春風駘蕩

いつの時代でもこうありたい

3月11日14時46分

2011年03月23日 | 日記
それは母が亡くなって2日後のことだった。

3月11日14時46分、東日本を襲った巨大地震は、津波の大きさと福島原発の事故で前代未聞の大災害となった。

私は、この時、前日に母の葬儀を終え、一段落して居間で叔父たちとお茶を飲んでいた。大地震はそのときだった。
テレビの画面に映し出された映像は「これが現実の出来事か」と疑うほどだった。映画の一場面ではないのかとも思った。
しかし、この画面が仙台市近郊の名取川流域であることをテレビは伝えていた。

押し寄せる波にのまれて行く田畑や農業用ハウス、さらには家や車が玩具のように流されていく。
テレビは津波にのまれていく東日本各地のすさまじい映像、闇を焦がす炎、避難所での被災民の姿を繰り返し伝えた。
それは、時を追うごとに、また日を追うごとに悲惨なありさまを呈してきた。町が一瞬にして津波で消えたところもあり、
被害状況は死者・行方不明者あわせて2万数千人と言われている。

震災のニュースは瞬時に世界に伝わり、各国が支援へと動き出した。
私たちも「自分に何ができるのか」と考えた。地域組織でも義捐金を募っている。みんながそれに協力している。
私が住んでいる鎌倉では、市役所に支援物資を届けてくれた人が千数百人、その受付を手伝ってくれた高校生や
大学生などのボランティアが数百人いたと言う。

無縁社会などとは言っていられない状況になった。みんなの気持ちがひとつになって被災地のことを思っている。
日本人が本来身につけていた「共に助け合う」という気持ちがよみがえったのだ。

思えば、無縁社会などという言葉は一部マスコミや受けを狙った評論家が作り出した皮相的な言葉で、
日本人のよき伝統、本質は何も変わっていないことがこの震災への対応でよくわかった。

母の死

2011年03月12日 | 日記
母が亡くなった。

83歳の時、大腿骨頚部骨折で入院して以来、92歳になるまでの9年間、入退院を繰り返していたが、
3月9日早朝、力尽き、黄泉の国へと旅立った。

入退院を繰り返した9年間、子どもたちは出来る限りのことをさせてもらった。特に弟夫婦はそれまで住んでいた
ところを引き払い、母の元に帰って介護に努めた。しかし、最後の2年間、母は寝たきりとなり、胃ろう、そして酸素吸入
で呼吸を続けるという状況になった。

ベッドに横たわったまま、言葉を発することもできなくなった母だったが、私たち子どもにとっては、
母が「生きている」「姿がある」ということでどれだけ励まされ、勇気づけられたことか。

介護は大変だとよく言われるが、私たちはそれ以上に、母が「生きている」ことの幸せを実感できたことに感謝している。
長い闘病生活を続けた母に対して「お疲れさまでした」、そして「ありがとうございました」と申し上げたい。