9月23(日)
朝からどんよりとしておりましたが、「古地図による街道歩き」という散歩に参加して、都内を歩いて来ました。
今回は、中山道に沿っての散歩でした。
東京駅日本橋口に集合して始まりました。
まずは、街道の起点である日本橋を目指します。

一石橋「満よひ子の志るべ」
ここ日本橋界隈の賑わいは大変なものだったそうで、当然迷子もたくさん出たそうです。そんな時に、迷子の特徴を書いた紙を貼っておくと、それらしい子を見た人が、どこそこに見かけたよ、と張り紙を貼って教えてくれたそうです。
江戸の街なかに、こうした石碑が何基かあったそうですが、現存しているのはこれ一基だそうです。

日本橋
日本橋といえば必ず登場するのが、「日本橋」の文字です。
德川慶喜が書いたものだそうです。

道路元標
これは道路横に設置されたレプリカですが、本物は、道の真ん中に埋め込まれているそうです。佐藤栄作が書いたものだそうです。
東京市道路元標
東京に都が移されて東京市になった時に記念して作られた道標です。

日本橋魚市場発祥の地
ここ日本橋に魚河岸があったという証明の碑です。
今は、「乙姫の広場」と呼ばれている。
魚河岸があったところですので、鯛やヒラメの・・・竜宮城の乙姫様という訳で、何とも粋な名前を付けたものです。

神田川
神田川の橋の上に差し掛かったら、クルージング船が大勢の観光客を乗せてやって来ました。

湯島聖堂
静かな湯島聖堂でしたが、大勢の庭職人さんが入っておりました。
先日の台風で木々が大分やられてしまったそうで、切り落としながら整理をしておりました。

孔子像
德川家康は幕府教学の基準を求め、林羅山などの国学者らを登用して、ここをその学問所と定め力をいれた所だそうです。
関東大震災でほとんどが焼け落ちてしまいましたが、漢学関係団体などの尽力により再建されたそうです。

神田明神
平将門を祀った神社で、知らない人はいないほどの有名な神社です。
お参りをする前にガイドさんが「成田山の氏子さんはいらっしゃいませんか?」と神妙な顔をして聞いておりました。
「神田明神は将門を祀り、成田山は、その将門を成敗するために建立されたお寺さんですから」幸い誰もおらずに、全員でお参りを済ませました。

明神男坂
明神男坂と呼ばれ、下を見ると怖くなりそうな急こう配です。
江戸時代には、安房から来る船の目標になったといわれ、また、坂からの眺めが良かったため、毎年1月と7月の26日に夜待ち(観月)が行われていたそうです。

銭形平次
「神田明神下の銭形平次で・・・」こんな決め台詞で活躍した銭形平次の碑がありました。
あと100年も経つと、実在の人物になっているかも知れません。

別れの橋跡
ここは、江戸時代には小さな川が流れており、橋が架かっていそうですが、今は埋め立てられ17号線になっております。
江戸時代、江戸を追放される罪人は、この橋に来ると解き放されたといられております。
それを見送る縁者たちとの別れの場所になりました。

かねやす
ここ「かねやす」という商店までがご府内であったといわれます。
東京大学がもうすぐそこと云いう所に「かねやす」はあります。
江戸時代「本郷も かねやすまでは 江戸の内」という川柳で有名になったとか・・・。

東大赤門
東京大学の赤門です。
すっかり観光名所になっておりまして、大勢の家族連れでにぎわっておりました。
特に子供を前に立たせて、ピースサインの写真を誰もが撮っておりました。
10年後には、実現するように・・・と願いを込めて撮ったのだと思います。

国道17号線
日本橋から4キロです。
もうすぐ一里塚があるそうです。

追分一里塚
東大の赤門を過ぎてすぐのところが、「本郷追分」になっておりました。
この追分が、丁度一里のところですので、形ばかりの看板が出ておりました。

ほうろく地蔵
江戸時代に放火の罪で火あぶりの刑にされたお七の罪業を救うために、自ら灼熱のほうろくを頭からかぶり、自らも同じ苦しみを受けたお地蔵さまとして信仰を集め、お地蔵様の祀ってある社には山ほどのほうろくが奉納されておりました。

德川慶喜
德川慶喜之屋敷跡の碑が建っておりましたが、今は、碑のみで屋敷跡は道路拡張などのために無くなっておりました。

巣鴨駅
今回のゴールは巣鴨駅でした。
德川慶喜が棲んでいた直ぐ近くに、巣鴨駅ができたために、慶喜は、「うるさくて我慢できない」という理由で引っ越して行ったそうです。
東京駅を10:00に出発して巣鴨駅には15時40分ごろ着きました。
総歩数19,800歩、総距離9Kでした。