今年一年、
町会の班長さんは根岸さんの番ね、よろしく!と
頼まれました。
と言っても、集金くらいしかないのですが。
で、お金集めに回りますと、いつのまにか
かなりのお年寄りしかおりません。
まあ考えてみればそうだね、だって自分がおじいちゃんですから。
ん~、複雑な心境です。
あと何年かすると、さらに年齢が上がって・・・
あまり考えたくないですね。
でも、これが日本の現実なのだと思い知らされました。
今の私たちにできることは、
「若者の邪魔をしないこと」
そう思います。
今年一年、
町会の班長さんは根岸さんの番ね、よろしく!と
頼まれました。
と言っても、集金くらいしかないのですが。
で、お金集めに回りますと、いつのまにか
かなりのお年寄りしかおりません。
まあ考えてみればそうだね、だって自分がおじいちゃんですから。
ん~、複雑な心境です。
あと何年かすると、さらに年齢が上がって・・・
あまり考えたくないですね。
でも、これが日本の現実なのだと思い知らされました。
今の私たちにできることは、
「若者の邪魔をしないこと」
そう思います。
幼少期の思い出のついでに・・・
私がやはり幼少期に思い出に残っているモノといえばこれです。
東京湾観音です。
東京生まれ東京育ちですから、千葉(内房)へはよくいきました。
海水浴へ行く途中、必ず出くわす風景に、この東京湾観音様があります。
電車の中、車の中、もちろん直接行ったりもしました。
私の生まれるちょうど1年前、1961年(昭和36年)の9月にできたと聞いております(違っていたらゴメンナサイ)
とにかくその優美な姿と大きさに圧倒されてしまいます。
また、実際に上った時に見える東京湾の眺望はとても感動ものでした。
定年になって毎日ヒマしているので
そのうち行こうと思っております、ハイ。
久しぶりの投稿です。
お待ちかねの方、ごめんなさい。
で、
先日、父に「昔、この家の1階が工場だったときの写真残ってる?」
と聞くと
”ホレッ” ・・・とアルバムを数冊机にぶちまけて
「この中にあるかもしれないからもってけ」と言われました。
今と違ってデジタルではありませんから
クソ重たいアルバムをめくることに。
すると、忘れかけていた思い出が飛び込んできました。
我が生まれ育った旧家、葛飾区堀切の綾瀬川沿い土手(堤防)での一コマ
となりの女の子は”順子ちゃん”
旧家のとなりに住んでいた女の子です。
この写真は、彼女が引っ越す当日に撮ったものと記憶しております。
違っても数日くらいでしょう。
なので、彼女はとても悲しそうな表情をしているのです。
最後のお別れの時に
「一也くん、さよならだね、おかし食べる?」と
”スピン”だっけかな?そんな名前のお菓子をつまんで
くれました。
「ありがとう、元気でね、ばいばい」
それが最後に交わした言葉です。
実は、ここは首都高速中央環状線で立ち退きが決まっており
次から次へとみんな引っ越していってしまったのでした。
お友達がみんないなくなってしまいました。
だから寂しかったのですね。
で、
現在はこうなってます。
彼女は当時、仙台に引っ越したそうな、震災は大丈夫だったかなあ?
元気でいることを祈っています。
すでに50年以上が過ぎてしまいました。
昭和47~8年だったかと思います。
遠くに行ってしまった風景、遠くに行ってしまった時間、
引き裂いたのは「高速道路」でしたが、
この高速を走ればまた会える、つないでくれているのも高速道路なのでした。
ちなみに、当時の時代が分かりやすいのはこの写真
船橋ヘルスセンターの通称”大滝滑り”
帰りに母が地球儀のついた鉛筆を買ってくれたのを
思い出します。
こち亀などにも出てくる東京近郊の名所でしたね。
日本が元気いっぱいの時でした。