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神の武具 – 正義の胸当て

2024-05-23 05:37:10 | 日記
神の武具 – 正義の胸当て

「ですから、悪の日が来ても、しっかりと立ち向かうことができるように、また、すべてを成し遂げて、堅固に立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」(エペソ6:13)

パウロがエペソ人への手紙第6章で論じている神の武具の2番目の部分は、正義の胸当てです。
ローマ兵の鎧では、胸当てが体の最も重要な部分を保護する役割を果たしていました。胸当ての下には心臓、肺、その他の生命維持に必要な臓器があります。そのため、兵士が胸当てを着用していない場合、即死につながる攻撃を受ける危険性がありました。
では、なぜパウロはそれを正義の胸当てと呼ぶのでしょうか。正義で自分自身を守らなければ、敵からの攻撃にさらされ、罪に陥る可能性があります。
義人であるということは、神の戒めに従い、神にふさわしい生き方をすることを意味します。詩篇 106 章 3 節には、「正義を守り、常に正義を行う人は幸いだ」とあります。
残念なことに、私たちの罪深い性質は、正しい人生を送る妨げになることがよくあります。神の望みではなく、自分の望みに基づいて生きると決めると、自分自身や他人に害を及ぼす決断を下すことになります。ローマ人への手紙第8章6節には、「ですから、肉の思いがあなたを支配すると、死に至る。しかし、聖霊の思いがあなたを支配すると、いのちと平和に至る。」とあります。
どうすれば正義の胸当てを着けることができるでしょうか。まずは神の言葉を知ることから始めましょう。そうすれば、正しい人生を送る方法が分かります。試練や誘惑に遭っても、神の言葉に基づいて決断することができます。
さらに、祈りを通して、私たちは罪深い生活に抵抗し、神に従って正しいことを行えるように神に力を求めることができます。ヨハネの手紙一第3章22節には、「私たちが神に従い、神に喜ばれることを行うなら、私たちは求めるものは何でも神から与えられるのです」とあります。
クリスチャンとして、私たちは日々の生活の中で正義の胸当てを着けることができます。私たちが下す決断に気づくことで、それが神の言葉に基づいているかどうかを見極めることができます。さらに、私たちは神に、正義に生きる力を与えてくださるように祈ることができます。最終的に、これにより、敵からの攻撃に耐え、キリストに栄光を帰す生き方をすることができるようになります。

彼の名前には力がある

2024-05-23 05:26:29 | 日記
彼の名前には力がある

33 歳のバーバラ・クラップハムはロンドンに移住しました。彼女は教会を探すことにしました。ある日曜日の朝、彼女は [HTB](https://www.htb.org) に到着しました。ドアで人々を迎えていた若い女性が彼女に微笑みかけ、名前を尋ねました。その微笑みのおかげで、バーバラは翌週もここに来ました。次の日曜日に彼女が中に入ると、同じ人が「こんにちは、バーバラ」と言いました。ドアの人が彼女の名前を覚えていたので、彼女は毎週日曜日にここに来ることに決めました。
それは 1947 年のことでした。それ以来、バーバラは 100 歳の誕生日を祝って間もなく亡くなるまで、ほぼ毎週日曜日に教会に通っていました。彼女は [HTB](https://www.htb.org) の人生に大きな影響を与えました (長年教会の財政を管理するなど)。ドアの若い女性は、バーバラの *名前* を覚えていたことで自分がどれだけ変化をもたらしたか、わかっていたのだろうかと思います。
名前には大きな力があります。名前には意味があります。これは今日でも当てはまりますが、聖書に書かれているヘブライ文化ではさらに当てはまります。ヘブライの名前は単なるラベルではありません。*主の名前*は主が誰であるかを明らかにします。

‭詩編 68:2-7 新共同訳‬ [2] 神は立ち上がり、敵を散らされる。 神を憎む者は御前から逃げ去る。 [3] 煙は必ず吹き払われ、蝋は火の前に溶ける。 神に逆らう者は必ず御前に滅び去る。 [4] 神に従う人は誇らかに喜び祝い 御前に喜び祝って楽しむ。 [5] 神に向かって歌え、御名をほめ歌え。 雲を駆って進む方に道を備えよ。 その名を主と呼ぶ方の御前に喜び勇め。 [6] 神は聖なる宮にいます。 みなしごの父となり やもめの訴えを取り上げてくださる。 [7] 神は孤独な人に身を寄せる家を与え 捕われ人を導き出して清い所に住ませてくださる。 背く者は焼けつく地に住まねばならない。

主の名を讃えよ

ダビデはこう勧めています。「神に向かって歌い、その名を賛美し、雲に乗って来る方を称えよ。その名は主である」(4節)。
神はその名前を通してご自身を明らかにされます。モーセがエジプトの奴隷状態から民を解放するために来たとき、神はモーセにその名前(「私はある者」)を与えました(出エジプト記 3:14)。同様に、この詩篇では、この名前を持つ神が社会の疎外された人々に特別な関心を持っていることがわかります。
神は「孤児の父」であり、「未亡人の擁護者」です(詩篇 68:5)。「神は孤独な者を家族の中に入れてくださる」(6a節)。「神は家のない者のために家を用意してくださる」(6a節、MSG)。「神は歌いながら囚人を導き出してくださいます」(6b節)。
主の名を尊ぶ方法の一つは、未亡人や孤児、孤独な人、ホームレス、刑務所にいる人など、疎外された人々を愛し、奉仕することです。
主よ、私はあなたの聖なる御名を讃えます。私が社会の疎外された人々を愛し、彼らに仕える中で、あなたの御名が私の人生において尊ばれますように。

‭ヨハネによる福音書 16:5-33 新共同訳‬ [5] 今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。 [6] むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。 [7] しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。 [8] その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。 [9] 罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、 [10] 義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、 [11] また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。 [12] 言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。 [13] しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。 [14] その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。 [15] 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」 [16] 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」 [17] そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」 [18] また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」 [19] イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。 [20] はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。 [21] 女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。 [22] ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。 [23] その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。 [24] 今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」 [25] 「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。 [26] その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。 [27] 父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。 [28] わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」 [29] 弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。 [30] あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」 [31] イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。 [32] だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。 [33] これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

‭ヨハネによる福音書 17:1-5 新共同訳‬ [1] イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。 [2] あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。 [3] 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。 [4] わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。 [5] 父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。

イエスの名による力

イエスの名にどれほどの力があるかご存じですか。イエスは弟子たちのもとを去る時、彼らにこう言われます。「まことに、あなたたちに言います。あなたたちがわたしの名によって求めるものは何でも、父は与えて下さるでしょう。あなたたちは今まで、わたしの名によって何も求めたことはありません。求めなさい。そうすれば与えられ、あなたたちの喜びは満たされます。…その日には、あなたたちはわたしの名によって求めるでしょう。」(16:23b–26a)
私たちが神に祈るとき、私たちは自分の名前ではなく、イエスの名前で求めます。私たち自身には、何も求める権利はありません。しかし、イエスは十字架と復活を通して、私たちが彼の名前で神に近づくことを可能にしてくださいました。
イエスの名において祈ることは、あなた自身をイエスに合わせることです。そうすることで、あなたの祈りはあなたの人生に対する神の望みと調和し、神の意志が成されるように祈ることができます。これは自分一人ではできません。聖霊が必要です。
イエスは弟子たちに、自分が去ることは彼らにとって有利だと言います。なぜなら、「わたしが去らなければ、助言者[「友」、MSG]はあなたたちのところに来ないだろう。しかし、わたしが行けば、わたしは彼をあなたたちのところに遣わすだろう」(7節) からです。イエスは一度に一つの場所にしかいられませんでした。今、イエスは御霊によって、私たちがどこへ行っても、いつでも私たちの友、助け手としてあなたや私とともにいることができます。
聖霊は、罪について世を説得します(それは、人々がイエスを信じていないからです、9節)。そして、「彼は私たちをすべての真理に導いてくださいます」(13a節)。私たちが道を外れたり間違った方向に行くたびに、聖霊は私たちを罪に定めます。私たちは自分のしていることが正しくないことを霊の中で感じます。
聖霊は私たちを決して非難しません(ローマ 8:1)。聖霊は私たちに悔い改めを促し、正しい方向に進むよう促します。聖霊は、私たちがイエスにもっと似た者となれるよう、導き、支え、強めてくださいます。
イエスはあなたをあらゆる真理に導いてくださいます。真理は真理の御霊によって明らかにされます(ヨハネ 16:13a)。とりわけ、イエスはあなたについての真理を明らかにしてくださいます。真理はあなたを自由にします。
イエスはあなたに3つのことを約束しています。
1. 喜び – 悲しみと悲嘆の真っ只中
「よく聞きなさい。あなたたちは泣き悲しむが、世は喜ぶ。あなたたちは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」(20節)。正義が勝利する。悪が最後の口を開くことはない。イエスが死からよみがえったとき、弟子たちの喜びは悲しみを完全に覆い隠すほどだった。まるで赤ちゃんを産んだ母親が出産の苦しみを忘れたかのようだった(21~22節)。
2. 愛 – 憎しみの真っ只中
あなたは愛されています。たとえ「世があなたたちを憎んでいる」(15:18)ときでも、イエスはあなたに「あなたたちがわたしを愛し、わたしが神のもとから来たと信じたので、父ご自身があなたたちを愛しておられる」(16:27)とおっしゃいます。真理の御霊はあなたたちに対する父の完全な愛を明らかにします。
3. 平安 – 苦難の真っ只中
イエスは、あなたに問題のない人生を約束したことはありません。実際、イエスは、あなたがこの世で「苦難と試練と悩みと挫折」を経験するだろうと言っています(33節、AMP)。しかし、イエスは「世に打ち勝った(私はあなたに害を与える力を世から奪い、あなたのためにそれを征服した)」ので、「これらの試練の真っ只中にある完全な平安と自信」を約束しています(33節、AMP)。
聖霊から受ける最も重要な賜物は、神との関係です。この祈りの中で、イエスはこれを「永遠の命」の真の心と定義として強調しています。「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです」(17:3)。
この永遠の命についての驚くべき描写は、神の名が栄光を受けるようにというイエスの祈りで囲まれています。イエスが地上にいた間になされたことすべて、そしてイエスを通しての父なる神との私たちの関係は、すべて究極的には神の名が栄光を受けるためのものなのです。
主よ、イエスの御名によって祈ることができるというこの大きな特権に、感謝してもしきれません。今日はあなたの御名によって祈ります。

1サミュエル

17:38-18:30

主の名による保護

ダビデは、最高の防御はサウルの武具ではなく、主の御名であることに気づきました(17:45)。
最初、ダビデはサウルの鎧を着てゴリアテと対決しようとしました。しかし、彼は気づきました。「私はこれを着て戦うことはできない。慣れていないからだ。」(39節)そこで彼は鎧を脱ぎました。彼は自分自身でいることを決意したのです。これは人生の教訓です。他人の鎧を着ても意味がありません。私たちがまるで他の誰かであるかのように自分を表現しようとすると、いつも不自然で不自然に見えます。
本物であることには大きな力があります。オスカー・ワイルドは「自分らしくいなさい。他の人はもう取られている!」と言いました。自分らしくいるとき、あなたは最も効果的に行動できます。シエナの聖カタリナは「神があなたに望んでいる人になりなさい。そうすれば、あなたは世界を燃え上がらせるでしょう」と言いました。
ダビデは神の名とその正しさを気にかけていました(45節)。彼はゴリアテに言いました。「あなたは剣と槍と投げ槍で私に向かってくるが、私は万軍の主の名によってあなたに立ち向かう」(45節)。彼は人間の努力の限界を理解していました(47節)。彼は自分の神を信頼していました。神の名だけで、どんなに強い者でも地面に打ち倒すことができるのです(46節)。彼は、大きな反対に直面しても主の名を信頼する覚悟ができていました。
あなたは大きな反対に直面するかもしれません。あなたが生きている世界は、非常に強力で圧倒的に思えるかもしれません。それに比べてあなたは弱く、哀れに感じるかもしれません。しかし、神の名において出かけましょう。自分の限界を認識しながらも、神がその名を立証してくださることを信じてください。主がダビデと共におられたので、彼はすべてのことに成功しました(18:5,12,14)。
ダビデの成功はサウルの怒りと嫉妬を引き起こしました(8-9節)。ジョイス・マイヤーは次のように指摘しています。「神はいつも、私たちの角を滑らかにしてくれるサンドペーパーのような人を私たちのそばに置いてくれます。昇進する前に、このような試練が行われます。リーダーになりたいなら、まず理想的ではない状況で奉仕し、賢明に行動することを学ばなければなりません。こうすることで、私たちは神に大いに用いられる準備ができます。」
神はダビデにさらなる成功を与えました。興味深いことに、神の名に対する彼の配慮のおかげで、ダビデの「名はよく知られるようになりました」(30節)。しかし、それが彼の目的や意図、あるいは彼の人生の焦点では​​ありませんでした。
主よ、この国の教会が再びイエスの名を崇拝する人々で満たされますように。私たちのすべての行いが、私たちの社会で再びイエスの名が高められ、尊ばれることに焦点を当てたものとなりますように。

ピッパはこう付け加えます
サムエル記上 18:1 を見ると、ダビデとヨナタンの素晴らしい友情がわかります。そこには、彼らが「心において一つになった」と書かれています。彼らは本当のソウルメイトでした。深い友情には、とても満足感があります。困難なときにそばにいてくれる愛する友人のサポートがあると、とても気分が変わります。そして、楽しいときには一緒に笑ってくれます。

友情は永遠に続くものです。天国では、時間の制限はなく、ダビデが戦わなければならなかった嫉妬もありません。

慰めの源

2024-05-23 04:22:24 | 日記
‭コリントの信徒への手紙二 1:3-4 新共同訳‬ [3] わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。 [4] 神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。

慰めの源

痛みに襲われたとき、慰めを求めるのは自然なことです。誰もが、怪我や病気、失恋の苦しみができるだけ早く消え去ることを望んでいます。

熱いストーブに触れたら、火傷を治すために氷をつかむかもしれません。暴風雨に遭ったら、すぐに避難所を探すかもし​​れません。愛する人を失ったら、悲しみから気をそらすためにできることは何でもするかもしれません。

また、食べ物、買い物、仕事、麻薬、アルコール、テクノロジー、娯楽などを、苦しみを和らげるために精神を麻痺させるものとして求めることもできます。

しかし、真に慰めを与えてくれるのは、ただひとりの神だけです。

「私たちの主イエス・キリストの父なる神にすべての賛美を。神は慈悲深い父であり、すべての慰めの源です。神は、私たちがすべての苦難の中で慰めてくださるので、私たちは他の人を慰めることができます。彼らが苦しんでいるとき、私たちは神が私たちに与えてくださったのと同じ慰めを彼らに与えることができるのです。」 コリント人への第二の手紙 1:3-4 NLT

パウロとテモテが「慰め」という言葉を使うとき、彼らは慰め、慰め、励まし、助け、力づけ、教え、元気づける神について述べています。それがパウロとテモテにとっての神であり、今もそうなのです。

どんなに状況が悪くても、神は他の誰にもできない方法であなたを慰めることができます。あなたは神に頼ることができます。

そして神の霊が神の民の中にあるので、神の民は他の人々を慰めることもできます。神は彼らの中で、そして彼らを通して働き、現在または将来のどんな痛みを超えた希望を与えてくださいます。

あなたは肉体的、精神的、または感情的に苦しんでいますか? 気遣ってくれる神がいます。助けたいと願う人々がいます。ですから、すべての慰めの源に向かって叫びましょう。あなたはあなたの痛みを神に委ねることができます。

神様、あなたは私の慰め主です。あなたは私に慈悲を与え、あなたとのつながりを取り戻してくださいます。どうか、私が他の人々の慰め主になれるよう助けてください。あなたが私にしてくださったように、慈悲を与える力を私にも与えてください。イエス様の御名により、アーメン。