3月8日(木)
今日も先日東海道を歩いた備忘録で、2泊3日の街道歩きも最終日です。
3月28日 3日目最終日
土山宿から水口宿まで歩きましたが、天気予報が予報通りで朝から雨でした。
街道歩きにとって雨は、一番の難敵で最も歩きたくないという気持ちが強くなる日です。
こんな日でしたが、全員が雨合羽を着こんでの出発です。
土山宿の碑
昨日のゴール地点までバスで送ってもらい、雨の中を歩きだすとすぐに私達を迎えてくれた「土山宿」の碑でした。
馬子唄に唄われていと云う通り、雨の土山になりました。
土山宿は、本陣2軒、旅籠44軒、問屋場1軒、と規模は大きくは無かったが、宿場の街並みは、2.5kもある細長い宿でした。
この宿場から近江や伊勢街道が分岐されいたために、近江商人や旅人で賑わっていたそうです。
鳥居旅籠屋跡
旅籠跡ですが、今でも子孫が住んでいるそうで、維持や管理が大変だろうと気になって仕方がありませんでした。
地蔵堂
街道筋にはどこにでもあるお地蔵さまを祀ったお堂です。
旅人の安全や、この地域に疫病などが入ってこないようにと願って建てられております。
上島鬼貫の句碑
大阪生まれの俳人で、「東の芭蕉、西の鬼貫」と云われておりました。
吹け波(ば)ふ希(け) 櫛を買いた耳(に) 秋乃風
お六櫛問屋
信濃の国の櫛職人が、上京の途中に病に倒れて、大森家のご先祖様が助けた事から、お礼にと送って来た「お六櫛」を販売したのが始まりとされている。
その製法が、信濃の職人の「おろく」という人の創意工夫から生まれた櫛であることから「お六櫛」として販売したと云われております。
お六櫛看板
中山道の宿場で有名な「お六櫛」の看板に驚きましたが、遠い昔から信濃の国と繋がっていたことにも驚きました。
土山宿
小雨の中の宿場の通りです。
人も見られず江戸時代の雰囲気をたっぷりと残しております。
一里塚
土山一里塚は、日本橋から110里目の一里塚です。
民家の玄関先に碑が建っているだけでした。
白川神社
創建は不明という事ですが、土山宿の鎮守さまです。
明治天皇が東京へ行幸時に携行していた、三種の神器の内のひとつ「八咫の鏡」を白川神社に一時安置したという神社です。
「内侍所奉安所跡」と刻んだ碑が建っております。
井筒屋跡
旅籠井筒屋は、森鴎外の祖父・森白仙の終焉の地だそうです。
森鴎外は知っておりましたが、お爺さんまでは知りませんでしたが、津和野藩のご典医として代々仕えてていたお方だそうです。
旅の途中で亡くなって、後鴎外が祖父の終焉の地を訪ねて来られて一躍有名になったそうです。
二階屋本陣跡
江戸時代前期に本陣を務めていたが、幕末には衰退して本陣は大黒屋に変わっております。
この本陣と並んで問屋場が有ったそうです。
東海道伝馬館
ここは問屋場があったところに建てられたもので、当時の問屋場を再現しております。
伝馬館に入るところに、「文豪森鴎外来訪の地」という大きな碑が建っておりました。
中は、往時の様子を再現している、記念館といったところでした。
問屋場跡
今でも昔のままで残っている建物は、大黒屋本陣だったところでが、手前の空いているところに問屋場が有り、その横には高札場が有ったそうです。
土山本陣(土山家)
東海道に現存する3本陣の中で、唯一ご子孫がお住まいになっている本陣です。
土山家では、三代将軍家光が上洛する際に本陣を務め、以来明治を迎えるまで本陣をbbb務めていたそうです。
明治天皇が9月に東京行幸する際に、この土山本陣でお誕生日を迎えたそうで、この本陣で、第一回の「天長節」が執り行われたという由緒ある本陣です。
住民には、お神酒とスルメが下賜されたと伝わっております。
本陣は、改装されましたが、天皇の使われた上段の間は「玉座」として保存されているそうです。
常明禅寺
奈良時代に創建された臨済宗東福寺派の古刹で、貞和5年に京都の鈍翁禅師が再興しましたが、その時一緒に茶の苗木を持参移植したのが、土山茶の始まりと伝えられております。
長屋王が発願した大般若経27帖は、国宝に指定されております。
森家の墓
森家の墓が奥まったところにありましたが、まだ新しい墓石が建っておりました。
御代参道道標
国道一号線のところに二基の道標が建っております。
「たかのよつぎくわんおんみち 高埜世継観音道」と刻まれております。
近江の永源寺観音堂への道という意味だそうです。
もう一基は、「右北国たが街道 ひの八まんみち」と刻まれ中山道を経て多賀大社への道の案内です。
御代参道道標の意味は、皇族が派遣した多賀大社への代参の使者が通ったので、「御代参道」という名が付いたといわれております。
東海道
多くの人達が通った東海道もそのまま残るとこうした風景になります。
茶畑
今でも、土山茶は有名ですが、歩いているとたくさんの田畑を見ながら歩くことになります。
きれいに栽培されております。
放置されて
一方、放置された茶畑もずいぶんありました。
放ったらかしの茶畑ですが、まだこの状態は良い方で、木になっていた茶畑もありました。
垂水斎王頓宮跡
斎王とは、天皇が即位する度に天皇の名代として伊勢神宮へ遣わされる未婚の皇女の事です。
卜定という占いで選ばれた皇女は、年に三回伊勢神宮に天皇に代って赴き祭祀を行ったといわれております。
頓宮とは、斎王専用の宿泊施設のことで、全国でも、ここだけが頓宮と特定された珍しいところといえます。
国の史跡に指定されております。
奥宮
一応、奥宮と書きましたが、誰が祀られているという宮ではなく、ここに斎王が宿泊した宮があったという証として建てられているそうです。
伊勢道
垂水斎王頓宮跡から街道に出て来ると、この道標が建っておりました。
ここから、伊勢を目指した「斎王群行」です。
斎王群行とは、斎王の一行は400人くらいの人数が整えられて伊勢に向かった行列の事を言うそうです。
一里塚
ここは大野村といわれたところで、日本橋から111里目の一里塚があったとされておりますが、今は何も残っておりません。
講師の先生も、困ったな・・・といったところです。
従是伊勢領
小さな碑ですが、昔のまま残っておりました。
伊勢藩の飛び領だったそうで、代官が置かれて統治されておりました。
一里塚
今在家一里家といわれ、日本橋から112里目の一里塚です。
灯篭が自然石で積み上げられて、小さいながら松も植えられそれらしい雰囲気が出ておりました。
あの、何もなかった一里塚跡から4k歩いたことになります。
水口に
今回の最終目的地は水口宿です。
宿場の入り口に近づいておりますが、雨は依然として降っております。
一里塚
水口宿に入ると最初に出会った一里塚です。
復元されたものですが、私達街道歩きの者にとっては嬉しい存在です。
日本橋から112里目の一里塚です。
全景
こんな雰囲気が私達を楽しませてくれます。
雨の中を黙々と歩いていても、こうした風景に出会うと一気に活気づきます。
宝善寺
このお寺が今回のゴールです。
次回は、ここから歩き始めます。
この日歩いた距離は17k、歩いた歩数は25,226歩でした。
三日間に歩いた距離は44.1k、そして歩いた歩数は、66,360歩になりました。