Yukoの日記

趣味・・・着付 パソコン カラオケ 盆踊り 旅行
フォークダンス フラメンコ        

「絆」の大切さ!!

2013-05-01 15:37:27 | ためになる話
思いやりのこころ

木村 耕一   編著      エッセイスト

人はみなひとりでは生きてゆけない
ものの見方、考え方ひとつで、新しい風が吹いてくる

はじめに

相手を思いやる一言が、生涯、忘れられない感動を与えることがあります。

ある日、東京ディズニーランドに若い夫婦が訪れ、レストランで「お子様ランチ」を注文しました。
応対したアルバイトの青年は戸惑いました。この夫婦は、子供を連れていないのです。マニュアルではお断りすることになっています。
「おそれいりますが、大人の方には・・・・・・」
と言おうとしましたが、思いとどまって、
「失礼ですが、お子様ランチは、どなたが食べられるのですか?」
と尋ねてみました。
すると、奥さんが、うつむいたまま話し始めたのです。
「死んだ子供のために注文したくて・・・・・・」
「・・・・・・」
「私たち夫婦には、なかなか子供が授かりませんでした。ずっと願い続け、やっと娘が生まれましたが、体が弱く、一歳の誕生日を待たずに亡くなってしまいました。
今日は、その子の命日なのです・・・・・・」
「そうだったのですか・・・・・・」
「子供が大きくなったら、親子三人でディズニーランドへ行こうと、楽しみにしていました。とうとう実現しませんでしたが、一周忌の今日、せめて、私たちの心の中に生きている娘をディズニーランドへ連れていってやりたいと思ったのです。本当に娘が生きていたら、ここで一緒にお子様ランチを食べたんだな、と思うと、つい注文したくなって・・・・・・」
アルバイトの青年は、笑顔に戻っていました。
「お子様ランチのご注文を承りました。ご家族の皆様、どうぞ、こちらへ」
と言って、この夫婦に、二人用のテーブルから四人がけの家族テーブルへ移動してもらい、子供用のイスまで持ってきたのです。
「では、お子様はこちらに」
まるで子供が生きているかのように小さなイスへ導きました。
まもなく運ばれてきたのは、三人分のお子様ランチでした。
「ご家族で、ゆっくりお楽しみください」
アルバイトの青年は笑顔で去っていきました。
この心遣いに感動した夫婦は、
「お子様ランチを食べながら、涙が止まりませんでした。まるで、娘が生きているように、家族団欒を味わいました・・・・・・」
と帰宅してからお礼の手紙を書いたといいます。

アルバイトの青年の機転には、思いやりの心が光っています。本人にしてみればちょっとした配慮だったかもしれません。しかし、その、ほんの少しの気遣いを、家庭や職場で、皆が持つようになれば、どんなに人間味のある、温かい世の中になるでしょうか。

★最初のページから涙が止まりませんでした。何回読み直しても涙が溢れてきます。(原文そのまま)このように機転をきか す素晴らしさは勿論のことですが、ディズニーランドの教えもまた素晴らしいのではと思いました。

エルトゥールル号の遭難

日本とトルコを結ぶ絆
温かい心遣いは、
百年の時を超えて語り継がれた


日本とトルコの間には、温かい交流のドラマがある。
明治23年9月16日。
約6百人が乗船するトルコのエルトゥールル号が、紀伊半島南端の大島付近で台風に遭遇した。
怒涛にもまれ、航行不能となり、樫野崎近海の岩礁に激突。
船は爆発を起こして沈没してしまったのである。
乗組員は、荒れ狂う暴風雨の中、真っ暗な海へ投げ出された。
幸いにも海岸へ泳ぎ着いた人の中で、まだ動ける男たちが、断崖の上から光を放つ灯台を目指して歩き始めた。
ドアをたたく音に驚いて、灯台職員が外へ出てみると、服が破れ、裸同然の外国人が九名、血だらけになって立っている。とっさに、船が難破したことだけは理解できたが、言葉がまったく通じない。しかし、最優先すべきは、人命救助である。応急処置をして、近くの村へ助けを求めに走った。すぐに村じゅうに非常事態が告げられ、男たちが総出で海岸へ救助に向かった。生存者があっても、この冷たい雨にさらされたままでは命が危ない。必死の捜索が続いたのである。
続々と、負傷者が小学校や寺へ運ばれてくる。海水で体温を奪われ、手も足も氷のように冷え切っている人が多い。意識も朦朧としていた。
「早く、裸になって温めるのだ!」  
昔から、こういう場合は人肌で温めるのが最良の方法だとされてきた。
生死の境をさまよう男たちを布団に寝かせ、村の男たちは裸になって抱きかかえ、代わる代わ
る温めた。見ず知らずの外国人であろうと、彼らには、何のためらいもなかった。尊い命が懸かっているのだ。
そのかいあって、救助した六十九人全員が命を取り留めた。
事故発生から四日、ようやく大島へ救助船が到着。
負傷者は神戸の病院へ運ばれ、傷がいえてからトルコへ送り届けられることになった。

トルコと大島の人たちの間では、言葉は通じなかった。
しかし、心と心は、温かく固い絆で結ばれていた。
それが約百年も後に「恩返し」を受けることになるとは、日本人の誰が予想しただろうか。

1985年3月17日。
イラン・イラク戦争が激化する中、突然、当時のイラク大統領サダム・フセインが、
「イラン上空を飛行するすべての航空機を、二日後から攻撃する」と発表した。
無謀な宣告に、生命の危機を感じたのはイランの首都に滞在している日本人約五百名であった。緊急事態なので、どの航空会社も、まず自国の人々から先に座席を埋めていく。日本の航空会社はイランへ就航していないので、日本人を優先して脱出させてくれる航空機は一機もないのだ。
翌十八日、空港に詰めかけた日本人のうち、かろうじて座席を確保できたのは約半数だった。
あと一日しかない。
だが、ついに日本からは、救援機が来なかった。
その時である。
トルコ航空機が危険を冒してイランへ乗り入れ、空港で途方に暮れていた日本人全員を救助したのだ。まさに間一髪であった。

なぜ、日本政府さえ躊躇した危険な場所へ、トルコが救援機を飛ばしたのか。その大きな理由は、約百年前の「エルトゥールル号の遭難」にあった。
痛ましい事故ではあったが、トルコの人たちは、日本人から受けた温かい心遣いを忘れることができなかった。歴史の教科書にも掲載され、子供でさえ知らない者はないほど重要な出来事として、語り継がれてきたという。

たとえ言葉は通じなくても、温かい心、優しい心は、人に大きな感動を与える。
そして、それは百年の時を超えても消えることはなかったのだ。
大島の人たちが示したように、お互いに、相手を思いやり、命を大切にすることができたならば、どんなに住みやすい世の中になるだろう。
いつまでも、心にとどめておきたいエピソードである。

  ★「絆」の大切さ・・・思いやりの心を取り戻せるような気がします。徒然草の章では自分のことばかりしゃべるのは相手を不快にさせるとか、他人よりも才能があると思っている人は、心の中に「自惚れ」という悪が潜んでいるということなど、とても興味深い素敵な本に出会えたことを嬉しく思います。