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tyakoの茶の湯往来

日常生活の中から茶道の事を中心に、花の事、旅の事、そして、本や写真の事など、気ままに書いて見ようと思ってます。

中山道「熊谷宿から深谷宿」まで・・・

2020-03-14 20:35:49 | 中山道六十九次散歩

3月14日(土)

朝から雨が降っておりましたが、中山道散歩に行って来ました。

前回のゴール地点の熊谷宿から深谷宿まで歩いてきました。

雨の中の街道歩きは、とにかく疲れました。

見る物もなく、ひたすら歩いた1日でした。

歩いた距離18.7k、歩いた歩数は26.870歩でした。

 

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中山道「鴻巣宿から熊谷宿」まで歩く・・・

2020-03-02 16:59:39 | 中山道六十九次散歩

32日(月)

朝から曇りがちのお天気でしたが、小雨が降ったりやんだりと寒い一日でした。

月曜日はストレッチ教室の日ですが、会場が閉鎖され中止となりました。

こんなところまでコロナの影響です。

一日空きましたので、先日の中山道散歩の備忘録です。

追分の碑

前回のゴール地点です。

ここが忍街道と中山道の追分ですので、私たちは道の反対側にあるお地蔵さまに旅の安全をお願いして出発です。

 

地蔵堂の地蔵さま

追分の碑の反対側に地蔵堂が建っております。

私たちを見守ってくだすっているという優しいお顔立ちが印象的なお地蔵さまでした。

箕田の追分

中山道と忍街道との別れ道で、忍街道を行くと忍城のある行田市や館林方面へと続いております。

前砂村の碑

まだ建てて間もないといった風の石碑でした。

今回の街道歩きで一番目に付いたのは、新しい「中山道の碑」でした。

前砂の一里塚

日本橋から14番目御一里塚です。

左右に立派な榎が植えられていたそうですが、いつの間にか削られて平地となり、農地となり作物が作られようになり、近年は住宅地になってしまっております。

案内の講師の先生も、ここへ来るたびに案内板が無くなっているのではないかと心配しているそうです。

着いた時の第一声が「まだありました。良かった~」でした。

中山道間の宿の碑

間の宿という呼び方は、街道歩きをしているとよく出て来ますが、宿と宿の間にできた宿場という意味ですが、宿場として幕府から認められていたわけではありません。

妙徳地蔵堂

縁起によると眼病を救ってくれるというお地蔵様で、近隣の人々の信仰を集めているそうです。

お地蔵さま

優しいお顔をしております。

どのお地蔵さまも優しそうで、すがりたいと思う気持ちが分かるような気がいたします。

マンホール

人形の町鴻巣を象徴するようなデザインです。

 

道標

高崎線に分断されたところに建っておりました。

説明板

このあたりが間の宿の中心だったようで、公認の宿場町ではありませんでしたが、鴻巣宿と熊谷宿の距離が長かったために必然的に出来上がった宿場といえます。

吹上宿の名物は、「忍のさし足袋」「荒川のウナギ」「榎戸の目薬」だったそうです。

マンホール

吹上町のマンホールです。

町の花らしいのですが・・・

権八延命地蔵

歌舞伎の「鈴ヶ森」の話になった白井権八が江戸に向かう途中、路銀に困り果て、このお地蔵さんの前で辻切をしたそうです。その一部始終を見ていたお地蔵さんに、権八は「今の事を他言するな」と言ったところ、お地蔵さんが「己は言わぬが汝も言うな」と言い返したという。

そんな逸話の残っているお地蔵様で、地域の方々に大切に保存されておりました。

白井権八のモデルは、鳥取藩士平井権八という人物だそうです。

荒川堤が中山道

荒川の土手がそのまま中山道になっております。

すこぶる景色がよく、春の街道歩き満喫でした。

一里塚

久下新田二一里塚は、江戸から15番目です。

堤防の拡張工事で跡形もなく消えてしまったところです。

今からでも、復元すると景色の良い風景になると思いますが・・・

久下神社

村の鎮守さまで、久下直光が三島神社を勧進して創設された神社です。

「吾妻鏡」には、久下一族と熊谷一族が、将軍頼朝の前で境界線の争いをしたことが記されているそうです。

追分

写真の右側に行くと現在の本道で、中山道は直進して再び荒川の土手に上がります。

一人でこの街道歩きをしていたら、右へそのまま行ってしまいそうです。

権八地蔵堂

長土手にあったお地蔵さまと同じで、権八地蔵といわれております。

平井権八は鈴ヶ森で処刑されておりますが、どういう訳かこの地域には同じ地蔵堂が三か所あるそうです。

お地蔵さま

個々のお地蔵さまも優しいお顔をされております。

権八がこのあたりで村の人々に何か特別なことをしたのでしょうか・・・

久下の渡し

ここに荒川の渡しがあったそうです。

その跡を記す石碑ですが、まだ新しそうです。

 

東竹院

曹洞宗の寺院で、久下重光が開基、深谷城主だった上杉憲賢が中興開基したと伝えられております。

寺院の紋に久下氏の家紋をそのまま使っていることが、久下氏との繋がりが分かります。

久下家の丸に一の家紋は、頼朝の旗揚げの際、真っ先に駆け付けたのが久下一族でしたので、喜んだ頼朝が「一番」と書いて与えたという逸話が残されております。

山内には、久下一族のお墓があります。

久下重光の墓

このお寺を開基した重光公のお墓です。

達磨石

忍城主が達磨大師に似た石を秩父から城中に運ばせようとしたところ、川に転落してしまいたび重なる荒川の洪水などで行方が分からなくなってしまったそうです。

250年も経った大正14年に、この伝説の達磨石が東竹院前の荒川で発見されたために、川底から掘り起こされて東竹院に安置されたそうです。

言われてみれば達磨さんに似ております。

一里塚

八丁の一里塚は、江戸から16番目の一里塚です。

このあたりが、久下氏と熊谷氏とが争った境界だといわれております。

鎌倉武士たちは、自分の所領を命を懸けて守る事から「一所懸命」という言葉が生まれたといわれております。

今、国語の試験で「一所懸命」「一生懸命」どちらを書いても正解だそうです。

ここの一里塚も、曙公園になっておりまして、何も残っておりませんでした。

熊谷駅

今回のゴール地点です。

よく歩きました。

17.1キロ、24.890歩でした。

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中山道 鴻巣宿から熊谷宿まで・・・

2020-02-29 19:01:08 | 中山道六十九次散歩

2月29日(土)

二月は逃げるといいますが、早くも二月は今日で終わりです。

押し詰まった日でしたが、中山道を歩いて来ました。

北鴻巣駅

前回のゴールとなりました、北鴻巣駅に集まって熊谷を目指します。

箕田の追分から中山道に入ります。

街道だけを歩いて行けば11キロの距離ですが、私たちは、あっちこっちと寄り道をしますので、かなりの距離を歩くと思います。

久下の長土手

ここは街道歩きとは趣が違いハイキングのような道を鼻歌でも歌いたくなるような散歩になりました。

菜の花が土手一面を黄色く染め、暖かな春の日差しをいっぱいに浴びながらの街道歩きでした。

熊谷駅

今日のゴールの熊谷駅です。

熊谷は日本一暑いといわれておりますが、街道歩きではもっぱら「熊谷次郎直実」の話ばかりです。

次回は、直実のお墓参りなどがあるそうです。

私の万歩計では、距離17.1キロ、歩いた歩数は24.890歩でした。

久しぶりに電車に乗ってから足がつれました。

 

 

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中山道「北本から鴻巣宿まで」歩く・・・

2020-02-11 17:25:05 | 中山道六十九次散歩

2月11日(火)

午前中の穏やかな休日が、午後からは約束でもしていたかのように強烈な北風が吹き始めました。

今日は大学もお休みですので一日自分の時間が持てましたので、先日行って来ました「中山道散歩」を備忘録としてまとめました。

勝林寺

寛永元年に関東郡代の伊奈氏が建立した浄土宗の寺院。

このお寺さんの広場をお借りして、準備運動をして本日の街道歩きを始めました。

馬の顔を線刻で描いた馬頭観音が有名です。

浅間神社

富士塚といわれる上に建つ富士山信仰の神社です。

当時は、この小高い丘に登ると富士山が望遠できたといわれております。

一里塚の表

中山道では珍しく、大きな標識が出ておりました。

ここを入って行くと一里塚がありました。

一里塚

原馬室一里塚

本宿(北本)から分かれている古中山道沿いに残っている一里塚です。

塚上には小さな祠が祀られておりました。

一里塚ですから、一対ありましたが高崎線敷設の時に取り壊わされたそうです。

今は個人の所有になっているそうです。

 

高崎線

そこのそこのけ汽車が通る・・・線路は真っすぐです。

旧中山道や一里塚も何のそので造られたといいます。

鴻巣市

鴻巣市に入りました。 

鴻巣宿入り口

立派な道標が建っておりました。

鴻巣宿葉、日本橋から12里8町といいますから約48キロです。

慶長7年に本宿村(北本)の宿場を移して鴻巣宿と改称されました。

中山道沿いに赤い幟がはためき、人形の町を象徴しております。

 

鴻巣宿

鴻巣という名前の由来は、「昔むかし、この地に大きな木があり、その木の精霊の祟りを恐れた村人たちは、「木の神」と崇めお供えなどをして祀っていたそうです。

ある時、この大木にコウノトリが巣を作り卵を産むと、一匹の大蛇が卵を狙い卵に近づくとコウノトリは果敢に突っつき返し大蛇を殺したそうです。

以来、木の神の祟りが無くなったので喜んだ村人たちは社を建て「鴻の宮」と称したといわれております。

八幡神社の狛犬

鴻巣市人形町の旧中山道東側に鎮座しており、地名の如く、周囲には人形店が軒を並べております。

狛犬の足元の小さな狛犬がかわいい。

金剛院

真言宗のお寺です。

ご本尊

ご本尊は不動明王です。

小さな窓から覗きますが、暗くて何も見えませんでしたので、カメラの力を借りて一枚だけ撮らせていただきました。

不動明王は私の守り本尊です。

お耳さま

山門を入り右に行くと、「お首さま」と「お耳さま」という石塔があっております。

首から上の病を持つ方は、「お首さま」そして、耳の悪い方は「お耳さま」に願掛けをすると良くなるそうです。

道標

街道のあちこちに建っておりました。

後何年か後に行くと、高札場や本陣跡など整備されているかも知れません。

勝願寺

浄土宗の寺院で、開基葉700年前といわれております。

徳川家康の次男結城秀康が結城から福井に転封の際に、結城城の一部をこの寺が賜ったと伝えられ、家康の帰依も厚く関東十八壇林のひとつに数えられておりました。

30石を拝領していた大寺院出会ったそうです。

小松姫の墓

上州沼田城主の真田信之の正室が小松姫です。

城主不在の城を守った賢女として名高いお方です。

江戸から上州への旅の途中に、ここ鴻巣の地で亡くなってしまったので、ゆかりのある勝願寺にお墓が建てられたそうです。

この他に、上田市、沼田市にお墓があります。

日本一

何でも日本一はすごいのか・・・

小さい東照宮で有名だそうです。

東照宮

頭を小さく下げないと鳥居をくぐれないという珍しい東照宮です。

江戸時代には鴻巣御殿があったところに建てられたものです。

家康が見たら怒るかもしれません。

道標

鴻巣宿の道標です。

法要寺

寺紋に前田家と同じ「梅鉢」が使われております。

参勤交代の際に、加賀藩の宿所は勝願寺でありましたが、先行きの者が「門前下馬」の表示を見落としてしまい、宿泊を断られてしまったそうです。

困った前田藩は、法要寺に宿泊し事なきを得たといわれております。

この恩に報いるために家紋の使用を許したそうです。

鴻神社

コウノトリ伝説のある神社で、近くにある三か所の神社を合祀したもので、元は鴻三社と言っていたそうです。

そして、明治になってから町内各所にあった神社を合祀して、今の鴻神社と改めたといわれております。

氷川八幡神社

ここ箕田は、渡辺綱の生まれたところと伝えられており、箕田観音堂には、渡辺綱の守り本尊を安置していたと伝えられる平等寺があったそうです。

今は観音堂のみが残されておりますが、境内には嵯峨源氏の紋である「三ツ星に一文字」が随所に見られます。

ここ渡辺綱を祀る八幡宮でしたが、今は氷川神社と一緒になり、氷川八幡神社と呼ばれております。

宝持寺

曹洞宗のお寺さんで、渡辺綱が父と祖父の菩提を弔うために建立したと伝えられております。

綱が奉納したと伝えられている太刀が寺宝として保存されております。

渡辺綱の位牌

ご住職より丁寧なお話を伺うことができました。

私は渡辺綱といえば、山野草の「ラショウモンカズラ」、そして花入の「鬼の腕」を思いだします。

渡辺一族の誇り

渡辺氏は、嵯峨源氏ですので、全国に散っている渡辺一族の方々が建立した碑がありました。

今でも、渡辺さんは一文字の名前が多いそうです。

追分

今回のゴール地点です。

鵜巣から1里2町の地点で、右に行くと日光に通じる忍道、左が中山道になります。

次回は、ここからスタートになります。

 

 

 

 

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中山道「上尾宿から北本駅」まで歩く・・・

2020-02-05 17:38:40 | 中山道六十九次散歩

25日(水)

昨日とは打って変わって、強い風が吹き抜けております。

昨日だったら、寒かっただろうな・・・そんなことを考えております。

昨日の疲れがドッと出ているようですので、上尾宿から北本駅まで歩いた備忘録です。

上尾宿

前回の解散したところが上尾駅でしたので同じ駅に集合です。

上尾宿は、日本橋から数えて5番目の宿場で、江戸から37キロです。

江戸からも近く、飯盛り女もたくさんいたそうで、近在からの遊び人も多く集まり賑わいのある宿だったそうです。

遍照寺山門

浄土宗の大きなお寺さんです。

このお寺の広場をお借りして、準備体操やガイドをしてくれる講師の先生の紹介などをして本格的に歩き始めました。

まずは、遍照寺参拝です。

 

本堂

徳川三大将軍家光より二十石の御朱印を拝領した由緒あるお寺です。

江戸時代より、「上寺」と呼ばれ崇拝され親しまれていたそうで、ご本尊は、大聖不動明王です。

考女お玉の墓

越後の極貧の家に生まれ、11歳で上尾宿の大村楼の遊女となったそうです。

心優しく美しかったそうで、加賀公の小姓に見初められ江戸で暮らしたのですが、悪い病に侵されて、上尾に返されたといいます。

25歳という若さで亡くなってしまいますが、大村楼の主人が日頃の行いに心を打たれておりましたので、立派な墓を建てたそうです。

普通、遊女が死んだ時は無縁仏となりますが、立派なお墓を点ててもらったと評判になったそうです。

上町庚申塔

延享2年の建立。今から275年も前に建てられたことになります。

平成の道標

文字通り平成に作られた道標で、屋根に鍾馗像が乗っている。

上尾宿は、ここが、西口で宿の終わりを示しております。

道標

中山道では珍しい道標を見ながら歩いてゆきます。

 

木戸址

ここから桶川宿です。

中山道6番目の宿場ですが、宿場町としては、大名の参勤交代が始まってから成立したといわれております。

桶川宿が発展するのは、農産物の集積運搬などを取り扱う事で人が集まり、中でも紅花の生産が盛んになるにつれ、ますます発展したそうです。

明け六つ、暮れ六つに開閉されたそうです。

武村旅館

明治時代の旅館だそうで、昔のままの間取りが残り、今でも旅館として営業しているそうです。

浄念寺

浄土宗の寺院で室町後期の創建だそうです。

江戸時代には、「下の寺」として親しまれ、鐘は桶川宿の「時の鐘」と言われていたそうです。

不動明王

不動堂野安置された不動明王です。

中は薄暗くお不動様が見えませんので、カメラの力を借りて拝見いたしました。

(注)フラッシュは使っておりません。

まんじゅう屋さん

お寺さんから大通りに出るとお饅頭屋さんがありましたので寄って見ましたが、あっという間に売り切れになってしまいました。

桶川宿

旧中山道です。

お店がひしめき合っております。

私たちは黙々と歩きました。

 

島村土蔵館の大屋根

島村家は、本陣近くに店を構えた穀物問屋「木島屋」の総本家でした。

天保の大飢饉にあえぐ人たちに仕事を与え、その報酬により多くの人々が飢えから救われたといわれる「お助け蔵」が今は一般公開されております。

当時としては珍しい三階建てになっておりました。

 立派な瓦屋根を積み上げ、財力を見せつけるような建物です。

矢部家

街道に面した蔵造の店舗で、穀物を扱う問屋を営んでいたそうです。

鬼瓦の上に鉄製の棟飾りが出ており、「鳥おどし」と言われておりますが、周辺でも珍しい意匠といえます。

ガイドさんに案内されなければ見上げないでしょう。

本陣跡

埼玉県に残る唯一の本陣跡です。

桶川宿に本陣が置かれたのは、寛永年間と伝えられております。本陣職は、代々甚右衛門を名乗った府川家が務め幕末まで続いたそうです。

 

府川本陣跡

埼玉県の指定文化財になっておりますが、一般には公開されておりません。

江戸時代に誰それが泊まったという看板が出ているだけです。

代表的なのは、やはり「明治天皇行幸在所」の石碑が一番の注目度といえます。

 

稲荷神社

中山道からちょっと入ったところにありますが、桶川郷の総鎮守だそうで、今でも大変な信仰を集めているそうです。

力石

拝殿に向かって右側にある力石。

どう見ても持ち上がるとは思えませんが江戸時代にいたそうです。

江戸の力自慢の三ノ宮卯之助という人物で、嘉永5年の2月に持ち上げたという記録があるそうです。

大雲寺

曹洞宗のお寺さんです。

本陣当主府川家のお墓があり、桶川宿の上方にあったため「上の寺」と呼ばれていたそうです。

一里塚跡

江戸から10里十番目の一里塚です。

よく名所旧跡を訪ねると「跡」という文字を見ますが、こちらの一里塚は本当に跡という字がぴったりでした。

電柱にピタッと張られた文字が何とも侘しい・・

木戸跡

桶川宿の上(京都方面)の木戸です。

ここで宿場は終わりで、時間になると閉められます。

道しるべ

この道しるべは、東松山市にある箭弓稲荷神社への道を示すものだそうです。

以前は、桶川宿から北に分かれる松山道の入り口の建てられたもので、そこから移築され飾り物のように置かれております。

誰が移したかはわからないそいですが、本来の所に移し替えたら、この道しるべも光を取り戻して輝くと思います。

北本市

北本市に入りました。

江戸初期には宿場として賑わっていたそうですが、後に宿場は、鴻巣に移されたといわれております。

多門寺

真言宗のお寺さんです。

大きなムクロジがある寺として有名です。

ムクロジ所を漢字で書くと「無患樹」で、読んで字のごとしで、「患いを無くす木」で殺菌力が強く、昔は石鹸の代わりに使われたそうです。

マンホール

北本市のマンホールです。

桜の名所があるそうですが、知りませんでした。

北本駅

今回の中山道散歩は、ここ北本駅がゴールでした。

歩いた距離は14キロ、歩いた歩数は23.240歩でした。

詳しく案内をしてくれる先生でしたので、私の備忘録も長くなってしまいました。

 

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中山道北本から北鴻巣まで・・・

2020-02-04 21:25:57 | 中山道六十九次散歩

2月4日(火)立春

今日から春、穏やかな1日でした。

今日は、先日の中山道散歩の続きを歩いてきました。

北本駅

前回の解散地北本駅に集合して歩きだしました。

北本のマンホール

街道歩きしていて気が付いた事があります。

マンホールが、町の中心地になるとカラーになることでした。

鴻巣市

歩きだして中山道を進んで行くと鴻巣市に入ります。

高崎線

鴻巣駅を過ぎたところですが、真っすぐです。

真っすぐ進むことで、中山道を分断しております。

鴻巣宿の石碑

鴻巣宿の出口に立つ石碑ですが、平成19年に建てたものです。

今回の散歩で、真新しい石碑をたくさん見ました。

古い物を壊し、新しいものを造っても、人は集まらない事を行政も気が付いて来たようです。

古い街並みから電柱を消し、江戸時代のような町を作り上げたところにに観光客が訪れることを・・・

大学がお休みでしたので、土曜日から2日しか経っておりませんが、旅行社に電話をしたら空いているという事でしたので行ってきましたが、さすがに疲れました。

今日は、23.300歩、15キロ歩きました。

 

 

 

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中山道を歩く上尾宿から北本まで

2020-02-01 20:52:33 | 中山道六十九次散歩

2月1日(土)

朝から青空が広がり気持ちの良い一日でした。

今日は自宅でのお稽古でしたが、中山道散歩に行って来ました。

上尾駅

前回のゴール地点の上尾駅から出発です。

前回が雪の中での散歩でしたので、今日は散歩日和といえます。

遍照院

このお寺さんの広場をお借りして、ストレッチや講師の先生の紹介やら済ませて、北本駅を目指して歩き始めました。

上尾市

上尾市のマンホールですが、カラーで何とも可愛らしかった・・・

マンホールは、その地の特色をデザインしておりますが、このマンホールはちょっと分かりません。

前回よりも宿場らしい建物などが残っておりましたので良かったかな・・・

北本駅

今回も予定より早く着きました。

黙々と歩くことが多く、なんとなく足の疲れを感じましたが、家を出てから、14キロ、23.240歩歩きました。

結構歩いた・・・

 

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中山道 大宮宿から上尾宿まで

2020-01-29 17:05:22 | 中山道六十九次散歩

129日(水)

昨日の雪や氷雨が嘘のような暖かさでした。

今日も大学はテスト週間でお休みですので、先日行って来た「中山道散歩」の備忘録です。

そろそろ忘れかけておりますので・・・

大宮駅

ここ大宮駅は、江戸時代の大宮宿にあり、日本橋から7里16町といいますから、およそ29キロです。

大宮宿は、氷川神社の門前町として存在しておりましたが、寛永年間に街道が整備され新しい町づくりが行われて、宿場町としての機能が形成されたといわれております。

今回は、ここ大宮駅から出発です。

東光寺山門

曹洞宗1万5千寺の内十指に入るといわれている北関東の名刹です。

熊野の僧が、人肉を食うという鬼を法力で懲らしめ、鬼に食われたという人々の霊を慰めるために東光坊を建立したのが起縁とされております。

 

達磨大師

禅宗のお寺さんには必ずと言って良いほどある達磨大師です。

妖艶な仏さま

達磨大師が安置されている山門に並んでおりました。

何とも妖艶な仏さまで、アニメの世界から抜け出て来たかのようなお姿です。

このお寺さんの接待所をお借りして、身支度を整えて雪の中を出発しました。

道しるべ

この道しるべは安政7年に建てられたといわれております。

中山道から西への行き先「西大山 御岳」と描かれておりました。

石上神社(いそのかみじんじゃ)

江戸の昔から中山道の絵図にも描かれている古い神社です。

今でこそ「疱瘡」を怖がる人はおりませんが、江戸時代の古人は「はやり病」として恐れたそうです。

この石上神社葉、疱瘡をにかからない、なったら直してくれるそんなありがたい神社だったそうです。

東大成の庚申塔

元禄10年の建立と伝えられております。

地元では、耳の神さん、眼の神さんと大事にされているそうです。

正面には、青面金剛像・二鶏・三猿が彫られております。

加茂神社

京都の加茂神社を勧進した社で、年代は不明だそうです。

石柱に「村社加茂神社」と刻まれておりますが、「村社」をセメントで埋めたために却って目立っているという面白さがあります。

水準点

地形や建物などの高さを測る時の基準となるところで、主要国道には2キロ置きにこの水準点が埋められております。

上尾市

上尾市に入りました。

中山道上尾宿は、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠41軒だったと記録が残っております。

上尾が宿場として整備されたのは、江戸になってからといわれております。

本陣跡

本陣跡には、立派な家が建ち面影は全くありませんが、建てかえる時に屋根瓦の一部を塀に使い、往時をしのんでおります。

 

氷川鍬神社

上尾宿の総鎮守で、「お鍬さま」と呼ばれております。

名前の由来は、昔、子供たちがご神体として、鍬二丁を交叉させた車を押して上尾の宿来て、そのまま置いて行ってしまったので、村人たちは、これは農耕神だとして祀り、五穀豊穣を祈ったといわれております。

上尾駅

この駅が、今回の中山道散歩のゴールです。

3時半には着いてしまいました。

それでも、14キロ、20,350歩歩きました。

 

 

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中山道大宮宿から上尾宿まで

2020-01-18 19:16:55 | 中山道六十九次散歩

1月18日(土)

今日は早起きをして、中山道六十九次の街道歩きに行って来ました。

前回のゴール地点の大宮駅に集合しての出発です。

大宮駅

大宮駅10時集合ですので、9時40分頃に着きますと旅行会社の方が旗を持って立っておりました。

時間通り、10時には出発です。

駅を出ますと、何と雪が降っているではありませんか・・・

この冬初めての雪が、街道歩きの日とは・・・何とも曰く言い難し

東光寺山門

写真の白くゴミのように映っているのは雪です。

曹洞宗のお寺さんですが、曹洞宗の中でも十本の指に入るほどのお寺だそうです。

参拝者用に接待所があり、お茶やコーヒーなど振る舞ってくれました。

このお寺さんで、身支度を整えて歩きだしました。

大宮宿も宿場らしいものは残っておりませんでしたが、上尾宿も何も残っておりませんでした。

宿の入口もなく、本陣跡、高札場跡、一里塚跡、など宿場町特有の古い建物など何もありませんでした。

上尾駅

東海道を歩いていた時に、講師の方が、「宿場を整備して管理しているのは地域の方々の力で成り立っております。」とおっしゃっていたことがよく分かりました。

行政の援助はもちろんですが、何といっても地域の方々のボランティア活動が第一のようです。

大宮から上尾まで、ひたすら歩き、20.350歩およそ14キロ歩き、15時30分には上尾駅に着きました。

雪や雨が降ったりやんだりしておりましたが、寒かったので、ずっと雨合羽を着たまま歩いていてもまだ寒い一日でした。

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中山道・浦和宿から大宮宿まで

2019-12-08 17:29:12 | 中山道六十九次散歩

12月8日(日)

朝から青空が広がっておりますが、強い北風が容赦なく吹き付けております。

前回の中山道散歩から1週間ですが、次の宿場を目指して行って来ました。

忘れないうちにと備忘録です。

浦和駅

前回のゴール地点の浦和駅からスタートいたしました。

歩道

ここ浦和宿は、街道歩きの私たちが喜ぶようなものはあまりなく、宿の入り口に、前回の石碑が建っていた程度で、宿場らしい雰囲気のかけらも残っておりませんでした。

五蔵院

宝珠山五蔵院延命寺という真言宗のお寺さんです。

弘法大師開山という由緒ある寺院で、地蔵信仰の寺でもあり、総欅作りの地蔵堂には、平安時代の作と伝えられている「地蔵菩薩立像」が安置されております。

地蔵菩薩

説明はありませんでしたが、たぶん厨子に中に安置されているのだと思います。

小さな前立観音がちょこんと立っておりました。

中は薄暗く、人間の目では確認できませんでしたが、今のカメラは写ルンですね・・・

境内

この枝垂桜が有名で、埼玉県の標準桜に指定されているそうです。

桜のころに是非と案内しておりました。

 守護侍不入の碑

五蔵院は、徳川家康からの10石の寄進を断り、その代わりに寺一帯を治外法権にしてほしいと申し出たそうです。

家康はそれを許し、以来この寺は門前に「守護侍不入」の碑を建てて、権力者の入ることを拒んだそうです。

守護侍不入

碑の拡大です。

星野本陣跡

星野権太兵衛が秀吉軍の関東攻略の時に、その道案内を務めたそうで、その功績によりここ浦和宿の世話役となり、本陣になったといわれております。

本陣跡にはこの案内板があるだけで、公園になっておりました。

廓信寺入口

サツマイモの女王「紅赤」発祥の地だそうです。

廓信寺

浄土宗の寺院。

この地の浄土宗の拠点的なお寺さんだったそうです。

宗祖法然上人像

宗祖法然上人の像の前に瓦で作ったものがありますが、浄土宗の宗紋だそうで、いろんな瓦を並べて作ってありました。

宗紋

いろんな種類の瓦を組み合わせてデザイン化しております。

面白いので撮って来ました。

慈恵稲荷神社(浦和市HPから)

慈恵稲荷神社は、宿の人たちが祀った神社で27日には市がたち賑わったそうです。

ここの写真はどういうわけか一枚もなく、浦和市のHPからお借りしました。

庚申塔

道路に挟まれて、小さな三角地に肩身の狭そうに立っておりました。

庚申塔は辻々に建てられ、疫病などが入ってこないように建立されましたが、今ではなんとなく邪魔者扱いのような気がしてなりません。

マンホール

浦和から大宮まで、一つの市になってしまいましたから、歩いているうち全部が、このマンホールでした。

右 お女郎地蔵 左 火の玉不動

大宮宿の旅籠で、街道筋で有名になるほどの美人姉妹が旅人の相手をしていたそうです。

姉妹にうち千鳥という娘が、結婚することになったが、そこに割って入った極悪非道の暴れ者が、どうしても千鳥をと言って大暴れしたそうです。

千鳥はとうとう川に身を投げて死んでしまったそうで、それを憐れんでお地蔵様を建てたといいます。

左のお不動様は、このあたりに毎夜火の玉が飛ぶということで、ある男が、火の玉を切りつけると、火の玉は消え暗闇から不動明王と名乗る男が現れて「剣を切り落とされた」といい残したて消えたそうです。

朝になり、不動明王を見たところ剣が半分なかったところから「火の玉不動」と、呼ぶようになったそうです。

 元々は、別のところにあったものを一か所にまとめたという感じです。

氷川神社入口

武蔵国一宮の碑があり、第一の鳥居です。

 参道

ここから氷川神社の参道が延々と続きます。

紅葉が見ごろで楽しく歩けました。

塩地蔵

大宮宿で病に倒れた父の病気の回復を願った娘が、塩を絶って願掛けをしたところ病が治ったという伝説があり、今でも、お地蔵さまには塩が盛られております。

涙橋

江戸時代には宿のはずれに刑場があり、刑が決まるとこの橋を渡って刑場に向かったそうです。

身内や縁者たちは、この橋までは見送りを許されましたが、この橋で別れたことから「涙橋」と呼ばれるようになったといわれております。

最近できたばかりの「涙橋」の碑ですが、説明板と共にもう少し何とかなんないのでしょうか・・・

氷川神社参道

心地良い参道が続きます。

一歩歩くごとに気持ちも空気も浄化されて行くようです。

氷川神社拝殿

広い境内に由緒ありそうな建物が並んでおりました。

お参りをしてからちょっと散策しました。

戦艦武蔵の碑

戦艦武蔵の碑です。

戦艦の記念碑は珍しいと思います。

竣工式には氷川神社の神官6名がお払いの儀式を執り行ったと云われております。

そして、艦内には氷川神社が祀られていたことも、この碑の建立のひとつかも知れません。

紅葉

参道のモミジです。

鮮やかに染まっておりました。

私たちは、色鮮やかな紅葉を見ながら、今回のゴール地点の大宮駅に向かいました。

大宮駅

浦和宿から大宮宿まで、焼く7.5キロでしたが、あちこち寄り道をしながらですので、距離は約15キロと倍になり、歩いた歩数は、22.640歩でした。

10:00に出発して、16:00丁度に到着でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント (2)
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