昭和62年(1987)に発行されました「島崎城跡発掘調査報告書Ⅱ」の内容を抜萃して紹介します。
一曲輪の調査
第一次調査で,御札神社境内の一曲輪(本丸)には,住居および屋形とみられる建築遺構の一部が検出され、瓦器・陶磁器等の遺物が多量出土した。また遺構面からは焼土混入層やカー ボンが多く含まれていることから,これらの遺構性格を明らかにするため、第3次調査では、 第1次トレンチの延長(南北方向)と,比較的木立が少ない西側へ90度折れ曲がる形で,新たなトレンチを設定し、発掘作業を実施した。
図3が第3次調査区の平面図で,第1次トレ ンチの延長が1区と2区の南北方向のトレンチ で、3区・4区・5区・6区が東西方向に設定 したトレンチである。
この調査区全域は、御札神社境内の神域で、現状は戦後まもなく植林した杉と檜の山林である。調査は、鬱蒼と茂る藪の刈り払いと植林されている木立の枝払い,枯木の除去及び長年 放置されつづけている伐採材の搬出から着手した。排土作業は,埋没土が厚さ50cmに及ぶため, 旧城郭遺構面に達するまで三回の作業を行った。 すなわち浮き上がっている遺物の確認,下層にカーボン包含層があるので,注意を注ぐ必要があり、上・中・下と三段階の層位ごとに遺物出土状況を測量記録して,発掘を行った。平均的な層位序を模式図にすると図4のようになる。では図3および写真を参照されながら,第3次調査で判明した事項をまとめてみると次のように整理できる。
火災にあった遺跡第3次調査トレンチ内は、第Ⅲ層目である褐色土および鈍褐色土層に影しいカーボンおよび炭化木材が混入し、部分的に はびっしりと炭化木材片が下部を中心に混入し ている。ことに凹状にへこんだ部分および柱穴 (ピット)上部ではカーボンおよび炭化木材破 片が数センチに及び,どうみても大火災にあっ た跡と認められた。焼土もII層下部および遺構 面に張りついており,存城遺構の最後において火災跡処理を行い,最終期(城郭としての最後 の改築)の工事を施したと考えられる。
この火災は、落域にともなうものか、いつの時点のものかは,昭和63・64年次の調査成果をみないと結論めいたことはいえない。しかしカー ボン包含土層から出土する遺物は6世紀末に比定される陶磁器が出土する。志戸呂の天目茶碗及び瀬戸美濃の皿,常滑の大甕等がこれである。
図4 土層序模式図
Ⅰ 表土(腐蝕土) 暗褐色土3/3(厚さ10~20cm) |
Ⅱ 褐色土3/4(厚さ15~30cm) |
Ⅲ 褐色4/6 (厚さ10~20cm)∔ カーボン/ 鏡褐色土5/4+カーボン+ |
Ⅳ(遺薄面にぶい褐色5/4) |
建築遺構 中世の建築は,一般に礎石を使用しない掘立柱の建物である。石材がない関東では、掘立柱建築が最も顕著で、掘立柱に加わる
屋根・床・壁等の重量,風雨等による転倒を防ぐため、柱の下(基礎)に「根絡み」とか「柱留め」といって,垂直の柱の根部分に横材をクロスさせたり,弱い方向のみに横材を打ちつけた。また堀之内大台域では,柱穴の底に砂岩を据えたり,粘土敷にしたりして補強したあとがみつかっている。従って掘立柱建築の外周の柱穴(ピット)や主要な柱穴は,根絡みをつける関係から大きな穴を掘る必要があった。図3P 34のように柱材が中心に根絡み用の穴,その外側に掘り方穴と三つの穴がダブルのは、その典型であるといえる。
第3次調査区で,建築遺構が最も顕著に検出できたのは、5区と6区のピット群である。6区に検出されたP33・P320P31・P30は南北カーボン,焼土の中から出土する完型カワラケ群方向線上にあり,これと並行してSK9-P24 -P22がある。SK9は土壌として利用する以前にピットであったものだろう。なおこの南北 方向に対し, P34-P31-P27, P30-P23, P21-P20-P19などが東西方向に結ばれる。
きれいに結ばれる建築プランの検出はできなかった。しかし5区・6区には東西棟もしくは南北棟とする建築が存在したことはほぼあきらかになった,といえよう。なお,真々の柱間はP31 -P32, P30-P24, P32-SK9にみられるように6尺5寸間が基本であったようだ。 池もしくは溝状遺構今次調査で,多量の炭化物を含む焼土,カーボン粒子層が混入されている池もしくは講(SD)とみられる掘り込みが,1区・2区・3区・4区・5区に認められた。深さは遺構面より30cmから60cmを測り、幅は区々で1m~3mである。SD遺構は大きく1区および2区の構状と,3区西側から5区の 東側にかけての池もしくは溝状遺構に別けられ るようだ。
これらの振り込みを平面的にみると、庭園にともなう池とそれにともなう遣水のようにも見える。城郭の発掘では、多くの毒が検出される
例が非常に多いが、今次で検出した毒のように曲がったり,幅が振幅する例は少ない。これらSD, SK遺構埋没土は前述したように,火災にともなうカーボンを含む土層で,明らかに、火災後にその処理のため埋め戻したとみられる。 またSD4の中に掘り込まれている2つの方形の土壌(SK1・SK2)中には大甕(常滑)が投棄されており、中央部SK4には、ススが付着する多量の完形カワラケが出土している。あきらかに火災の直後にこれらの遺構が埋め戻されたことを示している。
つぎに各つながりをみてその性格をみよう。 1区の南にあるSD1は、東西方向に延び,西から東へとむかって低く、一般にみられる排水溝であろう。次に1区のテストトレンチから検出されたSD2は、テストトレンチ拡張によって、SD4とつながっていたことが判明し、SD4は2区中央で東側に張り出し,その延長の北東 にあるSD3と関連があるとみられた。すなわちSD3とSD4はかつてつながっていたことになる。SD4は3区北側で池状となって終わっている。これとは別のSG1は検出した部分のみでも最大幅3m, 長さ5mで、東側が大きく, 西側は1mと狭く毒もしくは遣水状を呈していて、やはり,SD4同様に土ズ(SD)が,の ちに(溝状機能を失った直後) 掘り込まれ,S K7から多量の炭化木材(おそらく建物柱の一 部),SK8からは小型の現が出土している。 果してこれら掘り込みは庭園にともなう遺構であったものか。庭園であったならば5区と6 区から検出された建築遺構にともなう構築であったろう。調査団では庭園にともなう池と遣水であった可能性が強いと推定する。 それは2区川層目中央から,石灯篭の一部が出土し、それが灯篭の火袋(灯明のための穴)部分であるからである。庭園の構成物が出土したことは、すくなくともSD4.SD3は,庭の池泉状(おそらく枯山水)にあたる遺構であったことを推定するのが自然であるからである。
SG1の振り方は,SD4に対応する池状遺構であることを平面的に示している。しかしSG 1の大きな掘り込みは、建物の火災にあった直後、その処理のため、すなわち廃棄物を埋めるための掘り込みとの見方も,否定できず、今次調査では確定できる性格は見い出せなかった。
古い時代の遺構 池泉状と溝状遺構の掘り込みの中からP3・P4・P10など多数の柱穴がみられる。これら柱穴は,池底(30~60cm深い) より深い位置にあり,柱穴としての振り込みがかなり深いか,さらにもう一層深いところに, すなわち模式図(図4) のしたのV層にあたる鈍褐色層(かなりソフトロームと褐色土である腐食士が混じる土層)である廃城時点より前の時期,いうなれば戦国時代末期以前に振り込まれたもの,と推定される。SD, SK遺構があまりに不確定であるため,低レベルに掘り込まれているピット群が,果たして前時代の遺構である建築の痕跡であるか否を知るため,5区と 6区にローム層士(湿りけのないソフトローム 層)に達するテストトレンチを二ヵ所設定した。 約60~70cmで旧遺構面である島崎築城時における整地地業である人工的平坦面のローム層を明らかにカットする古い時代の土木地業面が検出された。そこには,P28・P29・P36などの検出遺構面より、さらに古い時代のピットの存在を確認できた。この古い時代の遺構面(鈍い得色土層の下層)まで掘り下げると城郭としての調査の限界を越えてしまうので止めたが、明らかに古い時代(おそらくは室町前期)に遡る島崎城の創築年代の手掛りを得たといえよう。 なお,P30からは永楽通宝とカワラケが柱穴底部の粘土貼り部より出土。地鎮祭か後世にいう大黒柱に相当する柱の位置を示す出土として注目された。
⇒次回は石塔群集積遺構について掲載予定。