春風駘蕩

いつの時代でもこうありたい

アーミテージ氏の講演

2005年05月27日 | 日記
NPO法人US-Japan LINK主催の講演会でリチャ-ド・アーミテージ前米国国務副長官の講演を聴いた。
演題は「混迷を続ける国際社会と日米関係」。会場の日本プレスセンタービルの10階ホールは200人を超える聴衆で
満杯だった。4月1日、駐日米国大使に就任し、同月8日に着任したシーファー大使も聴衆の1人として参加していた。

アーミテージ氏は、まず2015年までの10年間で世界がどう変わるのかを予測し、人口構成、経済成長等からみて
10年後はアジアが世界の中心地域となることは間違いないと断言した。そのアジアにおいて、日本と中国の2大強国が
競っている状況は10年後も変わりない。こうしたアジアの構図のなかで、日米が果たす役割は大きく、両国の同盟関係が
アジアのみならず世界の平和と安定にとって重要であると強調。

北朝鮮問題については、北朝鮮が6ヵ国協議に復帰すれば米国は米朝2国間の話し合いに応じる。北朝鮮が交渉のテーブルに
戻らなければ状況は悪化する。核の保有、核実験準備を指摘する報道があるが、もし核実験を行えば少なくとも一発以上の核
を持っていることが証明される。非核化に応じなければ国連安保理への問題付託ということになる。麻薬や偽札の製造疑惑、
拉致問題もある。これらについてきちんとした説明がなければ国際社会は納得しない。

アーミテージ氏の講演の中で重要な発言だと思ったことは、北朝鮮の核保有問題に対し、最終的には国連安保理への問題付託
となると断言したことだ。これは、国連決議がなされたら米国は北朝鮮に対してまず経済制裁、そして最終的には軍事行動を
起こすことを意味するのだろう。そうなれば戦争である。ロシア、中国、韓国はどう対応するのか。最悪のシナリオを回避す
るためにも6ヵ国協議の再開が急がれる。

アーミテージ氏は1945年生まれ。海軍兵学校卒、ベトナム戦争に従軍、その後、海軍を辞めサイゴンの米国大使館武官室
勤務。米軍のベトナム撤退時、戦火をくぐってベトナム人を米軍艦に脱出させ、「ランボー」のモデルといわれる。レーガン
政権の国防次官補、ブッシュ政権1期目の国務副長官。著書に『米国と日本―成熟したパートナーシップに向けて』(通称ア
ーミテージ・リポート)がある。

呉儀副首相のドタキャン

2005年05月25日 | 日記
中国の呉儀副首相が5月23日、小泉総理との会談を中止し、帰国した。理由は「緊急の公務」ということだったが、
翌24日、中国外務省の孔泉報道局長はこれを撤回し、小泉総理の靖国参拝継続発言が理由だったことを明らかにした。

小泉総理との会談は中国側の希望で設定された。また、この会談で小泉総理は中国側の要請に応えて、
中国人団体観光客へのビザ発給地域の拡大を表明する予定だった。それが突然のキャンセル、お詫びの一言もない。
「最低限の国際マナーに反する」と町村外相はコメントしたが、その通りである。

折から、中国を訪問中の武部勤自民党幹事長に対し、胡錦涛国家主席は小泉総理の靖国参拝を「目にしたくない動き」
として批判した。また、日中関係をビル建設にたとえ、「ひとつひとつレンガを積み上げなければできないが、一瞬にして
壊すことも可能だ」と言ったという。壊そうとしているのは日本だ、と言うのだ。一種の恫喝である。

仮に、小泉総理が靖国参拝を中止したとしよう。これで中国は黙るのか。そうではない。「靖国カード」が使えなくなった
ら次の手を考える。中国とはそういう国なのだ。

その中国がいま困っている。靖国で揺さぶりをかけても日本側の対応が毅然としている。かつてのようにODAで処理と
いう具合にはいかないのだ。オリンピックを控え、悲鳴を上げそうなのは中国である。だからここは国民が一体となって
踏ん張らなければならない。

映画 『ハルウララ』

2005年05月24日 | 日記
映画『ハルウララ』を観た。映画の好きな国会議員がつくっている「映画議員連盟」の主催。会場は憲政記念館講堂。
特別試写会ということで、上映前に忍成修吾、七海まい氏らの舞台挨拶があった。夕方、急に雨が降ったせいか、
観客は80人ぐらいだった。

ハルウララは、高知競馬に所属している牝馬で、走っても走っても負け続ける連戦連敗の馬。しかし、どんなに負け
続けても初勝利をめざして懸命に疾走する。あきらめず、へこたれず走り続けるハルウララ。その姿が、ある日、
全国紙で紹介された。「負けつづける馬」が一躍有名になったのである。ハルウララの人気はやがて不況で存続が危ぶ
まれていた高知競馬をも救うことになる。

天才騎手・武豊が騎乗しても勝てず、引退レースでも2位。最後まで勝利を飾ることができなかったハルウララだが、
多くの人に感動を与えた。負けても負けても走り続ける馬、それを支える調教師たち、馬と人間の愛情あふれる2時間の
ドラマだった。パンフレットには「この映画は、勝つことにのみ価値を求めがちな今の時代に、そればかりではない価値
があることを、そして諦めないで挑み続けることの素晴らしさを鮮やかに映し出している」と、書いてあった。

監督:森川時久(「次郎物語」など)、原作・脚本:中島丈博(「壬生義士伝」「牡丹と薔薇」など)、音楽:服部克久。
出演は、調教師・宗石大に渡瀬恒彦、厩務員に忍成修吾、宗石調教師の娘に七海まい(新人)、ほかに賀来千香子、竹中直人、
前田吟、ガッツ石松、田山涼成など個性派スターが脇を支えている。

アッバス議長の来日

2005年05月16日 | 日記
経済団体主催の昼食会で防衛大学校教授・立山良司氏の講演を聴いた。演題は「動き出した中東和平プロセス
-イスラエル・パレスチナ問題の行方」。立山氏は早大政経学部政治学科卒、中東調査会研究員、在イスラエル
日本大使館専門調査員、国連パレスチナ難民救済事業機関アンマン本部総務課長、中東経済研究所研究主幹など
を経て防大教授になった中東問題の専門家。

講演の要旨。アラファト議長の死後、パレスチナ暫定自治政府の議長に就任したアッバス氏は武装闘争の停止と
対話を通じた和平の実現を強く訴えている。さる2月にはイスラエルとパレスチナ暫定自治政府との間で首脳会談
(シャロン・アッバス会談)が行われ、暴力停止の合意がなされた。和平への新たな望みが出てきかのように見える。

だが、その一方で、イスラエルはヨルダン川西岸での一方的な入植地拡大の動きを止めず、また境界地域での分離
フェンスの建設を着々と進めている。アッバス議長はパレスチナ過激派から「弱腰外交」と厳しく非難されており、
「非暴力」と「対話」がいつまで続くのか予断を許さない。

パレスチナ問題はイスラム教の問題でもある。イスラエルによるパレスチナ抑圧がニュースで流れると世界中の
イスラム教徒が反発する。これがテロの要因にもなっている。だから中東和平の動きを国際社会は注視している。
いま、アッバス議長が日本に来ている。近くシャロン首相も来日の予定という。

イラクや北朝鮮だけではなく、イスラエル、パレスチナの動向にも目を向けておかなければならないと思った。

ゴッホ展を観る

2005年05月12日 | 日記
勤務時間が終わった午後5時過ぎ、東京・北の丸公園の東京国立近代美術館で開かれている「ゴッホ展」を観に行った。
永田町からタクシーに乗ったら運転手が「会場前は毎日、入場者の列が道路まであふれていますよ」という。混んでいたら
日を改めようと思いつつ現地に向かったが、会場前の混雑はそれほどでもなかった。

ゴッホは1853年オランダ南部のズンデルトに生まれた。祖父も父も牧師で彼も牧師を目指すが、その道は開けず、27歳の
とき画家になることを決意。オランダ国内を移り住みながら、貧しくても強く生きる人々の姿を描いた。やがてパリに移り、
ゴーギャン、シニャック、ベルナールなど、印象派に続く若い世代の画家たちと交流、また、この時期、浮世絵とも出会い、
日本への関心を深めていく。

1888年、「日本の浮世絵にあるような明るい光」を求めて南仏の町アルルに向かう。ここで芸術家の共同体づくりの拠点
となる「黄色い家」を借り、精力的に制作に取り組む。ゴーギャンとの破局、耳切り事件などあったが、
「夜のカフェテラス」(1888年)を頂点とする200点にものぼる作品群をここで生み出した。

芸術家の共同体づくりに敗れたゴッホは、精神状態を悪化させ、自らの意志でサン=レミ郊外の療養院に入院。ここで
ドラクロワやミレーの白黒の複製版画を自分の解釈で独自の色彩に置き換える模写を行っている。しかし、度重なる発作は
彼を容赦なく苦しめる。「糸杉と星の見える道」(1890年)は、こうした時期の作品である。

1890年、ゴッホは南仏を離れ、ドービニーやセザンヌが住んだことのあるパリ近郊オーヴェール=シュル=オワーズに移る。
ここで、自然と宗教とが葛藤するかのような風景を描きながら、自らの胸を撃ち、2日後に息を引き取った。享年37歳という
短い人生だった。

アルル時代のゴッホ最盛期の作品「夜のカフェテラス」の原画(1888、アルル、80.7×65.3㎝)を観ることが出来たのが
うれしい。

郵政民営化法案の行方

2005年05月10日 | 日記
後半国会の焦点は郵政民営化関連法案の行方だ。5月10日の衆院議運理事会で自民、公明両党は特別委員会の設置を
提案したが、民主党が反対。理由は「修正が前提の法案なら、修正してから出し直すべきだ」「総務委員会で審議すれば
よい」というもの。与野党の筆頭理事間の継続審議となった。

この日の自民党役員連絡会は、郵政民営化関連法案の党議拘束をめぐる執行部の足並みの乱れの調整。「党議拘束は
かかっている」とする武部幹事長の主張に対し、青木参院幹事長がブレーキをかけ、「党議拘束がかかっていると断定
する発言は控えよう」と申し合わせた。

郵政民営化とは、現在、郵政公社が行っている郵政事業を2年後の2007年4月から「郵便事業株式会社」「郵便局
株式会社(窓口会社)」「郵便貯金銀行」「郵便保険会社」の四つの会社に分社化して民営化し、2017年4月までに
完全民営化を実現するというもの。

民営化に反対する自民党議員は多い。ほとんどが選挙区の郵便局長への顔立てだ。民主党は労組の顔をうかがいつつ
反対を叫んでいる。双方ともみえみえだ。小泉総理が解散という宝刀をちらつかせながらこれをどう乗り切るのか。

「本丸攻めに全力を尽くす」小泉総理の信念は堅い。

再就職して満2年

2005年05月01日 | 日記
私は3年前の平成14年6月30日、61歳で前の職場を退職した。母の介護が理由で、退職後は私の住む鎌倉と
母がいる長崎を往復していた。鎌倉にいる時は、朝早く起て窓を開け、小鳥に餌をやるのが私の日課だった。
毎日、Tシャツと短パンで過ごし、妻とフィットネスで水泳を楽しんでいた。

しかし、楽しい日々も長くは続かなかった。8月の下旬、前の職場から「参与に就任してくれ」との電話が入った。
参与室は、東京・千代田区永田町のビルの一室、冷蔵庫、テレビ、電話、パソコン等、必要なものはすべて整っており、
好きな時に出勤すればよい。但し無給ということだった。

10月の初め、9月に遡って参与の辞令交付があり、その後、事務局長と昼食を共にした。その時、局長から10月27日投票
の衆参統一補欠選挙への協力要請があり、私は大阪10区と新潟5区の支援に入った。結果は5勝2敗。
福岡6区、大阪10区、新潟5区、千葉、鳥取で与党が勝利し、神奈川8区(無所属の江田氏)、山形4区(民主の浅田氏)
で負けた。

退職して6ヵ月が過ぎ、平成15年の正月を迎えた。1月14日は、私の満62歳の誕生日。この日朝から息子の車で
鎌倉を出発、逗子大崎公園で遊び、三浦半島を南下し、横須賀の「豊魚」で昼食。その後、城ヶ島を経て観音崎京急ホテルで
少し休み、引き続き三浦半島を北上して帰宅した。家族3人の三浦半島一周のドライブだったが、幸せな1日だった。

2月に入るとまた前の職場から電話があった。こんどは系列の団体が発行している広報紙見直しのプロジェクトチームを発足
させるのでメンバーに入ってくれとのことだった。数日後、第1回会合の案内状が届き、数回の会合の後、「改革案」をまとめた。
これでお役御免と思っていたら、4月からこの団体の広報部長に就任してくれということになった。

どうしようかと悩んだ。週2~3日の出勤という提案も受け入れられず、5月からの勤務が決まった。退職して10ヵ月後の
ことだった。あれから2年、私は64歳になった。その間、5日間ほどの入院を経験したが、元気に勤務している。

いまは、快適な職場で楽しく仕事が出来ることに感謝している。