10月22日(月)
雲ひとつない快晴です。
今日のストレッチ教室は休んでしまいました。
東海道五十三次散歩の備忘録的ブログにですので、少し長くなっておりますがお読みいただければと思っております。

興津宿
前回のゴール地点から出発です。

旧東海道
興津宿の東海道ですが、土曜日のためかたまに車が通る程度の静かな宿場町でした。

興津宿の碑
東海道17番目の宿場町で、興津という地名は、「象潟神社」の興津宮を勧進してお祀りしたことに由来しているそうです。

脇本陣
脇本陣水口屋初代当主は武田信玄の家臣であったといわれ、武田家亡き後は、商人として財を成し、江戸時代には脇本陣になり、明治以降は、政治家、皇族、財界を始め多くの文人墨客が訪れる別荘旅館になっていったいえで、現在はギャラリーとして、水口家に伝わる資料を公開しております。

清見寺
徳川家康の幼小の頃の「手習いの間」が残っており、寺紋として「三葉葵」が許されていたお寺でもあります。
障子の手がかりなどにも三葉葵がくっきりとはめ込まれておりました。

清見寺
これ程由緒あるお寺ではありますが、明治政府が東海道線を敷く時には、このお寺の境内を真っ二つに分断してしまっておりますので、お寺の門と境内の間を電車が走っております。
徳川の世が終わった象徴のように力を見せたのだといわれております。
このお寺には、鎌倉幕府の重臣だった「梶原景時の血天井」と呼ばれている天井がありました。
説明は、長くなるので省きます。

東海道線
このように真っ直ぐです。

坐魚荘
敷地が300坪もある京風な二階建てのお屋敷は、西園寺公望の別荘「坐魚荘」です。
坐魚とは、魚を釣りながらのんびり過ごすという故事から名付けられたそうですが、当時は、「興津詣」といわれるほど来客がありのんびりしてはいられなかったといわれております。
今は、一般に公開されてボランテアスタッフが案内方々説明をされております。

波除け
坐魚荘の前に石垣が積んでありますが、当時ここまで海であった証だそうです。
今は二階から遠くに海を見るほどに埋め立てられております。

井上馨
明治の元勲井上馨像です。
井上馨がここ興津の別荘で、喜寿の祝いを開催した時、出欠の郵便の数が多く、井上馨方が、「このポストに郵便を入れるように」と、ポストを赤く塗ったそうで、今、ポストが赤いのは、その時の名残りからだそうです。

岡崎信康の墓
浄土宗の江浄寺というお寺に、「岡崎信康公の墓」があります。
徳川家康の長男であり、信長の婿でもあったのに、武田方と内通しているという疑いを掛けられ切腹させられてしまった武将であります。

江尻宿
江尻宿に入りましたが、宿場の入口にあるはずの木戸の痕跡すら残っておりませんでした。
ウオーキングリーダーが、宿に入る前から、「江尻には何もありません」といい続けておりましたが・・・本当に無かった。

本陣跡
真新しい本陣跡の碑を発見。
まだ建てたばかりです。「江尻寺尾本陣跡」と書いてありました。

江尻宿木戸址
この木戸址の説明が面白かった。
いつもここを通る時にここはごみ収集場所で、ごみが山積になっていたそうで、今日はたまたま土曜日で収集日ではなかったらしく、木戸址が現れていたのだそうです。
こんな大事なところを、ごみ置き場にしている面白さ・・・

稲荷神社
通称「サッカー神社」と呼ばれているところで、大きなサッカーボールが鎮座しておりました。
「お孫さんがサッカーをしている人は良くお参りしていってください。」とリーダーの一声で、何人もお参りをしておりました。

追分ようかん
名前の通り追分に店を構えている「追分ようかん」で、ここで「是より志ミづ道」と書いた道標が、追分であることを証明している。
羊羹が名物で、江戸昔から製法は変わらずに味を保っているというお店です。
同行の皆さん大量にお買い上げです。

石松の敵討ち
清水次郎長が、森の石松の敵討ちした場所で、討たれた都鳥一家の供養塔だそうです。

一里塚
草薙の一里塚は、江戸より43里(170k)43番目。
塚は、9m高さ1.8mあり、脇には高札場があったそうですが、今はこの碑が建っているのみです。
交通量が多く写真も命がけなんて言ってた人もありました。
この日は、ここで日が暮れてしまいましたので、迎えに来てくれたバスに乗って、夕食を済ませてからホテルへ向かいました。
10月21日

草薙神社
日本武尊を祀った神社で、創建は分かっていないそうです。
伝えによれば、蝦夷平定に向かった日本武尊は、ここで敵の火責めにあったが、「天叢雲の剣」(あめのむらくものけん)を抜き、呪文を唱えながら燃える草原を薙ぎ払って難を逃れたといわれております。
これが神社と周辺の地名になった由来だそうです。

富士山
快晴の東海道ですので、歩いていると随所に富士山が見えます。

東海道の行き止まり
ここで東海道は旧国鉄の操車場の開設のために切り取られてしまいました。
私達は、新設された地下道を通って向こう側へと歩いて行きました。

一里塚
長沼の一里塚、江戸から44番目の一里塚です。

静岡市
静岡市の中心地に近づいております。ビルの間から富士山が見えております。

曲金
もうすぐ府中宿に入ります。

金曲観音
この観音様は、清見寺の時に出て来た、梶原景時を祀った観音様です。
ここで討ち死にをした梶原景時の供養のために地元の人たちが建立したそうです。

府中宿
府中宿に入りました。

府中宿
宿内の案内の碑。

本陣跡
最近の街道歩きの人気に後押しをされて設置された本陣跡の碑です。
今は跡形もありません。

西郷隆盛談合の碑
幕末にここで、西軍西郷隆盛と幕府方山岡鉄舟が会見をしたところです。
西郷「慶喜公を差し出して・・・」鉄舟「御断りいたします。・・」こんな会見がされたそうです。

高札場
ここに高札場があったそうです。
今は静岡市いちの繁華街になっております。昔も、こうして人通りの多いいとこに高札場を設置したそうです。

わさび漬
家康以来のお店で、代々受け継がれた味を今でも味わう事の出来る唯一のお店だそうです。
皆さんたくさん買っておりました。

一里塚
府中の一里塚、45番目。

由比正雪碑
正雪の乱の首謀者由比正雪の碑です。
犯罪人ではありますが、有名人でもありますので、生家や泊まったお宿などは繁盛しているという事です。

安倍川もち
有名な安倍川もちです。
家康が領内を視察していた時に立ち寄ったところで、きなこ粉をまぶしただけの餅を出したところ、大変気に入り、以降「安倍川もちにしてはどうか」といわれ、それ以来続いているという、お店です。
私も甘い餡子に負けてとうとう買ってしまいました。

安倍川
広い川ですが、水は余り流れておりませんでした。

駿府城
徳川家康の隠居城ですが、各大名は江戸と同じように駿府詣でをしたそうです。

駿府城公園
今年は、秀吉の瓦が発見されたという報道で見学者が一日に3000人も来るそうです。

浅間神社
地元では「おせんげんさま」世呼ばれて親しまれている神社です。
徳川家康がこの神社で元服式を行っている事から、徳川幕府から手厚い保護を受けていたそうです。
今回の東海道五十三次散歩はここがゴールとなりました。