6月日23日(日)
昨日同様、はっきりとしない一日でした。
久しぶりの日曜日という感じですが、今日は先日の東海道五十三次散歩の最終日を備忘録としてまとめたいと思います。
熱田宿の七里の渡し場
昔の旅人は、ここから船で桑名宿に向かいました。
バスで
私たちはバスで桑名宿を目指します。
途中の景色は、いかにも人工的な風景ですが、太陽光発電がびっしりと並んでいたのには驚きました。
埋め立てをしたのは、何を目的としたのでしょう・・・。
薩摩藩士が眠る寺・海蔵寺
ここには海蔵寺には、大勢の薩摩藩士が葬られたお墓がありました。
桑名の沖合は、揖斐川、長良川、木曽川が伊勢湾に流れ込む合流地であったために、毎年のように洪水が発生したそうで、これを改善するべく命を受けたのが、薩摩藩だったそうです。
工事が難航して、中々完成をしない責任を取って切腹をした藩士もいたといわれております。
工事中に病気などで亡くなった藩士、責任を取って切腹して亡くなった藩士など、それぞれがこのお寺に埋葬されておりました。
この難工事も一年三ヶ月という歳月と、総工費四十万両という大金をつぎ込んで完成したといわれております。
七里の渡し場
舟で発った旅人は、桑名宿のここに到着しました。
桑名藩の櫓
桑名宿玄関口に当たり、伊勢神宮の入り口でもありました。
入って来る旅人を監視していたそうです。
七里の渡し
桑名宿にも七里の渡しの碑が建っておりました。
伊勢神宮への鳥居
舟から上がった旅人は、伊勢神宮への鳥居をくぐって宿内に入って行くことになります。
通り井跡
桑名では、地下水に海水が混じってしまい生活用水とはできないために、藩主が陣頭指揮して、2キロ先の川から水道を引くことにして、町内の主要道路の地下に、木樋や竹筒を埋め込み、道路側溝に正方形の升を設けて、人々は釣瓶でますから水を汲み上げ生活に使っていたそうです。
驚いたことに、明治34年に近代水道が完成するまで280年の間、この水が人々の生活を支えていたといいます。
写真の「井」は、ここに水道の升があったことを示しております。
春日神社
春日神社は、一つの鳥居をくぐると二つの神社をお参りができるという変わった神社です。
桑名神社と中臣神社ですが、奈良から春日四柱を勧請してからは「春日大明神」と呼ぶようになったといわれております。
珍しい青銅の鳥居が建っている事でも有名です。
しるべ石
東京でもありましたが、迷子になった子供の特徴など書いて貼っておくと探し当ててくれたそうです。
桑名城石垣
桑名城の石垣の一部ですが、見られるところです。
野面積みといわれる石垣ですが、当時の様子を思いめぐらせる絶好のところです。
道しるべ
右京都伊勢と指で指しております。
左江戸
向きが変ですが、あった場所からこちらに移動したのでしょう。
マンホール
七里の渡しが描かれております。
桝形
桑名宿もこうした桝形の曲がりがいくつか残っております。
マンホール
桑名宿のマンホールです。
その手は桑名の焼き蛤・・・
桑名宿
通りは昔のままだそうですが、家はすっかり建て替えられておりますので、街道だったという雰囲気は全くありませんでした。
火の見櫓
街道沿いに立っておりました。
常夜燈
街道筋に立つ常夜燈で、東海道の道しるべとして、また、伊勢神宮への祈願を兼ねて岐阜の材木商が寄進したものです。
市の有形民族文化財に指定されております。
縄生村一里塚
日本橋から97番目の一里塚ですが、作り立てホヤホヤといった感じです。。
宮宿の89番目からずいぶん飛んでいると思うでしょうが、海上の七里を加えて97番目と数えるそうです。
海上もちゃんと数えるんですね・・・
東海道
見るところもなくひたすら歩く東海道です。
こんな看板
東海道はこので左に曲がりますが、多くの人がまっすぐ行ってしまうそうです。
看板は新しく、案内人のいない街道歩きの人にはありがたい看板です。
宝性寺
歩き続けておりましたので、一息入れるのに丁度よいお寺さんでした。
宝性寺といいます。
ご本尊は、石山寺を開基した良弁僧正による一刀彫の「十一面観世音菩薩像」です。
かっては幾多の坊を有する寺院だったそうですが、幾多の戦火に巻き込まれ、現在の姿になっております。
特筆すべきは、どこの宗派にも属さない単立寺院だそうです。
もっとお賽銭あげてくればよかった・・・
富田一里塚
日本橋から98番目の一里塚です。
今はこの碑が残るのみですが、かっては大きな榎が建っていたそうですが、全く面影はありませんでした。
マンホール
個々のマンホールは、広重の「松寺」をデザインしてります。
富田駅
今回の東海道五十三次散歩のゴールでした。
駅の向こう側でバスが私たちを待っております。
ここから東京を目指して5時間のバスの旅が始まります。
次回の東海道五十三次散歩は、今のところ予定がたたずにおります。