tyakoの茶の湯往来

日常生活の中から茶道の事を中心に、花の事、旅の事、そして、本や写真の事など、気ままに書いて見ようと思ってます。

土山宿から水口宿まで歩く・・・

2021-04-08 16:58:20 | 東海道五十三次の旅

3月8日(木)

今日も先日東海道を歩いた備忘録で、2泊3日の街道歩きも最終日です。

3月28日 3日目最終日

土山宿から水口宿まで歩きましたが、天気予報が予報通りで朝から雨でした。

街道歩きにとって雨は、一番の難敵で最も歩きたくないという気持ちが強くなる日です。

こんな日でしたが、全員が雨合羽を着こんでの出発です。

土山宿の碑

昨日のゴール地点までバスで送ってもらい、雨の中を歩きだすとすぐに私達を迎えてくれた「土山宿」の碑でした。

馬子唄に唄われていと云う通り、雨の土山になりました。

土山宿は、本陣2軒、旅籠44軒、問屋場1軒、と規模は大きくは無かったが、宿場の街並みは、2.5kもある細長い宿でした。

この宿場から近江や伊勢街道が分岐されいたために、近江商人や旅人で賑わっていたそうです。

鳥居旅籠屋跡

旅籠跡ですが、今でも子孫が住んでいるそうで、維持や管理が大変だろうと気になって仕方がありませんでした。

地蔵堂

街道筋にはどこにでもあるお地蔵さまを祀ったお堂です。

旅人の安全や、この地域に疫病などが入ってこないようにと願って建てられております。

上島鬼貫の句碑

大阪生まれの俳人で、「東の芭蕉、西の鬼貫」と云われておりました。

吹け波(ば)ふ希(け) 櫛を買いた耳(に) 秋乃風 

お六櫛問屋

信濃の国の櫛職人が、上京の途中に病に倒れて、大森家のご先祖様が助けた事から、お礼にと送って来た「お六櫛」を販売したのが始まりとされている。

その製法が、信濃の職人の「おろく」という人の創意工夫から生まれた櫛であることから「お六櫛」として販売したと云われております。

お六櫛看板

中山道の宿場で有名な「お六櫛」の看板に驚きましたが、遠い昔から信濃の国と繋がっていたことにも驚きました。

土山宿

小雨の中の宿場の通りです。

人も見られず江戸時代の雰囲気をたっぷりと残しております。

一里塚

土山一里塚は、日本橋から110里目の一里塚です。

民家の玄関先に碑が建っているだけでした。

白川神社

創建は不明という事ですが、土山宿の鎮守さまです。

明治天皇が東京へ行幸時に携行していた、三種の神器の内のひとつ「八咫の鏡」を白川神社に一時安置したという神社です。

「内侍所奉安所跡」と刻んだ碑が建っております。

井筒屋跡

旅籠井筒屋は、森鴎外の祖父・森白仙の終焉の地だそうです。

森鴎外は知っておりましたが、お爺さんまでは知りませんでしたが、津和野藩のご典医として代々仕えてていたお方だそうです。

旅の途中で亡くなって、後鴎外が祖父の終焉の地を訪ねて来られて一躍有名になったそうです。

二階屋本陣跡

江戸時代前期に本陣を務めていたが、幕末には衰退して本陣は大黒屋に変わっております。

この本陣と並んで問屋場が有ったそうです。

東海道伝馬館

ここは問屋場があったところに建てられたもので、当時の問屋場を再現しております。

伝馬館に入るところに、「文豪森鴎外来訪の地」という大きな碑が建っておりました。

中は、往時の様子を再現している、記念館といったところでした。

問屋場跡

今でも昔のままで残っている建物は、大黒屋本陣だったところでが、手前の空いているところに問屋場が有り、その横には高札場が有ったそうです。

土山本陣(土山家)

東海道に現存する3本陣の中で、唯一ご子孫がお住まいになっている本陣です。

土山家では、三代将軍家光が上洛する際に本陣を務め、以来明治を迎えるまで本陣をbbb務めていたそうです。

明治天皇が9月に東京行幸する際に、この土山本陣でお誕生日を迎えたそうで、この本陣で、第一回の「天長節」が執り行われたという由緒ある本陣です。

住民には、お神酒とスルメが下賜されたと伝わっております。

本陣は、改装されましたが、天皇の使われた上段の間は「玉座」として保存されているそうです。

常明禅寺

奈良時代に創建された臨済宗東福寺派の古刹で、貞和5年に京都の鈍翁禅師が再興しましたが、その時一緒に茶の苗木を持参移植したのが、土山茶の始まりと伝えられております。

長屋王が発願した大般若経27帖は、国宝に指定されております。

森家の墓

森家の墓が奥まったところにありましたが、まだ新しい墓石が建っておりました。

御代参道道標

国道一号線のところに二基の道標が建っております。

「たかのよつぎくわんおんみち 高埜世継観音道」と刻まれております。

近江の永源寺観音堂への道という意味だそうです。

もう一基は、「右北国たが街道 ひの八まんみち」と刻まれ中山道を経て多賀大社への道の案内です。

御代参道道標の意味は、皇族が派遣した多賀大社への代参の使者が通ったので、「御代参道」という名が付いたといわれております。

東海道

多くの人達が通った東海道もそのまま残るとこうした風景になります。

茶畑

今でも、土山茶は有名ですが、歩いているとたくさんの田畑を見ながら歩くことになります。

きれいに栽培されております。

放置されて

一方、放置された茶畑もずいぶんありました。

放ったらかしの茶畑ですが、まだこの状態は良い方で、木になっていた茶畑もありました。

垂水斎王頓宮跡

斎王とは、天皇が即位する度に天皇の名代として伊勢神宮へ遣わされる未婚の皇女の事です。

卜定という占いで選ばれた皇女は、年に三回伊勢神宮に天皇に代って赴き祭祀を行ったといわれております。

頓宮とは、斎王専用の宿泊施設のことで、全国でも、ここだけが頓宮と特定された珍しいところといえます。

国の史跡に指定されております。

奥宮

一応、奥宮と書きましたが、誰が祀られているという宮ではなく、ここに斎王が宿泊した宮があったという証として建てられているそうです。

伊勢道

垂水斎王頓宮跡から街道に出て来ると、この道標が建っておりました。

ここから、伊勢を目指した「斎王群行」です。

斎王群行とは、斎王の一行は400人くらいの人数が整えられて伊勢に向かった行列の事を言うそうです。

一里塚

ここは大野村といわれたところで、日本橋から111里目の一里塚があったとされておりますが、今は何も残っておりません。

講師の先生も、困ったな・・・といったところです。

従是伊勢領

小さな碑ですが、昔のまま残っておりました。

伊勢藩の飛び領だったそうで、代官が置かれて統治されておりました。

一里塚

今在家一里家といわれ、日本橋から112里目の一里塚です。

灯篭が自然石で積み上げられて、小さいながら松も植えられそれらしい雰囲気が出ておりました。

あの、何もなかった一里塚跡から4k歩いたことになります。

水口に

今回の最終目的地は水口宿です。

宿場の入り口に近づいておりますが、雨は依然として降っております。

一里塚

水口宿に入ると最初に出会った一里塚です。

復元されたものですが、私達街道歩きの者にとっては嬉しい存在です。

日本橋から112里目の一里塚です。

全景

こんな雰囲気が私達を楽しませてくれます。

雨の中を黙々と歩いていても、こうした風景に出会うと一気に活気づきます。

宝善寺

このお寺が今回のゴールです。

次回は、ここから歩き始めます。

この日歩いた距離は17k、歩いた歩数は25,226歩でした。

三日間に歩いた距離は44.1k、そして歩いた歩数は、66,360歩になりました。

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坂下宿から鈴鹿峠をへて土山宿まで歩く・・・

2021-04-04 16:46:24 | 東海道五十三次の旅

4月4日(日)

朝から曇り空ですが、穏やかで暖かな一日でしたが、午後からポツリポツリと降ってきました。

今日も、東海道五十三次散歩の2日目の備忘録です。

第二日目(3月27日)

昨日のゴール地点西の追分まで、バスで送って貰って気持ちも新たに出発です。

西の追分

ここで準備運動をして、鈴鹿峠へと歩き始めました。

転び石

何処にでもある民話的伝承の石ですが、江戸時代には「東海道名所絵会」にも登場するほどの石だったそうですが、どう見てもただの石にしか見えません。

山から転げ落ちて来た石が、夜になると「山に戻りたい」と唸り声をあげて、近隣の人達を恐れさせていたところに、弘法大師が通りかかり、石を供養したところ静かになったという逸話が残っているそうです。

一里塚

坂道を歩いていると、ポツンと一里塚の石碑が建っておりました。

「一ノ瀬の一里塚」と呼ばれ日本橋から107里目ですが、石碑がひとつ建っているだけでした。

以前、街道歩きの講師の先生が、「こうして街道を歩いていると、その地区の人達の街道への関心度がよくわかります」と言っていた事を思いだしました。

この一里塚の先の一里塚は、このあたりと云うだけで何も有りませんでした。

坂下宿

このあたりから坂下宿になろうかというところですが、緩やかな坂道にも歴史が感じられる道です。

この宿場は、鈴鹿峠の麓のあるので「坂下宿」と呼ばれ、本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠48軒、問屋場1軒があり、規模の小さな宿としては、鈴鹿峠を控え多くの旅人や大名が宿泊したので活気のある宿場であったと言われております。

明治23年に鉄道が開通し、宿場は急速に衰退して、今は往時の面影は全くなく、空き家や荒れ果てた茶畑ばかりが目に付くほどで、講師の先生は、「限界集落になりつつあります。」と言っておりましたが、すぐ下は、国道一号線が通り、車がビュンビュンと走っております。

松屋本陣跡

宿場には必ず本陣がありましたが、ここの本陣も時代の移り変わりの中で取り壊され空き地になっておりました。

江戸時代は、峠を控えた人、峠から下って来た人たちで賑わっていたと云われております。

法安寺

鈴鹿峠を控え、旅人はここで旅の安全を祈願していった事だと思います。

この寺の玄関は、松屋本陣の玄関を移築したものだそうです。

峠へ

ダラダラとした坂道が続いております。

いつ峠になるのだろう??こんな思いを抱きながら歩いております。

岩谷十一面観音

大きく立派な石碑が建っておりました。

瀧の地蔵

岩谷十一面観は、街道から川にでも下りて行くように入って行くと小さなお堂があり、ここに阿弥陀如来、十一面観音、延命地蔵の三体が祀られておりました。

左側に小さな滝がこぼれ落ちるようにあることから、「瀧の地蔵」とも呼ばれていたといいます。

こんな小さな変化にも、当時の旅人は心躍らせて見物していたのでしょう。

片山神社入口

ここから鈴鹿峠に入るという事で気持ちを引き締めて歩き始めました。

この手前に、江戸から107番目の一里塚があったといいますが、今はどこだかわからないという事でした。

参道

片山神社の入口から、急に山道になり、いよいよ峠か・・・

なだらかな坂道が続いております。

片山神社

古くは「鈴鹿明神」「鈴鹿権現」などとも呼ばれており、延喜式内社として古くから信仰を集めてりました。

緑濃い自然の中に建ち、訪れる人々に神聖な場所であることを感じさせてくれる所でもあり、東海道を旅する人々からは、特別な思いで敬われており、幾多の旅の記録に登場しております

ここは、鈴鹿流なぎなた術発祥地の碑が建っておりました。

現在は、本殿など焼け落ちてしまい跡形もない状態です。

どなたか再建してくれるお方は現れないでしょうか・・・

案内板

頼りないほどの案内板が建っておりました。

同行の皆さんは、舗装された反対方向へ行こうとしておりましたが、案内をして頂いた講師の先生に「こちらです」と言われて、振り向いた先は急こう配の山道でした。

ここ鈴鹿峠道が官道として整備されたのは、仁和2年だそうで、歩きながら「これが道か・・・」と思うほどでした。

芭蕉句碑

鈴鹿峠の「標高は、378mで8丁27曲がりにして、道狭く険し、清水所々に湧きて雨の日は越えがたかるべし」と云われる山道には、ところどころに石が敷かれ「東の箱根・西の鈴鹿」といわれた難所だったといわれておりました。

芭蕉句碑には、「ほっしんの 初に越ゆる 鈴鹿山」と刻まれております。

水飲み鉢

馬の水飲み場ですが、復元された物だそうです。

よく見たら、コンクリート製でした。

峠の頂上

大汗をかき、息も絶え絶えといった風に歩いていると、「ハィ!頂上です」という先生の声で我に返ったようで、「え!!」ホッとする気持ちと「何だ!大したことないじゃない」という気持ちが交錯しておりました。

何といっても箱根を歩いているので・・・

ここに田村神社や茶屋が6件ほどあったそうですが、今は何もありません。

後続の人達を待って再び歩き始めました。

県境

三重県と滋賀県の県境の碑がたっておりました。

滋賀県に入りました。

標識

東海道らしい標識が建っておりました。

鈴鹿峠も下り坂になり、足取りも軽く土山宿を目指します。

万人講常夜燈

鈴鹿峠を越えた所に自然石を積んだ大きな常夜燈がありました。

現代のものかと思ったら、江戸時代に金毘羅詣での講中が道中の安全を祈願して建立したそうです。

重さ38トン、高さ5.44mありますが、江戸時代どんな風に運んで積み上げたのでしょう。

鈴鹿トンネルの工事のために今のところに移されたそうです。

道路標識

峠を下りきると、こうした道路標識が見に入ります。

少し前まで、木々に囲まれた難儀な山道を歩いていたのが嘘のようです。

マンホール

土山町のマンホールです。

雉と椿がデザインされております。

一里塚

中山の一里塚と呼ばれ、日本橋から109里目の一里塚です。

今は公園になっておりました。

鈴鹿馬子唄

鈴鹿馬子唄はあまりにも有名で、全国大会が開催されるほどになっております。

鈴鹿峠を行き来する馬子の仕事唄で、江戸の初期から唄われており、江戸中期には、歌舞伎や人形浄瑠璃などに取り入れられて広く知れ渡ったと云われております。

「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る・・・」と唄われていた土山宿ももうすぐです。

猪鼻村立場

この辺りは、猪鼻村立場といったところで、村の中を東海道が610mに渡って通り、50件ほどの家が並んでいたそうです。

浄福寺

とりわけ有名ではありませんが、境内に赤穂浪士の大高源吾が江戸に向かう折に詠んだという句碑が建てられております。

いの花や 早稲のもまるる 山おろし   子葉(俳号)

大高源吾と云えば、やはり、俳句の師匠でもある其角と両国橋の上でばったりと会い、其角が「年の瀬や 水の流れと人の身は」と発すると、その呼びかけに源吾が答える「あしたまたるる その宝船」と詠みかえしたという話が有名です。

見事本懐を遂げる源吾、句の謎が解けた其角・・・面白いですね。

蟹坂古戦場

天文11年に、伊勢の北畠氏が甲賀に進出しようと企て攻め込んだところ、中山城主の中山氏に阻まれて、一進一退を繰り返して、中山氏が勝利を収めて、北畠氏の甲賀進出を阻んだという古戦場です。

田村川橋(現・街道橋)

田村川に架かる今の街道橋は、江戸時代は田村川橋と呼んでいたそうですが、この橋ができるまでは、下流600mほどの所を徒渡ししており、増水の度に事故も多かったと伝えられております。

土山宿の人々は、架橋することを幕府に願い出て許可が出ると、資金を集めて橋を架け、橋には番所を設けて渡る人から料金を徴収して、修理や架け替えの費用にしたそうです

旅人は、この橋を渡り、田村神社の参道を通って土山宿に入って行った。

東海道

橋を渡ると旅人は、左に曲がり土山宿へと入って行きますが、旅の人達は、これだけの神社の前を素通りする人は、まず、いないと思いますので、神社にお参りを済ませて参道をお借りして通って行ったと思います。

田村神社

嵯峨天皇の勅願で創設されたと伝えられている神社です。

鈴鹿峠の山賊退治で有名な坂上田村麻呂や嵯峨天皇を祀る由緒ある神社で、鈴鹿峠山頂に鎮座しておりましたが、後年この地に移築されたと伝えられております。

二の鳥居

私達は東海道を歩いて神社にお参りしましたから、二の鳥居から参道を入って行きました。

正面に見えるのが本殿です。

お参りを済ませて、参道を歩いて正面の大鳥居から出て、本日の街道歩きは終わりました。

ここからバスに乗って、ホテルに入ります。

歩いた距離は、15.7k

歩いた歩数は、23.980歩でした。

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「亀山宿」から「関宿」を経て「水口宿」まで

2021-03-31 18:20:45 | 東海道五十三次の旅

3月31日(水)

3月26日 第1日目

春を通り越したような暖かな一日でした。

今日は先日歩いてきた、東海道五十三次散歩の備忘録です。

亀山城

今回は、この亀山城下がスタート地点です。

亀山城は、街道の重要な位置ありますから譜代大名が配置されて、何人かの大名に変わっておりますが、石川氏が最後の殿様となって明治を迎えております。

亀山宿

歩きだすとすぐに、こんなお屋敷が現れました。

国の有形文化財に指定されている森家の住宅です。

今でも子孫が住んでいるそうですが、思っただけで不自由な生活をしているのではないかと思ってしまいます。

野村一里塚

歩き始めて最初に出会った一里塚で、日本橋から105里目になります。

大正時代に南側は撤去されてしまい北側の塚のみが現存しており、塚には、高さ20mの椋の木が目印として立っております。

樹齢400年と云われております。

マンホール

亀山市のマンホールで、高々と城が画かれております。

布気皇館太神社

垂仁天皇御代の創建というから何とも古い社ですが、その時代、時代にほんろうされて色々な名称で呼ばれおりましたが村人たちの拠り所になっておりました。

明治になってから、近郷の小社を合祀して現在の神社名になったそうです。

太岡寺畷

太岡寺畷は、鈴鹿川の左岸に2k程続くところで、当時は松並木だったそうですが、今は桜が植えられて、私たちが歩いた時は、チラホラと咲き始めたばかりでした。

関宿

太岡寺畷が終わると、この大きな看板が見に入ります。

いよいよ待望の関宿です。

関宿は、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠42軒、問屋場1軒の宿場でおよそ2kにわたり、民家が軒を連ねております。

古来、都を守る日本三関のひとつに、「鈴鹿関」が数えられていたのが、関の地名になったといわれております。

関宿は、鈴鹿峠を控え東の追分は、伊勢別街道と大和街道の分岐点として重要な宿場でもあり、旅人も大名も城下町の亀山宿での宿泊を避けて関宿へ宿を取ったと云われております。

名物は、火縄で旅人は煙草の火に使うために買い求めたそうです。

そして、もう一つの名物が、「関の戸」といわれるお菓子で、江戸時代から朝廷に献上されていたという銘菓です。

この宿が、こうして忘れ去られたようなまま残ったのは、鉄道の開通により人や物の移動が無くなった事と国道一号線が、宿の裏側を通ったために古い家並みがそっくり残ってしまったという事です。

昭和59年荷「重要伝統的建造物群保存地区」に指定され、電線などは地中に埋設され東海道随一の宿場の景観を残しております。

関の小萬のもたれ松

私達は誰ひとり知りませんでしたが、この地区では有名な話らしく寄りかかった松まで標識が建っております。

小萬という女性が見事に敵討ちをしたという話です。

マンホール

関宿は、旅姿のマンホールです。

東の追分

鳥居が建っているところが、伊勢別街道との追分です。

道標には、「是より外宮江十五里」「左江戸道」「是よりいせみち」と刻んでありました。

関の一里塚

鳥居近くに、日本橋から106里目の一里塚があります。

関宿

電柱やコンビニなど、現代の様相は全く排除して、映画のセットのような宿場ですが、今では、このノスタルジックの雰囲気を味わいたく、大勢の人々が訪れているそうです。

この宿の写真を何枚撮った事か・・・

関神社

この地を治めていた関氏の祖先が、熊野神社から分霊し勧請したので、江戸時代は、「熊野三所大権現」と呼んでいたそうです。

そして、この神社の夏祭りの山車が最盛期には16台も出て狭い宿場は大混雑してしまい、この時の混雑ぶりを「これ以上は無理・限度だ」という意味を込めて、「関の山」という語源になったと云われております。

銀行

地元の銀行です。

もちろんお客様が出入りしており、宿の通りに溶け込んだような銀行です。

銀行なども、こうし建物での営業ですからすごい事だと思います。

関宿脇本陣跡

川北本陣の川北家は、問屋場も兼ねた宿の有力者で359坪という大きな建物であったそうです。明治になり、その役目も終わり、川北家の門は、延命寺の山門として移築されております。

これほど大きな建物は、個人ではとても持ち切れなかったという事です。

宿を上から

宿全体を上から眺められる場所がありました。

二階に上がるとベランダのように開けたところがあり、そこからの眺めが写真の通りです。

何とも情緒有る風景だと思います。

ここからの写真は、パンフレットによく掲載されているようです。

旅人宿

旅人宿・石垣屋という赤い幕が張られた現代の旅籠で近づいて見ると、一泊素泊まり2.500円と書いてありました。

外国の方や若者が利用しているという事です。

郵便局

郵便局です。

こちらも現役の郵便局で、お客様が入って行きました。

関の戸本舗深川屋

江戸初期から続く街道名物のお菓子屋さんです。

服部重保が考案した「関の戸」は、赤小豆の漉し飴を求肥皮で包み和三盆をまぶした上品なお菓子です。江戸時代を通じて朝廷に献上されたので、天保元年に上皇様より「従三位陸奥大掾」の官位を授かったというお菓子屋さんです。

建物は、天明四年といいますから237年も前のものです。

看板(日本橋から)

瓦屋根の付いた庵看板ですが、私達のように江戸から来た旅人が目にする看板です。

「関の戸」」と優しい字で書いてあります。

看板(京から)

反対側の看板は、京からの旅人が目にする看板です。

漢字で「関能戸」と書かれておりますが、これは、店から出た旅人が方向を間違わないためという事ですが、こっそりと教えてくれ事があり、私は納得しましたがここに書く事はできません。

旅籠玉谷歴史資料館資料館

大旅館だった玉屋が資料館になっております。

等身大の人形が私達を迎えてくれました。

旅籠の部屋

当時一般的な旅人の部屋を再現しております、

「関で泊まるなら玉屋か鶴屋」と唄われていた大きな旅籠でしたが、今は資料館になっており、当時の風俗などを後世に伝えるべく、江戸時代の旅籠の雰囲気を演出して訪れる人達を楽しませております。

郵便ポスト

道々にあるポストですが、こんな形をしております。

「書状集箱」と書かれて、郵便ポストです。

こうして、宿全体の雰囲気を壊さないように、それぞれが工夫をしているのが良く解ります。

高札場

宿場にはどこでもある高札場です。

ここは復元されたものですが、この高札場にお上からのお達しなどが掲げられ周知されるようにしたそうです。

福蔵寺

織田信長の三男信孝の菩提寺。

本能寺の変では、難を逃れた信孝が、父信長の菩提を弔うための寺として建立された寺です。

後、後継を巡って秀吉と対立し、賤ヶ岳の戦いで敗れて、知多半島の野間で自害させられております。

家臣大塚俄左衛門により関の福蔵寺に葬られたといわれておりますが、秀吉のとがめを恐れたために無名の五輪塔にしたと伝わっており、現在には痕跡が残っておらず、信孝400年忌に供養塔を機に建立したそうです。

織田信孝供養塔

信孝辞世の句「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」という凄まじい句を残しております。

位牌は、本堂に安置されているそうです。

小萬の墓

同じお寺に、関では有名な小萬の墓がありました。

関宿に入るとすぐに、「小萬のもたれ松」がありましたが、敵討ちを成就した小萬がここに葬られておりました。

「関の小萬の亀山通い 月に雪駄が二十五足」と唄われていたほど、仇を探して亀山宿を歩いたといわれております。

その小萬は見事に仇討ちをしたといいます。

地蔵院

日本最古の地蔵菩薩で知られる関の地蔵院です。

「関の地蔵さんに振袖きせて、奈良の大仏婿に取る・・・」こんな俗謡でも名高い地蔵院は、天平13年に天然痘に苦しむ人々を救済するために地蔵菩薩を安置したと伝えられております。

江戸中期の元禄10年に、本堂再建のため江戸本所回向院で関の地蔵尊が出開帳されると、回向院の外まで人で埋まるほどの大盛況だったという事です。

特に、五代将軍綱吉の母桂昌院が、関の地蔵尊を信仰して綱吉が生まれたといわれており、そんないわれから、本堂は綱吉が再建したと伝えられております。

境内の本堂、鐘楼、愛染堂の三棟は国の重要文化財に指定されております。

西の追分

関宿を進むと、西の追分になります。

西の追分は、大和街道との別れ道で奈良に都があった頃、伊勢へと繋がる街道でありました。

髭題目道標

髭文字は日蓮宗の特徴ある文字の事で、ここに刑場があったので死者の供養のために元禄時代に建立されたと云われております。

「ひだりはいがやまとみち」と刻まれております。

西の入口

関宿の西の木戸があったところで、ここまでが関の宿でした。

この先は、ダラダラとした登りの坂道がが鈴鹿峠へと続いております。

いよいよ、鈴鹿峠です。

第一日目 歩いた距離は11.4k 17.159歩でした。

     

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雨の中街道歩きは辛いけれど

2021-03-28 18:57:40 | 東海道五十三次の旅

3月28日(日)

天気予報通り朝から雨が降っていて、街道歩きとしては最悪の条件の中、出発致しました。

昨日難所鈴鹿峠を踏破しましたから、雨の中を歩くのは意気もあがりませんが、置いていかれるのは困りので仕方ありません。

関宿

関宿の旅籠の2階から写真です。

今回の街道歩きのメインは、鈴鹿峠だと、同行ガイドさんは盛んに言っておりましが、私は、関宿が1番良かったと思っております。

久しぶりの街道歩きでしたので、備忘録が書けるか心配になりましたが、旅の記録はどうしても残して置きたいと思っております。

雨の中の街道歩きは、辛いけれど、また、歩きたくなります。

けれど新幹線車中にて

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西の難所鈴鹿峠を歩いて

2021-03-27 16:09:02 | 東海道五十三次の旅

3月27日(土)

今日も東海道を歩いております。

昨日に続いて雲ひとつない晴天です。

西の難所と言われております鈴鹿峠を無事に越えるました。

関宿

昨日歩いた関宿の風景です。

鈴鹿峠は歩くのが精一杯で、写真が撮れませんでした。

関宿は、こうした家並みが2キロも続いております。

明日は雨の予報ですが、雨天決行ですから、雨ガッパを着て歩きます。

亀山市のホテルにて

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東海道五十三次を歩く

2021-03-26 16:39:58 | 東海道五十三次の旅

3月26日(金)

朝から好天に恵まれて、東海道を歩いております。

前回はいつ頃歩いたか分からないぼどです。

新幹線の車内で

新幹線で名古屋までゆき、そこから前回のゴール地点までバスで送ってもらい歩き始めます。

今日は、亀山宿と関宿を歩きました。

初日だと言うのにお疲れ気味です。

詳しくは、備忘録で記載したいと思います。

亀山市のホテルにて

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熱田宮宿~桑名宿~富田まで・・・

2019-06-23 17:10:15 | 東海道五十三次の旅

6月日23日(日)

昨日同様、はっきりとしない一日でした。

久しぶりの日曜日という感じですが、今日は先日の東海道五十三次散歩の最終日を備忘録としてまとめたいと思います。

 

熱田宿の七里の渡し場

昔の旅人は、ここから船で桑名宿に向かいました。

 

バスで

私たちはバスで桑名宿を目指します。

途中の景色は、いかにも人工的な風景ですが、太陽光発電がびっしりと並んでいたのには驚きました。

埋め立てをしたのは、何を目的としたのでしょう・・・。

 

薩摩藩士が眠る寺・海蔵寺

ここには海蔵寺には、大勢の薩摩藩士が葬られたお墓がありました。

桑名の沖合は、揖斐川、長良川、木曽川が伊勢湾に流れ込む合流地であったために、毎年のように洪水が発生したそうで、これを改善するべく命を受けたのが、薩摩藩だったそうです。

工事が難航して、中々完成をしない責任を取って切腹をした藩士もいたといわれております。

工事中に病気などで亡くなった藩士、責任を取って切腹して亡くなった藩士など、それぞれがこのお寺に埋葬されておりました。

この難工事も一年三ヶ月という歳月と、総工費四十万両という大金をつぎ込んで完成したといわれております。

 

七里の渡し場

舟で発った旅人は、桑名宿のここに到着しました。

 

桑名藩の櫓

桑名宿玄関口に当たり、伊勢神宮の入り口でもありました。

入って来る旅人を監視していたそうです。

 

七里の渡し

桑名宿にも七里の渡しの碑が建っておりました。

 

伊勢神宮への鳥居

舟から上がった旅人は、伊勢神宮への鳥居をくぐって宿内に入って行くことになります。

 

通り井跡

桑名では、地下水に海水が混じってしまい生活用水とはできないために、藩主が陣頭指揮して、2キロ先の川から水道を引くことにして、町内の主要道路の地下に、木樋や竹筒を埋め込み、道路側溝に正方形の升を設けて、人々は釣瓶でますから水を汲み上げ生活に使っていたそうです。

驚いたことに、明治34年に近代水道が完成するまで280年の間、この水が人々の生活を支えていたといいます。

写真の「井」は、ここに水道の升があったことを示しております。

 

春日神社

春日神社は、一つの鳥居をくぐると二つの神社をお参りができるという変わった神社です。

桑名神社と中臣神社ですが、奈良から春日四柱を勧請してからは「春日大明神」と呼ぶようになったといわれております。

珍しい青銅の鳥居が建っている事でも有名です。

 

しるべ石

東京でもありましたが、迷子になった子供の特徴など書いて貼っておくと探し当ててくれたそうです。

 

桑名城石垣

桑名城の石垣の一部ですが、見られるところです。

野面積みといわれる石垣ですが、当時の様子を思いめぐらせる絶好のところです。

 

道しるべ

右京都伊勢と指で指しております。

左江戸

向きが変ですが、あった場所からこちらに移動したのでしょう。

 

マンホール

七里の渡しが描かれております。

 

桝形

桑名宿もこうした桝形の曲がりがいくつか残っております。

 

マンホール

桑名宿のマンホールです。

その手は桑名の焼き蛤・・・

 

桑名宿

通りは昔のままだそうですが、家はすっかり建て替えられておりますので、街道だったという雰囲気は全くありませんでした。

 

火の見櫓

街道沿いに立っておりました。

 

常夜燈

街道筋に立つ常夜燈で、東海道の道しるべとして、また、伊勢神宮への祈願を兼ねて岐阜の材木商が寄進したものです。

市の有形民族文化財に指定されております。

 

縄生村一里塚

日本橋から97番目の一里塚ですが、作り立てホヤホヤといった感じです。。

宮宿の89番目からずいぶん飛んでいると思うでしょうが、海上の七里を加えて97番目と数えるそうです。

海上もちゃんと数えるんですね・・・

 

東海道

見るところもなくひたすら歩く東海道です。

 

こんな看板

東海道はこので左に曲がりますが、多くの人がまっすぐ行ってしまうそうです。

看板は新しく、案内人のいない街道歩きの人にはありがたい看板です。

 

宝性寺

歩き続けておりましたので、一息入れるのに丁度よいお寺さんでした。

宝性寺といいます。

ご本尊は、石山寺を開基した良弁僧正による一刀彫の「十一面観世音菩薩像」です。

かっては幾多の坊を有する寺院だったそうですが、幾多の戦火に巻き込まれ、現在の姿になっております。

特筆すべきは、どこの宗派にも属さない単立寺院だそうです。

もっとお賽銭あげてくればよかった・・・

 

富田一里塚

日本橋から98番目の一里塚です。

今はこの碑が残るのみですが、かっては大きな榎が建っていたそうですが、全く面影はありませんでした。

 

マンホール

個々のマンホールは、広重の「松寺」をデザインしてります。

 

富田駅

今回の東海道五十三次散歩のゴールでした。

駅の向こう側でバスが私たちを待っております。

ここから東京を目指して5時間のバスの旅が始まります。

次回の東海道五十三次散歩は、今のところ予定がたたずにおります。

 

 

 

 

 

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間の宿「有松」から熱田宿まで歩く・・・

2019-06-20 17:04:15 | 東海道五十三次の旅

6月20日(木)

今日も朝から青空です。

明日からのお稽古に備えて、午前中から掃除や道具の出し入れです。

手早く済ませて、忘れてしまわない内に東海道五十三次散歩の備忘録です。

第二日目は、前日のゴール地の有松からスタートでした。

 

有松の由来

この松が地名の由来だそうですが、宿の中に一本の松があったので、そのまま「有松」となったそうですが、何とも簡単に付けたものです。

 

街並み

準備運動をして、出発です。

朝早かったためか、私たち以外には人がおりませんでした。

 

一里塚

有松の一里塚です。

日本橋から87番目の一里塚です。

地元の皆さんの強い意志によって、平成24年に新しく完成したそうです。

 

瑞泉寺

曹洞宗のお寺さんで、総門や本堂などが文化財に指定されております。

総門の「曇華峰」は、「どんげぼう」と読み、三千年に一度だけ花が咲くといわれている伝説の樹のことだそうです。

仏道を志、正しく仏法学んだ時に、あらゆるものが優曇華として花開くといった意味だと言われております。

 

瑞泉寺入り口

瑞泉寺の入り口です。

導かれるように入って行きました。

 

鳴海城跡

太閤記や信長記に出てくる鳴海城跡です。

こんな地に立つとワクワクしてきます。

 

芭蕉供養塔

誓願寺境内にある芭蕉供養塔は、芭蕉が亡くなった翌月の命日に門人たちにより建立されたもので、供養塔としては最古のものといわれております。

元禄7年の建立です。

千句公園

芭蕉をゆかりの公園です。

丘の上に千鳥と波がコンクリートに刻んでありました。

 

千鳥塚

東海道から少し入ったところにある千句公園に、芭蕉が存命中に建てられた唯一の自筆の句碑がありました。

星崎の 闇を見よやと 啼く千鳥 芭蕉

 

海抜

千句公園から街道に戻ると、電柱にこんな表示がありました。

公園が高台になっていりましたから、ここが昔は海であった事を示しております。

街道を歩いていて一番心が躍るのが、立派な一里塚に出会ったときです。

 

 

笠寺一里塚

日本橋より88番目の一里塚です。

直径が10メートルはあろうかという塚には、当時のままの榎が悠然と立っておりました。

 

笠覆寺

このお寺さんは、一般的には「笠寺観音」または、「笠寺」と呼ばれております。

荒廃した寺のご本尊「十一面観世音菩薩像」が雨に濡れているのが忍びなく、長者の娘が笠を被せている姿を、時の関白の息子の目にとまり、これが縁となって結婚したといわれております。

そんな逸話から、縁結びの観音様として有名になりましたが、ご本尊は今でも笠を被っているそうです。

 

多宝塔

このお寺のシンボルでもある多宝塔ですが、今は、その前に石で刻んだ、竹千代(家康)と織田信広の人質交換が行われたという伝承に基づき碑が作られておりました。

まだ、真新しかった・・・

 

再び有松へ

昼食のために、バスで再び有松へ行きました。

江戸時代に、この宿も火災に見舞われほとんどが消失したといわれております

それを教訓に、再建の時は延焼を免れるために、各家との境に丈夫な「うだつ」を作ったそうです。

今まで見た中では、一番立派な「うだつ」でした。

 

再び街道へ

昼食を済ませて再び東海道へ戻りました。

東海道と鎌倉街道の交差点です。

私たちはしばらく鎌倉街道を歩くことになりました。

 

地蔵院

案内されたのは、地蔵院と呼ばれる小さな寺院でした。

良くある話ですが、海中から引き揚げられた地蔵菩薩ですが、この時に、一人の老人が現れて、「この像に祈願するときは、湯をかけてお参りするように・・・」と語って姿を消したことから、村の人々は「湯浴地蔵」と呼ぶようになったと伝えられております。

 

お地蔵さま

このお地蔵さまは、この地方では珍しく鋳鉄像であることが特筆されております。幾多の災難で頭部と両手を残して他の部分は失われてしまいましたが、人々は、コンクリートで胴体を復元して、お堂に安置されて、今なお信仰されております。

 

愛知県の由来

私たちは、白毫寺というお寺さんに案内されましたが、境内を抜け奥へと進むと、大きな石碑が建っておりました。

「年魚市潟勝景」という石碑で、「あゆちがた」と読むそうですが、読めませんでした。

遥か昔は、この地から海を望み、その景色が素晴らしく歌枕になっていたといいます。。

今は木々に覆われて、その向こうは名古屋の市街地ですので想像もできません。

この「あゆち」が愛知県の県名の由来だそうです。

 

国道1号線

鎌倉街道から東海道に戻りましたが、1号線に合流しております。

357k・・・歩きました。

 

線路

いつもブログに掲載しますが、線路は真っすぐです。

 

伝馬町一里塚

日本橋から89番目の一里塚です。

熱田一里塚とか宮一里塚とも呼んだそうです。

 

裁断橋跡

豊臣秀吉の家臣堀尾金助という若者が18歳で亡くなってしまい、それを悲しんだ母親がこの橋を架け替えたそうです。

川は埋め立てられており橋はなくなっておりますが、かつての川は、精進川といい、この橋のたもとには、死者の服を奪い取る奪衣婆(だついば)を祀る姥堂があり、橋の名の由来は、死者を閻魔大王が裁断する場であったからだそうです。

そんな言われを知った母親は、息子が閻魔大王に良きように裁断されるように、橋を架け替えたのだと思います。

母の愛はすごい・・・

 

都都逸発祥の地

こんなところで都都逸発祥の地を見るとは思いませんでした。

都都逸は、都都逸坊扇歌によって広められたといわれております。

七・七・七・五の音数律によって成り立っております。

立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は 百合の花

惚れて通えば 千里も一里 逢えずに帰れば また千里 

これらがよく知られております。

 

三叉の道標

東海道・名古屋・木曽路と七里の渡しとの分岐点を示す道標で寛政2年に建立されたものが残っております。

しかし、これはレプリカで本物は個人の所有になっているとか・・・これが不思議??

 

七里の渡し場

宮宿から桑名への「七里の渡し」の湊があったところで、今は市民の憩いの場になっておりました。

 

常夜燈

熱田湊の灯台の役目をしており、犬山藩主成瀬正虎によって建てられたといわれております。

 

時の鐘

時の鐘は、渡しの開閉時間を知らせるために設置されたもので、昭和58年に公園のモニュメントとして現在地に設置されました。

本日の街道歩きは、ここ「七里の渡し場」でゴールということです。

 

熱田神宮

天照大神・日本武尊・素戔鳴尊・宮簀姫命などの五神そして「三種の神器」の一つ「草薙の剣」がご神体になっております。

源頼朝の母が大宮司の娘であったといわれ、頼朝はこの熱田神宮への崇敬の念が強かったと伝えられております。

そうした事から、代々の武将たちの尊崇が厚かったようです。

信長が一騎で駆け出して、熱田の森に集結して戦勝祈願を済ませて、桶狭間に向かったという話は有名です。

 

二十五丁橋

境内にある石の橋のことですが、25枚の花崗岩で作られており、かっては神宮の堀に架けられていたそうですが、拡張工事の際に取り壊されて、現在の所に移されたといわれております。

今回の散歩中に、ここで三度こうした石橋を見たことになります。

 

石橋の構造

橋げたは石が組み込んであり、当時の技術の高さがうかがえます。

 

信長塀

熱田神宮に集結した信長は、熱田神宮に戦勝祈願をしてから出陣し、見事に敵の大将を討ち取り勝利を収めましたので、そのお礼にとこの塀を寄進したと伝えられております。

熱田の森は広かった・・・

お参りをして私たちはホテルに向かいました。

歩いた距離16.3k 歩数は24.179歩

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「池鯉鮒宿」から間の宿「有松」まで・・・

2019-06-17 19:49:36 | 東海道五十三次の旅

6月日17日(月)

青空が広がっておりますが、乾いた北風が吹いております。

今日は月曜日、ストレッチ教室に行ってきました。

東海道五十三次散歩から三日目ですので、丁度良い運動になりまた。

今日は、東海道五十三次散歩の備忘録です。

 

御手洗池跡

今は公園になっておりますが、元々は池があり、その池に鯉や鮒がたくさんいたので「池鯉鮒」と呼ばれるようになり、そのまま地名になったそうです。

 

池鯉鮒宿

新しい道標が建っておりました。

市の名称は、知立市になっておりますが、「池鯉鮒宿」の響きを大切にしているようです。

 

知立城跡

あまり知られてはいりませんが、ここに城があったことを教えております。

案内の方も、あまり力が入っておりませんでした。

 

 

知立神社 多宝塔

日本武尊が東国平定の帰途、国運発展を祈願して創建されたと伝えられる三河国二之宮になっております。

門構えは、寺院のような神社です。

室町時代の建立で国の重要文化財に指定されております。

明治になっての廃仏毀釈の時には、仏塔ではないように改装されて取り壊しを免れたそうです。

 

石橋

神殿正面にかかっている石橋は文化財になっており、今は渡ることができませんが、この地方には多く残されているそうです。

 

総持寺

総持寺は、知立神社の別当寺院として創建されましたが、江戸時代になると、寛永寺の末寺となり寺名を総持寺としたといわれております。

昭和2年に再興されたそうです。

 

御本尊

御本尊は「流汗不動明王」です。

不動明王は私の守り本尊ですので失礼してガラス越しに撮らせていただきました。

 

一号線

日本橋から341キロです。

歩いたもんです。

 

一ツ木一里塚

日本橋から85番目の一里塚です。

街道沿いにひっそりと碑があるのみでした。

 

うどんの発祥地

三河国芋川はうどんの発祥の地として記録されております。

今では、名古屋地方の「きしめん」が有名ですが、どうして、きしめんという名前に変わったかはわからないそうです。

関東地方の「ひもかわうどん」は、芋川がなまって紐皮になったといわれております。

 

境橋

境川に架かる境橋が、三河国と尾張国の境になっております。

橋のこちらが三河国、あちら側が尾張国ということです。

 

阿野一里塚

ここ阿野一里塚は、左右一対に残っているために、国の史跡に指定されております。

久しぶりに一里塚らしい一里塚を見ることができました。

日本橋から86番目の一里塚です。

 

桶狭間古戦場

今回の東海道五十三次散歩の中で、一番楽しみにしていたところです。

街道から入るとすぐに古戦場跡に到着でしたので、なんとなくあっけなく着いてしまったという感じでした。

 

今川義元の墓

ここで亡くなった今川義元のお墓です。

華やかな印象が強い義元でしたので、やけに貧相なお墓にびっくりでした。

 

今川義元本陣跡

 

古戦場の後に建つ高徳院の境内に「今川義元公本陣跡」という碑が建っておりました。

石が新しいところから、まだ近年になって建てられたものと思われます。

 

桶狭間古戦場跡

公園のように整備されておりました。

ここで命を懸けて、数千の人々が争いそして死んでいった場所ですが、小さなお子さんを連れたお母さんが、楽しそうに散歩をしている姿を見るに付け、歴史を感じ時代の流れを思わずにはいられませんでした。

 

マンホーッ

マンホールも兜をかぶった武者が描かれております。

ここ桶狭間古戦場跡は、豊明市と名古屋市の双方に古戦場跡があり、どっちが本物なのか競い合っているそうです。

 

有松

有松と聞いてすぐに「ありまつ絞り」を思い出す方もたくさんおられると思います。

豊後高田から来ていた人夫の手ぬぐいの絞りからヒントを得て作り始めたといわれておりますが、今ではすっかりと定着したブランドになっております。

この町は町を挙げて、歴史を取り戻そうとしております。

 

これは

絞りをイメージしたもので、電気線などの蓋のようです。

 

街並み

有松の街並みです。

電柱が立っていないのが分かると思いますが、町全体で昔の面影を維持して行こうと頑張っております。

 

街並み

ここは、「間の宿」といわれ、宿と宿の中間にできた宿場です。

有松という名前も、町の中に松があったために、そのまま地名にしたそうです。

街道に面した800メートルは、どの家にも「ありまつ」というのれんを掛けて、来た人々を迎えております。

ゆっくり尋ねてみたい町の一つになりました。

一日目は、ここで終わりました。

 

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宮宿から冨田宿まで歩く

2019-06-13 16:03:29 | 東海道五十三次の旅

6月13日(木)

雨の心配はまったく無い快晴の朝を迎え、東海道五十三次散歩の最終日を迎えました。

昨日のゴール地点は、宮宿(熱田宿)の、七里の渡し場でしたので、そこがスタートになりますが、今は、船の調達が困難だそうで、私達はバスで移動です。

高速道路で移動

江戸時代では、七里の渡し場からは、およそ二時間だったそうですが、私達現代の旅人は、バスで50分ほどで桑名宿に着きました。

そうした事情で、実際に歩き出したのは桑名宿からということになります。

桑名宿の七曲りを歩いて城下町を離れて、昔のままの街道をひたすら歩きて、今回のゴール地点冨田宿に三時に到着しました。

バスに揺られながら東京に向かっておりますが、何時につくかは渋滞次第です。

到着時刻は20時が目標だそうです。

 

 

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