gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

神は私たちの上にいます

2024-05-13 17:32:28 | 日記
神は私たちの上にいます

私たちを必要としている安心感と愛は、常に天の父の存在の中にあります。

‭イザヤ書 31:1-5 新共同訳‬ [1] 災いだ、助けを求めてエジプトに下り 馬を支えとする者は。 彼らは戦車の数が多く 騎兵の数がおびただしいことを頼りとし イスラエルの聖なる方を仰がず 主を尋ね求めようとしない。 [2] しかし、主は知恵に富む方。 災いをもたらし 御言葉を無に帰されることはない。 立って、災いをもたらす者の家 悪を行う者に味方する者を攻められる。 [3] エジプト人は人であって、神ではない。 その馬は肉なるものにすぎず、霊ではない。 主が御手を伸ばされると 助けを与える者はつまずき 助けを受けている者は倒れ、皆共に滅びる。 [4] まことに、主はわたしにこう言われた。 獅子や若獅子が獲物を捕らえて、うなるとき 多くの羊飼いがそれに対して 呼び集められても 獅子はその声を恐れず 喚声にたじろぐことはない。 万軍の主は、そのように シオンの山とその丘の上に降って戦われる。 [5] 翼を広げた鳥のように 万軍の主はエルサレムの上にあって守られる。 これを守り、助け、かばって救われる。

‭マタイによる福音書 23:37 新共同訳‬ [37] 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。

親が子供を危険から守るのを見たときのことを思い出せますか。その激しくも優しい強さは、見ていて驚嘆させられます。用心深いお母さんとお父さんがすぐに子供を守り、慰めるのと同じように、私たちの父もすぐに人々を守り、世話をします。聖書全体を通して、神の子供たちへの愛が、巣の上で舞い上がる鳥や子供を慰める母親に例えられている例がいくつもあります。
今日の聖句もその一つです。神は預言者イザヤを通して、イスラエルの民が主以外の国や支配者に保護を求めたことを後悔する時が来ることを語っています。しかし、彼らの誤った信頼にもかかわらず、神はイスラエルの敵を打ち負かし、エルサレムの上空に舞い、エルサレムを破壊から守り、救うと約束しています。数世紀後、イエスは「めんどりが翼の下にひなを集めるように」(マタイ 23:37)エルサレムの民を集めたいという同様の願いを表明しました。
神はイスラエルを取り囲む敵に怯むことはなく、今日私たちを脅かす勢力、人々、問題にも決して脅かされることはありません。私たちは、危険の時に神が私たちの近くにいることを確信できます。神の強くて優しい愛のゆえに、私たちは何も恐れることはありません。

神を待つ

2024-05-13 07:01:02 | 日記
神を待つ

「しかし主を待ち望む者は新たな力を得る。鷲のように翼を広げて上る。走っても疲れず、歩いても弱らない。」(イザヤ書 40:31)

神を待っているような気持ちになったことはありませんか? 何かを与えてくださるよう神にお願いしたり、人生で何かを明らかにしていただくよう神にお願いしたことがあるかもしれません。
待つことは難しいかもしれません。時には、神が私たちの心の願いを忘れてしまったように感じてしまうこともあります。しかし、そのような時こそ、神が私たちのために、私たちが想像できるよりもはるかに大きな計画を持っておられることを思い出すことが大切です。
神は私たち一人一人を、特定の目的を念頭に置いて創造されました。神の計画は私たちにとって必ずしも理解できるものではないかもしれませんが、神の意志にかなう完璧なものです。マタイ6章33節には、「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」とあります。
神を待っていると感じるとき、考慮すべきことがいくつかあります。まず、準備ができているかどうか自問してみましょう。神に何かを与えてくださるようお願いしたなら、それを受け取る準備ができていることが重要です。たとえば、配偶者を与えてくださるよう神にお願いしたなら、キリストを中心とした献身的な関係を築く準備ができているかどうか自問してみましょう。
主を待つときに考慮すべきもう一つのことは、主のタイミングです。今何かが欲しいと思っても、それが神の計画にとって最善ではないかもしれません。主に何かを求めるとき、主の答えは「待ってください」である場合もあります。
最後に、主に何かをお願いするときは、自分の動機を分析することが重要です。利己心や個人的な利益のためにお願いしているのであれば、お願いしたものが与えられる可能性は低いでしょう。しかし、私たちの願いが神の計画と一致しているなら、それを受け取ることができます。ヨハネ15:7には、「あなたがたがわたしにつながっており、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも望むことを願いなさい。そうすれば、かなえられます」とあります。
次に神を待っているように感じたときは、これらのことを思い出すようにお勧めします。落胆したら、祈りの中でこのことを神に捧げてください。神があなたのために立てた計画を疑わないでください。あなたの人生に対する神の目的は、唯一無二で特別なものだからです。

あなたの物語には力がある

2024-05-13 05:46:17 | 日記
あなたの物語には力がある

マーク・ヘザーの両親は彼が子供の頃に離婚し、彼はアルコール依存症の母親に育てられ、母親に殴られました。彼が14歳のとき、彼は母親に立ち向かい、もう殴られるのは許さないと言いました。翌日、母親は自殺しました。その瞬間から、彼は保護施設に預けられ、彼の言葉を借りれば「本当にかなりおかしくなった」のです。警察とトラブルを起こし、麻薬に手を出し、ますます自滅的な生活に陥っていきました。
マーク(現在30代)はガールフレンドに[HTB](https://www.htb.org/)の[アルファ](https://www.alpha.org/)に招待されました。週末の外出中に、彼は神との強力な出会いを経験しました。彼はこう言いました。「私のグループリーダーのトビーが私のために、聖霊が来るように祈ってくれました。そして、それが起こっているのがわかりました。」
その経験で、私は抑えきれないほど泣いてしまいました。「私は道の向こうにあるパブに走って行き、ビールを掴み、戻って、見つけられる限り最も暗い外の隅に座りました。静かに座っていると、完全な安らぎが私を包みました。私は完全な愛を感じました。家族の一員であると感じました。それは、それまで知る由もなかったことです。「泣きながら、もう一つのしるしを求めて祈りました。トビーにドアから出てくるように頼みました。私が頼むと、トビーはまさにそのドアから私を探しに歩いてきました。「神は実在し、私を無条件に愛し、優しいのです。聖霊が私を救ってくれました。
聖霊が私を救ってくれました。
[アルファ](https://www.alpha.org/)ウィークエンドが彼を見つけるのを助けてくれました。彼は私がどこにいるか知っていたので、私が正しい場所に着くと、彼は待っていました。」マークの個人的な物語は、多くの人々の人生に大きな影響を与えました。あなたの物語はマークほど劇的ではないかもしれませんが、*すべての人*に物語があります。あなたがクリスチャンとして育てられたか、クリスチャンになって数時間しか経っていないかに関係なく、あなたの物語には力があります。

‭箴言 12:8-17 新共同訳‬ [8] 人は見識のゆえに賞賛される。 心がいじけている者は侮られる。 [9] 軽蔑されていても僕を持っている方が 尊敬されていてパンを欠くよりよい。 [10] 神に従う人は家畜の求めるものすら知っている。 神に逆らう者は同情すら残酷だ。 [11] 自分の土地を耕す人はパンに飽き足りる。 意志の弱い者は空を追う。 [12] 神に逆らう貪欲は、悪人らを捕える網となる。 神に従う人の根は実りを与える。 [13] 悪人は唇の罪の罠にかかる。 神に従う人は苦難から逃れ出る。 [14] 口の言葉が結ぶ実によって 人は良いものに飽き足りる。 人は手の働きに応じて報いられる。 [15] 無知な者は自分の道を正しいと見なす。 知恵ある人は勧めに聞き従う。 [16] 無知な者は怒ってたちまち知れ渡る。 思慮深い人は、軽蔑されても隠している。 [17] 忠実に発言する人は正しいことを述べ うそをつく証人は裏切る。

あなたのストーリーを忠実に伝える

今日の箴言は、動物の世話(10節)から侮辱をすぐに怒らずに無視することまで、さまざまな主題を扱っています。「愚か者は短気で、すぐに爆発する。賢い者は黙って侮辱を無視する」(16節、MSG)。
今日のテーマに特に関係する格言が一つあります。「真実の証人は正直に証言する」(17節a)。これはもちろん、法廷の証人に関する意味合いがあります。しかし、私たち全員がイエスについて証言できる立場にあるという意味で、私たち全員が証人なのです。
友人たちと夜遊びに出かけるときでも、教会やその他の場所で大勢の人の前で話すときでも、人が自分の話を正直に、正直に、そして傷つきやすい心で語ることには、非常に力強いものがあります。
主よ、私の物語を心から正直に、誠実に語れるよう助けてください。

‭ヨハネによる福音書 9:1-34 新共同訳‬ [1] さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。 [2] 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」 [3] イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。 [4] わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。 [5] わたしは、世にいる間、世の光である。」 [6] こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。 [7] そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。 [8] 近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。 [9] 「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。 [10] そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、 [11] 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」 [12] 人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。 [13] 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。 [14] イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。 [15] そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」 [16] ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。 [17] そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。 [18] それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、 [19] 尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」 [20] 両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。 [21] しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」 [22] 両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。 [23] 両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。 [24] さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」 [25] 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」 [26] すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」 [27] 彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」 [28] そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。 [29] 我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」 [30] 彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。 [31] 神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。 [32] 生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。 [33] あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」 [34] 彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。

ストーリーを粘り強く伝える

今日の聖句にある、生まれつき目の見えない男の話が大好きです。まず、イエスは罪と苦しみの自動的な関係を明確に否定しています(1-3節)。パリサイ人は、その男が「生まれつき罪に染まっていた」ために目が見えなかったのだと考えました(34節)。
イエスの弟子たちでさえ、あらゆる文化で問われる質問をしました。「なぜ人は障害を持って生まれるのか。誰のせいなのか。本人か、それとも両親か。」(2節)。イエスは弟子たちが間違った質問をしていると言います。イエスはこう答えます。「本人も両親も罪を犯したのではない。神の御業が彼の人生に現れるために、このようなことが起きたのだ。」(3節)。
イエスは言葉と触れ合いによってこの男を癒します。イエスは深い愛と敬意をもって彼に触れます。この奇跡は大きな感動を引き起こします。盲人を知っている人たちは、この件について話し合い始めます。
治癒の奇跡をうまく説明しようとすることはいつでも可能であることが分かります。盲人の目が開かれたとき、「近所の人たちや、以前彼が物乞いをしているのを見た人たちは、『これは座って物乞いをしていた人ではないか』と尋ねました。ある人たちはそうだと主張しましたが、他の人たちは、『いや、似ているだけだ』と言いました」(8-9節)。
宗教上の些細なことにとらわれて、全体の要点を見失うことの危険性が分かります。その人が癒しの証しをしたとき、ある人たちはこう答えました。「この人は神から来た人ではありません。安息日を守っていないからです」(16節)。
この男はただ自分の話を何度も繰り返します。彼は彼らの複雑な質問すべてに答えられるわけではありません。しかし、答えが分からない質問をされたとき、彼はできる限りの答えをします。彼はただ「分かりません」と言うだけです(12節)。
私が最も気に入っているのは、彼らの懐疑心と皮肉な質問についにイエスが苛立ったときの答えです。イエスは、彼らの質問の答えをすべて知っているわけではないと告げます。「しかし、一つだけ知っています。私は以前は目が見えなかったのに、今は見えるということです」(25節、AMP)。
イエスの目が開かれると同時に、心と思いも開かれました。イエスはまず「イエスと呼ばれた人」(11節)を知りました。次にイエスを「預言者」(17節)、「神から来た」(33節)と見ました。最後にイエスが「人の子」であると信じ、イエスを礼拝しました(38節)。
これが証言の力です。これは、反論に対処するほとんど反論不可能な方法です。「私は以前はこうでした…そして今はこうです…これがイエス様が私の人生にもたらした変化です。」
自分の物語を語ることは、新約聖書の時代と同じように、現代世界でも信仰を伝える鍵の一つです。
主よ、「私は盲目でしたが、今は見えます」(25節)と言う人々の物語の力に感謝します。あなたと出会い、目が開かれ、癒されたことを証言できる人がもっと多くなりますように。

ルツ記

1:1-2:23

謙虚に自分のストーリーを語る

本当の愛は、多くの場合、困難で、不便で、犠牲を伴います。しかし、本当の幸福は、自分にいくらかの犠牲を払って他人を思いやる人にのみもたらされます。
ルツ記は、辺鄙な村に住む2人の未亡人と農夫の物語です。それは、その前の士師記とは素晴らしい対照をなしています。2つの書の文脈は同じですが(ルツ記は「士師が統治していた時代」に設定されている、1:1)、2つの書の内容は非常に異なります。
士師記は「各人が自分の思うままに行動した」(士師記 21:25)ため、悪と混乱の連続を物語っていますが、ルツ記は忠誠心、誠実さ、優しさを描いた美しい物語で、この争いの時代に起こったことでさらに印象的です。さらに、士師記がこの時期のイスラエル国家の全体像を描いているのに対し、ルツ記は特定の家族に焦点を当てています。
これは、宇宙と歴史の神が、あなたの人生のあらゆる些細なことの神でもあることを私たちに思い出させてくれます。神は全能で力強いだけでなく、あなたに深く関心を寄せるあなたの父でもあります。あなたの人生とあらゆる些細なことは神にとって重要です。あなたの命は大切なのです。
ルツ記は、私たちの人生の小さな出来事における神の配慮、備え、そして誠実さを思い出させてくれます。
ルツのナオミに対する愛も、同様に無私で献身的なものでした。ナオミは自分のことよりもルツのことを心配していました。ナオミはルツが家に帰ってきて再婚できる可能性が高くなることを望んでおり、ルツの幸せのためにルツを失うことも覚悟していました(ルツ記 1:8–13)。
彼女は再婚するつもりは全くありません。義母に対して並外れた忠誠心を示しています。彼女はこう言います。「私を無理やりあなたから離れさせないでください。家に帰らせないでください。あなたが行く所に私も行きます。あなたが住む所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたが死ぬ所に私も死に、そこに葬られます。ですから神よ、私を助けてください。死さえも私たちの間に割り込むことはできません!」(16-17節、MSG)。
ボアズもまた神を畏れる人でした。彼はルツの評判を聞いていました。彼女は忠実で誠実なだけでなく、非常に勤勉でした(2:7)。誰かが彼女について証言したに違いありません。ボアズは言います。「私はあなたのことをすべて聞いています。あなたのしゅうとめが夫の死後どのように接したか、またあなたが父母と生まれ故郷を離れ、全くの見知らぬ人々の中に住んで来たことなど、聞いています」(11節、MSG)。
さらに、ルツは明らかに神への信仰を証言していました。なぜなら、ボアズは彼女が「翼の下に保護を求めて来た神」に献身していることを知っていたからです(12節、MSG)。
するとボアズはルツに並外れた親切を示します。ルツは義母にこう言います。「今日私が一緒に働いた人の名はボアズです。…彼は生きている者にも死んだ者にも親切を示し続けました」(19-20節)。
主よ、忠誠心、親切心、誠実さの模範を示してくださり感謝します。私もそうなれるよう助けてください。私たちがコミュニティとして忠誠心、親切心、誠実さで知られる人々になれるよう助けてください。

ピッパはこう付け加えます
ルツ記 1:1–2:23
士師記の最後の章で人々がひどい振る舞いをした後、ルツの物語を読むと本当にほっとします。ここでは、誰もが正直で親切で信頼できる、穏やかで牧歌的な生活が展開されます。ナオミとルツの関係は、愛情と忠誠心が並外れたものであり、母と嫁の関係に非常に高い基準を設定しています。

では、このように祈りましょう…

2024-05-13 04:10:14 | 日記
‭マタイによる福音書 7:8 新共同訳‬ [8] だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。

では、このように祈りましょう…

祈りは、単に神との正直で継続的な会話です。

イエスは、神は私たちが何を必要としているかを知っていると語っています(マタイ6:8)が、それでも私たちが来て、心にあることを告げてほしいと思っています。神は私たちを気遣う良い父です(マタイ7:11)。神は私たちの状況に語りかけ、私たちの心を慰め、私たちの見方を形作りたいと願っています。

神は子供たちに良い贈り物を与えるのが大好きです。彼らが望み、切望し、求める贈り物です。しかし、時には私たちが望むものが実際には私たちにとって良いものではないことがあります。

マタイ7:8でイエスが「求めなさい。そうすれば与えられます」と言うとき、イエスは私たちが求めるものがすべて手に入ると言っているわけではありません。

神は、神の性格に反するものを私たちに与えることはできませんし、与えようともしません。神は良いものだけを与え、時には神からの「ノー」が私たちが本当に必要とする応答なのです。 しかし、神は私たちがすべての願いを神に捧げることを望んでおられ、神の意志に沿うものを求めるなら、神は私たちの願いを聞いてくださいます。(ヨハネ第一 5:14)

では、神の意志をどうやって見つけるのでしょうか?

私たちは神と時間を過ごします。

神を知れば知るほど、神の性格を理解するようになります。そして、神の性格を理解して初めて、神の意志に沿うものを求めるようになります。

マタイ7章にあるイエスの言葉は、私たちが神を求めるなら、神はご自身を与えてくださるという約束です。私たちが謙虚に神を求めるなら、神は私たちを見つけてくださいます。そして、私たちがありのままの姿で神のもとに来るなら、神は両手を広げて歓迎してくださいます。

私たちが神に近づくなら、神も近づいてくださいます。そして、神が近づくと、私たちの考え方を変え、心を新たにし、魂を回復させ、私たちの利益と神の栄光のための道へと導いてくださいます。

神様、どんな状況でもあなたのもとに行けること、そしてあなたが私の声を聞いて答えてくださることを、私は心から感謝しています。今日、私は私の疑問、懸念、そして将来の計画をあなたに伝えます。どうか、あなたの声に耳を傾け、あなたの導きを信頼できるよう助けてください。イエス様の御名によって、アーメン。

お互いを思いやる 

2024-05-13 01:16:34 | 日記
お互いを思いやる

神があなたの人生に導いてくださった人々をどのように助けたらよいか、神に示してもらいましょう。

‭ヨハネによる福音書 19:25-30 新共同訳‬ [25] イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。 [26] イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。 [27] それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。 [28] この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。 [29] そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。 [30] イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

‭マタイによる福音書 1:16 新共同訳‬ [16] ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。

‭ルカによる福音書 2:51 新共同訳‬ [51] それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。

‭ルカによる福音書 2:35 新共同訳‬ [35] ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」

‭使徒言行録 1:14 新共同訳‬ [14] 彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。

‭使徒言行録 2:1 新共同訳‬ [1] 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、

マタイのメシアの系譜で最後に名前が挙がる母親は「イエスを産んだマリア」です(マタイ1:16)。マリアは息子の宣教活動を見守り、イエスの言動すべてを大切にしていたに違いありません(ルカ2:51)。イエスが「父の務めを果たしておられる」と理解していたにもかかわらず(ルカ2:49 KJV)、マリアは母親としての誇りから心配や恐れまで、さまざまな感情を抱いたことでしょう。そして、イエスが十字架にかけられたとき、マリアはイエスが苦しむのを見て間違いなく苦しみましたが、イエスが愛情を込めてヨハネの世話に託すのも聞きました(ヨハネ19:26)。
彼女は長い間、自分の魂を貫く剣を予期していましたが(ルカ 2:35)、その認識によって痛みが軽減されることはありませんでした。しかし、彼女はそれを一人で耐えたわけではありません。イエスの受難の前後の数日間、彼女は他の信者たちに囲まれていました。イエスの昇天後、彼女は彼らとともに慰め主を待ちました(使徒行伝 1:14、使徒行伝 2:1)。そしておそらく何年もの間、ヨハネの家族の一員として、また成長しつつあったキリスト教共同体の一員として生活し、イエスが救うために来られた人々とともに礼拝し、祈り、奉仕しました。そして、その初期の教会の環境では、彼女も彼らから奉仕を受けたことでしょう。
困難に直面している友人や知人を知っていますか。彼らにキリストの愛をどのように示すことができますか。主があなたの人生に導いてくださった人々を気遣う方法を明らかにしてくださるよう主に祈ってください。