彼が望むのはあなただけ
サンディ・ミラー司教は著書「私が望むのはあなただけ」の中で、数年前にカリフォルニアで行われた会議に出席し、神の御霊が力強く働いているのを見たと記しています。会議が終わると、司教は海岸沿いを長い散歩に出かけました。司教はこう書いています。「私は歩きながら、これから起こることへの興奮と神の御霊の興奮にとりつかれました。私はこう言っていました。『主よ、あなたが望むことは何でも与えます…あなたが私にして欲しいことは何でもします』」。サンディは続けてこう言います。「正直に言って、主がこのように語られるのを3回ほどしか聞いたことがありませんが、これまで聞いた中で最もはっきりとした言葉は、「私が望むのはあなただけです」とおっしゃったことです…それは最も謙虚なことでした…主は好きなことを何でもできます。しかし、主が望むのはあなただけです。」
詩編 61:1-9 新共同訳
[1] 【指揮者によって。伴奏付き。ダビデの詩。】 [2] 神よ、わたしの叫びを聞き わたしの祈りに耳を傾けてください。 [3] 心が挫けるとき 地の果てからあなたを呼びます。 高くそびえる岩山の上に わたしを導いてください。 [4] あなたは常にわたしの避けどころ 敵に対する力強い塔となってくださいます。 [5] あなたの幕屋にわたしはとこしえに宿り あなたの翼を避けどころとして隠れます。〔セラ [6] 神よ、あなたは必ずわたしの誓願を聞き取り 御名を畏れる人に 継ぐべきものをお与えになります。 [7] 王の日々になお日々を加え その年月を代々に永らえさせてください。 [8] 王が神の前にあってとこしえの王座につき 慈しみとまことに守られますように。 [9] わたしは永遠にあなたの御名をほめ歌い 日ごとに満願の献げ物をささげます。
神に導かれる
人生で直面するあらゆる問題に圧倒されてしまうことがありますか? ダビデは「圧倒されて気を失いそうになりました」(2節、AMP)。
彼は指導者でした(「王」、6節)。他の人を導く人は、自分自身も神に導かれる必要があります。この祈りは私たち全員に当てはまります。彼は神に、自分の祈りを聞いて導いてくださるようにと叫びました(1-2節)。
何よりも、この祈りは保護を求める祈りです。逃げ隠れたい時があります。神は私たちに「すべてから逃れられる場所」(3節、MSG)を与えてくださいます。神は「安全な家」(4節、MSG)です。神は岩のような強さによる物理的な保護(2節)、私たちを包む腕による感情的な保護(4節)、そして「あなたの愛と誠実さ」による精神的な保護(7節)を与えてくださいます。
主よ、今日私をあなたの御前に導き、私が下すすべての決断、私が交わす会話、私が話す言葉において私を導いてください。
ヨハネによる福音書 8:31-59 新共同訳
[31] イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 [32] あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」 [33] すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」 [34] イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。 [35] 奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。 [36] だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。 [37] あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。 [38] わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」 [39] 彼らが答えて、「わたしたちの父はアブラハムです」と言うと、イエスは言われた。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。 [40] ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。 [41] あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。」そこで彼らが、「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」と言うと、 [42] イエスは言われた。「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。 [43] わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。 [44] あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。 [45] しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。 [46] あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。 [47] 神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」 [48] ユダヤ人たちが、「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と言い返すと、 [49] イエスはお答えになった。「わたしは悪霊に取りつかれてはいない。わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない。 [50] わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。 [51] はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」 [52] ユダヤ人たちは言った。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。 [53] わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。」 [54] イエスはお答えになった。「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。 [55] あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じくわたしも偽り者になる。しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。 [56] あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」 [57] ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、 [58] イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」 [59] すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。
イエスによって解放される
ネルソン・マンデラは、刑務所の看守が彼にこう言ったことを話しました。「私にはあなたを殺す力があることを知っていますか?」マンデラはこう答えました。「私には自由に死に向かう力があることを知らないのですか?」
あなたは本当に自由な人生を送りたいですか? イエスは偉大な解放者です。イエスが「あなたを解放するなら、あなたは本当に、そして疑いなく自由です」(36節、AMP)。
しかし、このイエスとは誰なのでしょうか? (12-59節)。実際、イエスはまさにその質問をされています。「あなたは、自分を何者だと思っているのですか?」(53節)。イエスの答えは、父との特別な関係を示しています。それは、「アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです!」という驚くべき主張で最高潮に達します。(58節) これは、神が燃える柴のところでモーセにご自身を現されたのとまったく同じ方法です。(出エジプト3:14) イエスは神だけが使える言葉を使っています。イエスに反対する者たちは、冒涜の罪で石を投げつけようと石を投げつけます(ヨハネ8:59)。
イエスと父との関係は特別なものでしたが、イエスを通してあなたも神を知ることができます。その関係はあなたの人生に自由をもたらします。しかし、この自由とは何を意味するのでしょうか。
イエスは、自分を知ることは真理を知ることであり、「真理はあなたたちを自由にする」(32節)と言っています。ユダヤ教では、真理は律法であり、律法を学び、それに従うことで人は自由になりました。イエスは、「わたしの教えを固く守るなら、あなたたちは本当にわたしの弟子である」(31節)と言っています。
キリスト教徒は、自らを「自由思想家」と呼ぶ人々と対照的に、心が狭いとか反知性的だと非難されることがあります。イエスは、実際にはその逆であると言っています。イエスに従うことは、知的自由と誠実さの道です。
真理は神によって明らかにされます。イエスは「真理」です(14:6)。イエスは神の究極の啓示です。真理を知ることは命題に同意することではなく、人を知ることです。イエスを知ることはあなたの心を広げ、洞察力を深め、理解の範囲を広げます。真理に生きることは、真理であるイエスとの愛の関係に生きることです。
これは、私たちがすべての答えを持っているという意味ではなく、私たちが真の思考の枠組みを持っているという意味です。科学の法則は、物理的な領域で自由に調査できる枠組みを提供します。神の啓示は、精神的な領域で知的に自由に調査できる枠組みを提供します。信仰は理解につながります。
イエスの言葉に対する答えは、「私たちはアブラハムの子孫であり、だれの奴隷にもなったことがありません。どうして私たちは解放されると言えるのですか」(8:33)でした。しかし、イエスはこう答えました。「よく聞きなさい。罪を犯す者はみな罪の奴隷です」(34節)。罪を犯すということは、私たちの衝動、依存症、権力と称賛への欲求の奴隷になること、他人が私たちについてどう思うかの奴隷になること、他人への恐れの奴隷になることです。イエス・キリストがいなければ、私たちは皆罪の奴隷です。しかし、「もし御子があなたを解放するなら、あなたは本当に、そして疑いなく自由です」(36節、AMP)。
1.恥からの解放
イエスはあなたを罪悪感と恥から解放します。イエスはあなたが赦され、罪悪感と恥が取り除かれるように死なれました。
2. 依存症からの解放
イエスはあなたを依存症から解放します。つまり「罪の奴隷」から解放します(34節)。十字架上で依存症の力は打ち砕かれました。
あなたはまだ時々罪に陥るかもしれませんが、イエスがあなたを解放すると、罪への依存症の力は打ち砕かれます。イエスのもとに来ると特定の依存症から完全に解放される人もいますが、他の人にとっては、それはより長いプロセスかもしれません。
3.恐怖からの解放
イエスはあなたを恐怖から解放します。イエスが来られたのは、「死の力を持つ者、すなわち悪魔を、その死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷状態にあった人々を解放するため」です(ヘブル人への手紙 2:14–15)。ここでイエスはこう言っています。「よく聞きなさい。わたしの言葉を守る者は、決して死を見ることはありません」(ヨハネによる福音書 8:51)。
イエスが自由にした人々にとって、死は終わりではありません。むしろ、それは天国への入り口です。イエスがあなたを死の恐怖から解放するとき、彼は他のすべての恐怖からもあなたを解放する可能性があります。
4. 神を知る自由
イエスは、あなたが神と自分の関係を持つように、あなたを自由にしてくださいます。イエスは、神に導かれる人の最高の例です。イエスは、自分自身について「私は神から聞いた」(40節)と言っています。しかし、イエスは続けて「神に属する者は、神の言うことを聞く」(47節)とも言っています。私たち全員が神から聞くことは可能です。
イエスは「わたしは神を知っている」(55節)と言われました。イエスはあなたが神を知ることができるようにしてくださいました。
5. 自分らしくいられる自由
イエスは、他の誰かの二流バージョンになろうとするのではなく、神が意図したとおりに本当の自分になれるようにあなたを自由にしてくれます。
6. 愛する自由
イエスはあなたを愛する自由を与えてくださいます(罪の自己中心性とは正反対です)。
神はあなたを知的、道徳的、感情的に自由にしてくださいます。これが真の自由です。「… 子があなたを自由にするなら、あなたは本当に自由になるでしょう」(36節)。
主よ、私の人生に自由をもたらしてくださりありがとうございます。私があなたを知り、あなたの声を聞くことができることを感謝します。
士師記
20:1-21:25
神に忠実でありなさい
士師記でイスラエルの歴史におけるこの混乱期の記述が終わると、著者はこう結論づけています。「そのころ、イスラエルには王がいなかった。人々は自分のしたいことを何でもしていた」(21:25、MSG)。神は彼らに、唯一の神への忠誠に基づく政治体制を与えました。しかし、その忠誠は長くは続かず、体制全体が崩壊し始めました。
サムエル記上を見るとわかるように、イスラエルに王がいるという規定は、完全に肯定的なものとはみなされていませんでした。しかし、それは、誰もが「やりたいことを何でも」やるというこの混沌とした状況よりは好ましいものでした(士師記 21:25、MSG)。
混乱の最中であっても、神の民が「神に尋ねた」(20:18)瞬間がありました。彼らは神に導かれることを願いました。神と常にコミュニケーションを取り、相談するという教訓は、旧約聖書全体に浸透しています。ここでイスラエルが間違いを犯したとすれば、それは彼らが戦いに行くべきかどうかを神に尋ねなかったことです。彼らは戦いをどのように戦うべきかだけを尋ねました。
また、たとえ神が計画の背後にいるとしても、ここで神の民が経験したように、大きな挫折を経験することもあるということも学びます。神は勝利を約束しましたが、途中で犠牲者が出ました。彼らが直面した物理的な戦いがそうであったなら、あなたが直面する霊的な戦いも間違いなくそうでしょう。挫折に驚かないでください。それは必ずしもあなたが神に導かれていないことを意味するわけではありません。士師記の教訓は、何が起こっても神に忠実であり続けることです。神が望んでいるのはあなただけです。
主よ、私があなたに常に忠実であり続けるよう助けてください。挫折に挫折することがありませんように。私の人生において常にあなたの意志を求められますように。
ピッパはこう付け加えます
詩篇 61:2
「わたしよりも高い岩に導いてください。」
困難な状況の真っ只中にいると感じるとき、わたしたちは自分よりも高い岩にたどり着く必要があります。神は、今日わたしたちが直面している複雑な状況に対するあなたの見方を変えることができます。そして、今日でさえ、神があなたに新たな啓示を与えてくれる状況があるかもしれません。