「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

「島崎城跡発掘調査報告書Ⅱ」一の曲輪の調査について

2021-07-28 11:26:25 | 発掘調査

昭和62年(1987)に発行されました「島崎城跡発掘調査報告書Ⅱ」の内容を抜萃して紹介します。

一曲輪の調査

 第一次調査で,御札神社境内の一曲輪(本丸)には,住居および屋形とみられる建築遺構の一部が検出され、瓦器・陶磁器等の遺物が多量出土した。また遺構面からは焼土混入層やカー ボンが多く含まれていることから,これらの遺構性格を明らかにするため、第3次調査では、 第1次トレンチの延長(南北方向)と,比較的木立が少ない西側へ90度折れ曲がる形で,新たなトレンチを設定し、発掘作業を実施した。

 図3が第3次調査区の平面図で,第1次トレ ンチの延長が1区と2区の南北方向のトレンチ で、3区・4区・5区・6区が東西方向に設定 したトレンチである。

 この調査区全域は、御札神社境内の神域で、現状は戦後まもなく植林した杉と檜の山林である。調査は、鬱蒼と茂る藪の刈り払いと植林されている木立の枝払い,枯木の除去及び長年 放置されつづけている伐採材の搬出から着手した。排土作業は,埋没土が厚さ50cmに及ぶため, 旧城郭遺構面に達するまで三回の作業を行った。 すなわち浮き上がっている遺物の確認,下層にカーボン包含層があるので,注意を注ぐ必要があり、上・中・下と三段階の層位ごとに遺物出土状況を測量記録して,発掘を行った。平均的な層位序を模式図にすると図4のようになる。では図3および写真を参照されながら,第3次調査で判明した事項をまとめてみると次のように整理できる。

 火災にあった遺跡第3次調査トレンチ内は、第Ⅲ層目である褐色土および鈍褐色土層に影しいカーボンおよび炭化木材が混入し、部分的に はびっしりと炭化木材片が下部を中心に混入し ている。ことに凹状にへこんだ部分および柱穴 (ピット)上部ではカーボンおよび炭化木材破 片が数センチに及び,どうみても大火災にあっ た跡と認められた。焼土もII層下部および遺構 面に張りついており,存城遺構の最後において火災跡処理を行い,最終期(城郭としての最後 の改築)の工事を施したと考えられる。

 この火災は、落域にともなうものか、いつの時点のものかは,昭和63・64年次の調査成果をみないと結論めいたことはいえない。しかしカー ボン包含土層から出土する遺物は6世紀末に比定される陶磁器が出土する。志戸呂の天目茶碗及び瀬戸美濃の皿,常滑の大甕等がこれである。

図4 土層序模式図

Ⅰ 表土(腐蝕土) 暗褐色土3/3(厚さ10~20cm)

Ⅱ 褐色土3/4(厚さ15~30cm)

Ⅲ 褐色4/6 (厚さ10~20cm)∔ カーボン/ 鏡褐色土5/4+カーボン+

Ⅳ(遺薄面にぶい褐色5/4)

 

 建築遺構 中世の建築は,一般に礎石を使用しない掘立柱の建物である。石材がない関東では、掘立柱建築が最も顕著で、掘立柱に加わる

 屋根・床・壁等の重量,風雨等による転倒を防ぐため、柱の下(基礎)に「根絡み」とか「柱留め」といって,垂直の柱の根部分に横材をクロスさせたり,弱い方向のみに横材を打ちつけた。また堀之内大台域では,柱穴の底に砂岩を据えたり,粘土敷にしたりして補強したあとがみつかっている。従って掘立柱建築の外周の柱穴(ピット)や主要な柱穴は,根絡みをつける関係から大きな穴を掘る必要があった。図3P 34のように柱材が中心に根絡み用の穴,その外側に掘り方穴と三つの穴がダブルのは、その典型であるといえる。

 第3次調査区で,建築遺構が最も顕著に検出できたのは、5区と6区のピット群である。6区に検出されたP33・P320P31・P30は南北カーボン,焼土の中から出土する完型カワラケ群方向線上にあり,これと並行してSK9-P24 -P22がある。SK9は土壌として利用する以前にピットであったものだろう。なおこの南北 方向に対し, P34-P31-P27, P30-P23, P21-P20-P19などが東西方向に結ばれる。

 きれいに結ばれる建築プランの検出はできなかった。しかし5区・6区には東西棟もしくは南北棟とする建築が存在したことはほぼあきらかになった,といえよう。なお,真々の柱間はP31 -P32, P30-P24, P32-SK9にみられるように6尺5寸間が基本であったようだ。 池もしくは溝状遺構今次調査で,多量の炭化物を含む焼土,カーボン粒子層が混入されている池もしくは講(SD)とみられる掘り込みが,1区・2区・3区・4区・5区に認められた。深さは遺構面より30cmから60cmを測り、幅は区々で1m~3mである。SD遺構は大きく1区および2区の構状と,3区西側から5区の 東側にかけての池もしくは溝状遺構に別けられ るようだ。

 これらの振り込みを平面的にみると、庭園にともなう池とそれにともなう遣水のようにも見える。城郭の発掘では、多くの毒が検出される

 例が非常に多いが、今次で検出した毒のように曲がったり,幅が振幅する例は少ない。これらSD, SK遺構埋没土は前述したように,火災にともなうカーボンを含む土層で,明らかに、火災後にその処理のため埋め戻したとみられる。 またSD4の中に掘り込まれている2つの方形の土壌(SK1・SK2)中には大甕(常滑)が投棄されており、中央部SK4には、ススが付着する多量の完形カワラケが出土している。あきらかに火災の直後にこれらの遺構が埋め戻されたことを示している。

 つぎに各つながりをみてその性格をみよう。 1区の南にあるSD1は、東西方向に延び,西から東へとむかって低く、一般にみられる排水溝であろう。次に1区のテストトレンチから検出されたSD2は、テストトレンチ拡張によって、SD4とつながっていたことが判明し、SD4は2区中央で東側に張り出し,その延長の北東 にあるSD3と関連があるとみられた。すなわちSD3とSD4はかつてつながっていたことになる。SD4は3区北側で池状となって終わっている。これとは別のSG1は検出した部分のみでも最大幅3m, 長さ5mで、東側が大きく, 西側は1mと狭く毒もしくは遣水状を呈していて、やはり,SD4同様に土ズ(SD)が,の ちに(溝状機能を失った直後) 掘り込まれ,S K7から多量の炭化木材(おそらく建物柱の一 部),SK8からは小型の現が出土している。 果してこれら掘り込みは庭園にともなう遺構であったものか。庭園であったならば5区と6 区から検出された建築遺構にともなう構築であったろう。調査団では庭園にともなう池と遣水であった可能性が強いと推定する。 それは2区川層目中央から,石灯篭の一部が出土し、それが灯篭の火袋(灯明のための穴)部分であるからである。庭園の構成物が出土したことは、すくなくともSD4.SD3は,庭の池泉状(おそらく枯山水)にあたる遺構であったことを推定するのが自然であるからである。

 SG1の振り方は,SD4に対応する池状遺構であることを平面的に示している。しかしSG 1の大きな掘り込みは、建物の火災にあった直後、その処理のため、すなわち廃棄物を埋めるための掘り込みとの見方も,否定できず、今次調査では確定できる性格は見い出せなかった。

 古い時代の遺構 池泉状と溝状遺構の掘り込みの中からP3・P4・P10など多数の柱穴がみられる。これら柱穴は,池底(30~60cm深い) より深い位置にあり,柱穴としての振り込みがかなり深いか,さらにもう一層深いところに, すなわち模式図(図4) のしたのV層にあたる鈍褐色層(かなりソフトロームと褐色土である腐食士が混じる土層)である廃城時点より前の時期,いうなれば戦国時代末期以前に振り込まれたもの,と推定される。SD, SK遺構があまりに不確定であるため,低レベルに掘り込まれているピット群が,果たして前時代の遺構である建築の痕跡であるか否を知るため,5区と 6区にローム層士(湿りけのないソフトローム 層)に達するテストトレンチを二ヵ所設定した。 約60~70cmで旧遺構面である島崎築城時における整地地業である人工的平坦面のローム層を明らかにカットする古い時代の土木地業面が検出された。そこには,P28・P29・P36などの検出遺構面より、さらに古い時代のピットの存在を確認できた。この古い時代の遺構面(鈍い得色土層の下層)まで掘り下げると城郭としての調査の限界を越えてしまうので止めたが、明らかに古い時代(おそらくは室町前期)に遡る島崎城の創築年代の手掛りを得たといえよう。 なお,P30からは永楽通宝とカワラケが柱穴底部の粘土貼り部より出土。地鎮祭か後世にいう大黒柱に相当する柱の位置を示す出土として注目された。

⇒次回は石塔群集積遺構について掲載予定。

 


「島崎城跡発掘調査報告書Ⅱ」島崎城の調査について

2021-07-27 14:56:38 | 発掘調査

昭和62年(1987)に発行されました「島崎城跡発掘調査報告書Ⅱ」の内容を抜萃して紹介します。

島崎城の調査について

 島崎域は,中世に行方郡を支配し、戦国時代には有力国人領主として行方郡と鹿島郡最大の 勢力を保有した島崎氏歴代の居城である。島崎氏が今日、町指定史跡地の域にいつの時代に はじめて本拠を構えたかは詳らかでない。しかし室町中期(文明年間の島崎長国)から,天正19年(1591) 2月の島崎安定父子の滅亡までは, 確実に島崎氏の居城であったことは、記録,伝承もとより、第1次・第2次調査からも裏付けられている。

 第1次調査では,予想外の数量に及ぶ出土遺物(室町・戦国期の遺物群)と遺構の検出をみた。さらに第2次調査では町指定史跡域の城郭としての現状遺構の測量調査。一曲輪土塁セクションを中世石塔群の集積敷遺構の検出にあった。この第1・第2次調査は、試掘調査と遺構確認として予備調査的色彩が強かったため、2年次(第3次調査)では、第1次調査トレンチの延長および第2次調査では検出を見た石塔群集積敷の性格を見極めることを目的として実施にあたった。

 3年次(第4次調査)調査は,島崎域の特徴である砂岩層を振り込む堀が,どのような形態であったかを知るため,一曲輪外周空堀と馬出曲輪空堀にトレンチを設定。二曲輪にも試掘調査を実施し,今後の調査計画の資料を得ることにした。 ⇒次回は、一の曲輪の調査を掲載。


「島崎城跡発掘調査報告書Ⅰ」総括

2021-07-26 14:56:01 | 発掘調査

昭和62年(1987)に発行されました「島崎城跡発掘調査報告書」の内容を抜萃して紹介します。

 

第V篇総括

 以上が昭和61年度,島崎城第1次・第2次調査の成果である。昭和62年度以降の継続調査への課題を含め、今次調査の主だった成果をまとめ,総括としたい。

まず測量成果からみた現状の島崎城は、

 ○御札神社境内となっているため、きわめて保存状況が良いこと。今後,県指定史跡なり,国指定史跡として,保存策定と整備計画を行うべきである。

〇城郭は内城(I・II・馬出・わめて保存状況が良いこと。今後,県指定史跡なり,国指定史跡として,保存策定と整備計画を行うべきである。水の手各曲輪),中城(Ⅲ・越前曲輪),外城(外曲輪・古宿台地上)と大別でき、連郭式縄張であること。

○築城技法は,角馬出や姉形虎口を用いて虎口を堅め、大手口より1曲輪への入城ルートは複雑に屈曲し、容易に近づけない工夫がある。空堀は堀底を通路とし、左右の攻撃を安易とし、 実効堀語は,14m内外の長柄籠を意識した堀語と,20m以上もある中城と外城を別ける大区 画(空堀と腰曲輪)からなる。

〇城址を中心に古屋・根古屋・山下・越前屋敷・隼人屋敷・表門・東門・金井湖・大構・古宿・宿・芝宿の地名が残り,廃城前の城下集落,城をめぐる当時の様子を知ることができる。

○隣地(わずか300m)に島崎城にかわり佐竹氏が築いた堀之内大台城があり、比べると島崎城 は①各曲輪の面積が小さく,②空堀の利用が多く,③全体構成が複雑である。これは堀之内大台城が、計画をもって同一プランで築城されたのに対し,島崎城は、長い時間のうちで,必要に応じて適宜改修・拡張していったことを物語る。

○戦国時代の国人領主の居城として,島崎城は壮大な規模を有し、典型的な戦国期丘城といえる。

○今次発掘調査で,1曲輪内より建築物にともなう柱穴が検出され、生活面での土壌や火床もみつかった。しかしこれらの遺構性格を決定するには,昭和62年度以降の調査区拡張の必要がある。

 ○土塁は版築状土塁で層序ごとに突き固めた崩れにくい工法で成立している。土塁敷下からは多量の古石塔群が重層で石敷状に出土した。これら石塔群の集積する性格および石塔の年記銘等の解明は,昭和62年度以降の調査にゆだねたい。

 ○出土遺物は,3号トレンチ400m2の面積内で集中してみられ,密度の濃い出土分布を呈した。これは島崎城の存城期間の長さを反映しているといえる。

以上の9項目に要約できる。島崎城の解明は,今後の1曲輪内の調査区拡張はもとより、外曲輪・大構(古宿台地)の遺構の確認をあわせて行う必要を痛感する。昭和62.63年度調査は,これらの項目を念頭に置いて調査を進行する予定である。

⇒次回、「島崎城Ⅱ」第3次・第4次発掘調査報告書についてブログ掲載予定。

 


石塔群(供養塔類)集積遺敷構について 「島崎城跡発掘調査報告」より

2021-07-21 17:28:24 | 発掘調査

「島崎城跡発掘調査報告書Ⅱ」より石塔群集積遺構についての記載を紹介します。

 

【石塔群集積敷遺構】

 Ⅰ曲輪北側に通称「御鐘(おかね)台(だい)」と呼ばれる櫓台もしくは大規模土塁がある。

 御札神社社殿・本殿を昭和55年(1980)に改修した折、中央部を資材運搬のため、ブルトーザーにて拡幅し、崩した土砂を北側の堀切りに埋め立て、現状のようになっている。第2次調査の折、この拡幅道左右の東側を削りセクション面の測量にあたることとした。思いがけず、セクション面検出のため基底部を掘り下げたところ、石塔が並べられている遺構が発見された。その出土状況は、「島崎城Ⅰ」で述べた通りである。今次調査では、この石塔群の埋没状況と遺構性格を解明するため、御鐘台の現状遺構を保存するため、敷部のみ、現状に掘り貫くこととして作業にあたった。

 発掘調査は、鉄パイプと道板で落盤を防ぐため補強しながら埋没石塔群の全容を検出した。出土状況は写真並びに図5に示した通りで、予想外に奥深くなく凡そ1mで全容が現れた。出土した石塔は、板碑2点、五輪石塔材40点であった。遺構としては、石塔を二列に並べ、中央に25cmの空間を設け、この25cmの空間天部を板碑と五輪笠石・基礎石で蓋状にかぶせる暗渠状の構築物である。確かに石塔集積は左右と天部からなる中央部が空間となる暗渠状であるが、石積左右には、溝としての穴状遺構は検出されず、水が流れた痕跡は見い出せ得なかった。

   以上の結果から、調査団では、石塔群集積敷の構築遺構は、暗渠状遺構であるが、排口機能は不明(すなわち未完成か、あまり使用しなかった)であるという結論に達した。

 なお、これだけの石塔群が集められたことは注目されることである。石塔、板碑の造立者を考えると、島崎氏を置いて考えられない。島崎氏時代に、このような先祖を供養するための石塔を暗渠に転用することは考えにくく、天正19年(1581)島崎氏を滅亡させた佐竹氏によって、島崎城を占拠、堀之内大台城築城工事期間に構築したものと推定される。堀之内大台城は慶長元年(1596)完成したとみられることから、佐竹氏(城代は小貫頼久)は五年間島崎城にあったと考えられる。なお、堀之内大台城発掘調査では、主殿と城門礎石群はすべて、五輪塔・宝筐印塔・板碑の石塔の転用であり、今次調査の石塔集積遺構と同じ転用方法である。このことからも島崎城Ⅰ曲輪を中心とした最終使用時期は慶長元年(1596)、もしくはその前年の文禄三年と認められるものである。

⇒島崎城跡を守る会としては、これら石塔群を掘り起こして、地上に設置して歴代の島崎氏の供養塔として慰霊を行い、見学者の方にも披露して歴史を感じて頂くよう、潮来市の教育委員会へ申請しております。

 


島崎城跡発掘調査報告書」島崎城の構造―小括

2021-07-20 18:26:22 | 発掘調査

昭和62年(1987)に発行されました「島崎城跡発掘調査報告書」の内容を抜萃して紹介します。

  1. 島崎城の構造

    小 括

     島崎城は標高28~30mの行方台地の南先端部に位置し,中世・戦国期の丘城の典型である空 堀・土塁を幾重にもめぐらす構造である。 城郭域は、大きく内城・中城・外城の各地区に分けられる。内城は,1曲輪・東西の1曲輪を含めた空堀〈4〉に区画された南側台地上で、近世でいう本丸・二の丸に相当する。内城域には,馬出を用いた優れた虎口防禦の築城遺構と大井戸が含まれる。内城域と中城域の中間は 空堀〈4〉と物見台さらに空堀〈5〉からなる緩衝地帯があり,大手口方向の谷間にある腰曲 輪・古屋曲輪も,緩衝地帯に入る。中城域は皿曲輪および越前曲輪等からなり、空堀〈5〉, 堀〈7〉によって区画される。近世でいう三の丸に相当する。

    表1.主要曲輪の占有面積一覧

           東西m  南北m 平面プラン   面 積       立 地

    I曲輪      60    70     三角形    2728m    台地先端

    馬出曲輪    33    30    方 形     687㎡   台地稜線上の平

    東Ⅱ曲輪  20~35    75      瓢箪形   2328㎡   台地稜線上の削平

    西Ⅱ曲輪    35    50      四辺形    1639㎡    技台地先端

    水の手曲輪    42  35       四辺形    1032㎡     台地裁部

    越前曲輪    50    35      方 形    1584㎡     谷間麓

    古屋曲輪    55    35      方 形    1800㎡     谷間蕾

    Ⅲ曲輪     185    35      長方形    7083㎡     台地上平場

     

     大手口である島崎城の正面出入口は、地名にうい門にあたり,大手道は、越前曲輪から坊主屋敷の平場を経由したとみられる。空堀<5>の東出口にある地名・金井柵は「搦手柵」が訛ったものと伝わり,この方面が地形・城の占地からみても搦手方面であったことがわかる。

     外城域は、古宿の台地にあって,外曲輪・大構に相当する。外曲輪といっても空堀と土塁が幾重にもめぐり,集落を区画していたと考えられる。外城の西には出城が構えられ、物見の機能を果していた。

     城の麓には根小屋集落がテラス状にまわり,さらに西に古宿・宿が発達し,城下集落を形成した。城下集落は砂州上に発展し,当時,霞ヶ浦入江に面して新宿にあたる市場をもった芝宿が発生,永正年間ころに長国寺が芝宿に成立,町場の中心となった。

     以上のように,島崎城は保存状況が良好なうえに、中世の城と村落・町場の状況を今日までも伝える地域史研究ばかりでなく、学術上貴重な遺跡標本といえる。⇒島崎城の構造「終了」