最近、立ち上がるときに「よいしょ」とか「どっこいしょ」とつぶやくことが多くなった。
いや、最近じゃないな。
もうずいぶん前から。
なんだか、歳だなぁなんて、恥ずかしがったりすることもある。
この、どっこいしょとかよっこらしょって、いったいどんな意味があるのかなって考えたことありませんか?
ときどき、当たり前に使っている言葉の中に、ふとした疑問をかんじるんです。
またまた高橋源一郎さんの、雑誌のエッセイから孫引きです。
『さすらいの仏教語』玄侑宗久
ここには、普段ボクたちが使っている言葉がたくさん載っていて、それが仏教語だったってことに驚いてしまう。
莫迦、皮肉、観念、退屈、大丈夫なんていうのもある。
うろうろ、ないしょ、工夫、砂糖、台無し、ゴタゴタ、ガタピシ、自由、不思議、、、、、
まだまだある。
ボクたちは、知らずに仏教の言葉をたくさん使っているってことみたいです。
何年も前だけれども、京都の醍醐寺に行ったことがある。
世界文化遺産に登録されているお庭が有名だけれども、上醍醐と呼ばれる山の上に、いくつかのお堂があります。
その山に登る入口に、だれでも自由に使える杖が置いてありました。
その杖に、文字が書いてあります。
「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」
険しい山を、「六根清浄」とつぶやきながら、わが身のわが心の穢れを落としていくわけ。
杖をついて、息を切らせながら、ロッコンショージョーと言いながら歩いた覚えがあります。
それが、だんだん疲れてくると、ロッコンショージョーが、「ヨッコラショ」とか「ドッコイショ」になってくる、、、らしい。
まあ、みなさんも口ずさんでみてください。
この六根は、ボクたちが現実世界と接する器官で、般若心経にもある「眼・耳・鼻・舌・身・意」。
余計な迷いをしないように、この六根を浄化しましょうってことらしい。
だから、どっこいしょやよっこらしょは、恥ずかしがることなく、つぶやくたびに六根が浄化されているんだって思えばいいのです。
さて、今日も新しい一日。
どっこいしょ、と腰を上げて活動開始です。
いや、最近じゃないな。
もうずいぶん前から。
なんだか、歳だなぁなんて、恥ずかしがったりすることもある。
この、どっこいしょとかよっこらしょって、いったいどんな意味があるのかなって考えたことありませんか?
ときどき、当たり前に使っている言葉の中に、ふとした疑問をかんじるんです。
またまた高橋源一郎さんの、雑誌のエッセイから孫引きです。
『さすらいの仏教語』玄侑宗久
ここには、普段ボクたちが使っている言葉がたくさん載っていて、それが仏教語だったってことに驚いてしまう。
莫迦、皮肉、観念、退屈、大丈夫なんていうのもある。
うろうろ、ないしょ、工夫、砂糖、台無し、ゴタゴタ、ガタピシ、自由、不思議、、、、、
まだまだある。
ボクたちは、知らずに仏教の言葉をたくさん使っているってことみたいです。
何年も前だけれども、京都の醍醐寺に行ったことがある。
世界文化遺産に登録されているお庭が有名だけれども、上醍醐と呼ばれる山の上に、いくつかのお堂があります。
その山に登る入口に、だれでも自由に使える杖が置いてありました。
その杖に、文字が書いてあります。
「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」
険しい山を、「六根清浄」とつぶやきながら、わが身のわが心の穢れを落としていくわけ。
杖をついて、息を切らせながら、ロッコンショージョーと言いながら歩いた覚えがあります。
それが、だんだん疲れてくると、ロッコンショージョーが、「ヨッコラショ」とか「ドッコイショ」になってくる、、、らしい。
まあ、みなさんも口ずさんでみてください。
この六根は、ボクたちが現実世界と接する器官で、般若心経にもある「眼・耳・鼻・舌・身・意」。
余計な迷いをしないように、この六根を浄化しましょうってことらしい。
だから、どっこいしょやよっこらしょは、恥ずかしがることなく、つぶやくたびに六根が浄化されているんだって思えばいいのです。
さて、今日も新しい一日。
どっこいしょ、と腰を上げて活動開始です。
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