4月21日(木)
午後から雨になりました。
明日の自宅でのお稽古はありませんので、のんびりと一日を過ごしました。
これ程、ゆったりとのんびりしたのは久しぶりです。
今日は、先日行きました「東海道五十三次散歩」の箱根峠から三島宿までの備忘録的ブログになります。
4月17日、数日前から雨の予報が出ておりましたが、雨天決行と云う連絡でしたので意を決して行って来ました。
箱根峠まではバスで向かいます。
バスの中で、思い思いの雨対策を行って出発ですが、風雨が強まる中ですので誰もが無言。
峠の駐車場からは国道を下って行き、旧東海道の入り口とも云える場所に着きました。

この看板が目印
そして、ひっそりと建っているのが江戸時代から旅人を見続けてきた道標です。

道標
「是より江戸へ25里 是より京都へ百里」と刻んであります。
ここからが西坂の始まりになります

八ツ手観音
一行は旧道へと入って行きますが、最初に出迎えてくれたのが、「八ツ手観音」です。
八本の手を持つ馬頭観音で、高さは50㎝ほどで、冠には馬頭は表されております。
貴重な労働力の馬を守りながら旅の安全を祈ったのでしょう。

甲石坂
箱根に多く自生している笹竹のトンネルのような道を黙々と歩いて行きますが、滑ったり転んだりが続出でした。
皆さん慎重に慎重に・・・

甲石跡
笹竹のトンネルを抜けると左手に、ここに「甲石」があったという碑があります。
この国道を整備するときに邪魔になるので他の場所に移したそうですが、本当のところは、観光の目玉にしたいもくろみがあったという説が有力だとか・・・ガイドさんが小さな声で言っておりました。

甲石坂
箱根山全体がローム層であるため、雨の日はぬかるんで歩けないほど滑りやすかったそうですので、当初は周囲に大量に生えている笹竹を切り取って束にした物を、道に敷き詰めていたそうですが、費用も掛かり、その上、保守が大変であったため、延宝8年に幅が2間程の石畳に替えられたという事です。
そんなトンネルのような石畳の道を歩いて行くと、パット開けると、国道1号に合流します。

山中新田一里塚
国道を歩いて行くと再び旧道に入りますが、そこには「山中新田一里塚」が建っております。
江戸から25番目の一里塚です。

甲岩
実際は先ほどの、甲岩跡にあった石を切断してこちらに持って来たもので、切断面がはっきりと解ります。
小田原攻めの時に秀吉が甲(兜)を置いたと云われておりますが、頼朝説もあるそうで、ガイドさんも「どうなんですかね・・・」

きれいに
これから歩いて行く街道ですが、見ると中々きれいです。

石畳の道
歩き始めるとやはり石畳の道ですが、ここはきれいに整備されてとても歩きやすかったのが印象的です。

念仏石
石原坂の右側に大きな石と小さな石が合掌したような形でおりますが、「念仏石」といわれ、直ぐ脇の石碑には「南無阿弥陀仏 宗閑寺」と彫ってあります。
説明によりますと 旅の途中で行き倒れた人を、山中城二ノ丸跡にある宗閑寺で供養して碑を建てと伝えられているそうです。
そのためかこの大きな石はいつの頃からか念仏石と呼ばれるようになったそうです。

雲助徳利の墓
石畳を注意しながら下っていくと、坂の右側に雲助徳利の墓があます。
杯と徳利が浮刻された墓標で、大酒飲みの雲助が、仲間に墓碑を作ってもらうとは、よほどの人望があった人だと推測できます。
説明板によると、元西国大名の剣術指南をしていた松谷久四郎が酒でしくじって国外追放となり、箱根で雲助稼業をしていたが、もともと腕の立つ上に、教養のある武士でもあったので雲助仲間から親分の様に慕われていたとのこと・・そんな事が書いてありました。

柴切地蔵尊
旧街道を進むと、右手に芝切地蔵がありますが、案内板によりますと、旅人が急に腹痛を起こし倒れたそうで、死ぬ間際に「故郷の相模が見えるように、芝塚を築き、その上に地蔵尊として祀って欲しい」と言い残して亡くなったそうです。
村人は旅人の言った通り地蔵尊を祀り、毎年7月19日を縁日として供養することにして、その日に合わせて「小麦まんじゅう」を作り、参拝に来た人々を接待しましたところ、その味が評判になり、三島だけでなく沼津方面からも沢山の参拝客が来るようになり、村は大いに潤ったそうです。

中山城址
今回一番楽しみにしておりました中山城跡でしたが、雨のためじっくり見る事が出来ませんでした。
それでも30分ほどの自由時間に上まで行って見ました。

障子堀
西の丸に上ると展望台があり、そこらのスナップですが霧ぼやけております。
障子の様に作られた堀で、ローム層特有の赤土で滑りますので、そこに落ちると登ることができないと云われていたそうですが、北条方の思惑とは裏腹に、秀吉軍の前にたった3時間足らずで落城したそうです。
秀吉軍の鉄砲などの威力を侮っていたのでは?・・・とつぶやくガイドさん。

司馬遼太郎の碑(箱根八里記念碑のひとつ)
北条早雲をモデルにした小説の一節が刻まれている。
「幾億の跫音(あしおと)が坂に積もり吐く息が谷を埋める わが箱根にこそ」

石畳
昼食を済ませて再び石畳を歩き始めましたが、きれいな石畳でした。

杉並木の向こう
歩き始めて15分くらいで杉並木が終ります。
雨に光っている石畳はきれいですが、転ぶことの怖さに誰も歩きません。
この杉並木を抜けると、恐ろしいほどの風との戦いが始まります。

芭蕉句碑
国道に出ました。富士見平と云うところでしたが、富士山はどっちの方角にあるのかさえ分からないほどでした。
霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ 面白き 芭蕉
芭蕉も今日の皆さんと同じように富士山が見られなかったのでしょうね・・・ガイドさん。

旧道へ
国道から再び旧街道に入って行きますが、やはり雨に濡れた石畳は怖い・・・

三島の町
黙々と歩いていると、ウォークリーダーが「三島が見えま~す」と声を張り上げて、一行を元気付けておりました。
まだあの町までは標高差200m位あるそうです。

畑の真ん中
この辺りは農家が点在しておりますが今風の石畳です。だらだら坂ですので、道が川にならないように浅い溝が両脇についておりました。

笹原一里塚
旧東海道の左に日本橋より27番目の一里塚がありました。
こんもりした塚の上に大岡信の「森の谺を背に 此の径をゆく 次なる道に出会うために」 の箱根八里記念碑があります。

こわめし坂
一里塚のある集落を抜けると旧道がアスファルトの道になりますが、急こう配の為に転ぶ人が続出でした。
お米を背負ってこの道を登っていたが、余りの暑さと熱でこわ飯になってしまったという逸話が残り命名されたそうです。

臼転坂
古い石畳が残っておりましたが、何の手入れも去れていないので、土に覆われ始めております。
臼も転げ落ちてしまうほどの坂と云うことらしい・・・
三島宿の標識が出て来ました。
今回は、坂を下りきった大きなドライブインのようなところがゴールです。
もう直ぐゴールです。
私たちのバスが待っておりました。