

先生が亡くなられたのは平成6年2月。死去の知らせに驚き、慌てて入院先の東京逓信病院に駆けつけたが、
変わり果てた姿に涙がとまらなかった。新潟市で行われた葬儀にも参列し、最後のお別れをした。
3回忌には佐渡に渡り、相川町にある先生のお墓にお参りし、7回忌には在京の人たちで偲ぶ会を開いた。

先生は63歳で亡くなられた。生きていれば75歳。現職衆議院議員では津島雄二、堀内光雄氏らと同い年である。
もし生きていたら、当然、議員を務められていたろうし、宏池会はいまみたいな分裂もなかったのではないか。
また、「加藤の乱」も起きなかったのではないかと思う。

洞察力の鋭さ、深さ、そして的確な判断、その上での調整、まとめには天性のものがあった。
それだけに、宮澤喜一氏は近藤先生を頼りにした。平成3年11月、宮澤総理は大臣経験者の先生を官房副長官に起用し、
与野党との折衝、政策の調整に当たらせた。1年9ヵ月の在任中、懸案のPKO法案を成立させたが、政治改革をめぐる
自民党内の対立など、この時期、あまりにも問題が多過ぎた。内政・外交と奔走しつつ、タイ訪問中に倒れた。

近藤先生には物事をなだらかに治めてしまう不思議な力があった。
大きな体を幾分前かがみにさせながら姿を見せると、その場が温かい空気に包まれる。相手の話をじっくり聞き、
その上で自分の意見をぽつりと言う。その一言一言に動かしがたい重みがあった。

「理屈」以上に「人間」がその場を制する。そのような人間はめったにいない。スケールの大きな政治家だった。

民主党議員の体たらく

2006年03月01日 | 日記
これがメール問題に対する永田寿康議員の謝罪なのか。やることなすことが幼稚園児のように稚拙だ。功を焦り、
情報の真偽を確かめることなく、予算委員会の場でこれを公表し、個人を責め、ニセものと分かると、病院に逃げ込む。
やむなく謝罪の記者会見に姿を現わすと、何をどう謝罪しているのかさっぱり分からない。民主党の国会議員とはこの
程度かと思う。

昨年2月、当時の岡田克也代表は、民主党は「野党」ではなく、「政権準備政党」だと言った。いつでも自民党に代わって
政権交代ができる政党だということなのだろう。だが、この体たらくでは政権はおろか、党再建もおぼつかない。

43歳の若さで代表に就任した前原氏は、外交・安保をライフワークとし、自民党の国防族や米国の国防筋との個人的な
パイプもあり、外交・安保政策で独自路線を打ち出し、議論を高めようとした。最も大切な議会運営の責任者に野田佳彦議員
を置き、その下に国対筆頭副委員長として永田議員を配した。その永田議員がとんでもないことをしでかしたのである。

永田議員は36歳。愛知県生まれ、東大工学部を卒業し大蔵省に入省。大蔵省の先輩、古川元久衆議院議員の秘書となり、
平成12年、千葉2区から衆議院選に出馬し当選した。この時の選挙は、当時の森喜朗総理が失言を繰り返し、敵失で民主が
議席を伸ばした選挙だった。続く平成15年の選挙もマニフェスト・ブームで民主に追い風が吹いた。いずれも風頼みの選挙
だった。そして昨年の総選挙では自民の山中子氏に敗れ、比例で復活当選している。現在、当選3回。

風を頼りに当選した議員にはどこか甘いところがある。議員バッチが天から降ってきたかのような感覚を持っており、地道な
活動を積み重ねてきた「地元代表」の人たちとはちょっと違う。民主党にはこうした風頼みの議員が多い。理屈は言うがひ弱
で甘い。永田議員もその1人だった。

勤め先からの帰路、永田町駅のエスカレーターのところで、民主党の前議員と偶然出くわした。彼は民主党本部に向かう途中
だったが、短い会話の中で「前原ではだめだ」と何度も言っていた。政治家の出処進退もわきまえていない稚拙な現執行部に
対し、民主党の内部の人たちも「うんざり」しているのだ。