草原の四季

椎名夕声の短歌ブログ

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万葉集は源平合戦の先駆け

2017-04-01 16:22:04 | 和歌・短歌

武門の名門でありながら傍流という家に育った家持(やかもち)青年が、高級官僚である橘諸兄(もろえ)に才を認められ、万葉集の原形を編さん。
ところが、諸兄は失脚し、その子奈良麻呂が天皇に謀反を企て敗北すると、その影響で40歳で家持は左遷。また、家持の親友も投獄された。(獄中で死亡したと推定される。)
奈良麻呂の実質的な敵は藤原仲麻呂だったが、5年後には仲麻呂も失脚し、その2年後に反乱を起こし敗死。

現在万葉集として伝わっているものは、家持左遷のわずか半年後、失意の真っ只中に完成している。その後27年間家持が生きていたことははっきりしているが、歌を一切残しておらず、官職を全うした以外何をしていたのか謎となっている。

藤原仲麻呂が、謀反を鎮圧し実権を握った直後に作った歌が、万葉集巻第20に掲載されている。

いざ子ども狂わざなせそ天地の固めし国ぞ大和島根は(藤原仲麻呂)

要約すると、お前たち、謀反をするなよ。天地の神が固めた国なのだぞ、ヤマトの国は。ところが、おごり高ぶった挙げ句に失脚し、上記のように反乱を起こし敗死するのは、他ならぬ仲麻呂自身なのだ。この歌を家持が万葉集に掲載したのは、おごれる者は久しからず、今に見ていろという気持ちだっただろうか?
まさに、源平合戦の世界が、それより昔にもあったのだ。

万葉集には「おもちち」という語句が出てくる。「母父」のことだ。朝鮮半島の言葉に「おむに」というのがあり、母を意味しているが、中国大陸との共通点を感じさせる。また、「父母」ではなく、母が先になっているのは、昔の農耕においては母を中心としていた影響と想像される。

なぜ万葉集が編さんされたかについては、壮絶な権力闘争により天皇となった者が、自らの正当性この場合は皇統の正統性を国民にアピールし、ひいては天皇の神格性をもアピールするためだったと言われている。奈良盆地を中心とした意識からは、辺境の地と見ていた関東地方における、あけすけな性愛の歌も、天皇の支配がとてつもなく広い範囲にまで及んでいることを、国民全体に印象付ける狙いがあったようだ。

というような、いささか興醒めな動機により編さんされた万葉集だが、結果として驚くべき豊かな歌集となり1200年以上後の現在まで色あせていない。

僕が初めて万葉集を読んだのは18歳のときで、斉藤茂吉の影響だったが、当時も今もいちばん好きな歌は、

茜差す紫野行き標野(しめの)行き、野守(ぬもり)は見ずや君が袖振る

そして、家持の次の歌も、切なる祈りの歌として追加しなければならない。

新しき年の初めの初春の今日降る雪のいや重(し)け吉事(よごと)

切なる祈りの歌ではあるが、状況の説明がないと、そこまでは読み解けない。
作者は、あくまでも作品として作っているのだから、必ずしも読み解かれることを期待してはいない。

新年の先頭切って水仙の蕾と花が路地をいろどる(椎名夕声)(これが初出)

昔も今も、短歌は呪術的側面を持っている。


(後日記)
権力闘争の原因として、当時の権力者が唐への武力援助を行ったことが指摘されている。
闘争の結果、唐への武力援助は中止され、唐の勢力拡大が止み、日本が唐に滅ぼされずに済んだという指摘である。
歴史は難しい。

(さらに後日記)
万葉集の成立の経緯は、複雑な面があるそうだ。
家持は死後、同族のからんだ事件に連座して名誉を奪われ、家財没収の憂き目に会うが、そのときに作歌ノートも没収され朝廷の所有に帰した。これが万葉集として、世に伝わることとなったのである。
と、あるところに書いてあった。
また、大伴の同族の多くが上記橘奈良麻呂の変に連座したなかで、家持が難を逃れたのは、大伴氏の主流からその当時は外れていたためらしい。

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