湖の子守唄

琵琶湖・湖北での生活、四季おりおりの
風景の移り変わり、旅先でのふれ逢いなど、
つれづれなるままに、語りたい。

摺針峠その2

2011年01月18日 | 詩歌・歳時記
摺針峠のつづら折りを降りてゆく。やがて、中仙道は国道8号線と合流し、再びふたてに別れる。
右側に大正建造物でもある近江鉄道の「鳥居本駅」の、童話にでもでてきそうな可愛い駅舎がみえ、
前方にすぐ目に入るのが、江戸の当時から道中胃腸薬「赤玉神教丸」を製造・販売している有川製薬と
その豪壮な有川家の旧家である。たまたま通りかかった徳川家康の腹痛を快癒させたとか。
微妙に曲がりくねった細い道をさらに西へ歩を進める。ここら辺り街道の雰囲気が実に濃厚である。
                                                               
鳥居本宿は本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠35軒を数えた宿場で、
多賀大社の鳥居がここにあったことから、その名がついた由。

やがて右側に木製の古い合羽の形をした看板を吊った商家が現れる。何気ない民家ではあるが、
ここも中仙道ではお決まりのたくさんあったなかで、今ではたった1軒残る「木綿屋」である。
                   
江戸の昔は、鳥居本の合羽は全国有数の製造占有率を誇っていたと言う。

万延元年(1860)3月3日、雪降りしきる桜田門外に、時の大老・伊井直弼を襲った、
水戸の浪士18名(うち、一人は薩摩藩士)が着こんでいた合羽が、彦根の鳥居本の産であったとか。
なんたる皮肉であろう。直弼公さえ存命ならば、あれほど愚かな明治政府とはならなかったであろう。
歴史に、たら・ればは禁句ではあるが、西郷さんの運命もしかり、その後の戦争至上主義への傾倒も、
違った展開になったのではなかろうか。日本の歴史を根本的に覆した、桃の節句である。

閑話休題。
街道はやがて、石田三成の佐和山を南へ巻いて、彦根城を北に仰ぎながら、次の宿場、高宮へと続く。
鳥居本にはもう一ヵ所、歌舞伎でも有名な「上品寺」じょうぼんじ、がある。

法界坊は、亡父の菩提を弔らうために出家し、諸国を巡り修行に励んだのだが、寺は荒れ果てていた。
江戸にでてたく鉢し法を説く法界坊に帰依した、吉原の花里という花魁が、
釣り鐘のための浄財を得るため、奔走した。志半ばに倒れた花里の姉、花扇はその偉業を継いで、                                  
釣り鐘鋳造の運びにこぎつけた。その鐘に法界坊自らが寄進者600数名の名を刻み、
大八車に乗せて彦根に運んだ。今、寺は国道、JR、新幹線、名神高速、中仙道と大動脈に東西に寸断されて、肩身も狭く惨めな状況ではあるが、法界坊が運んできた鐘は、健在である。近江の国土は狭い。その狭い所に、名所・旧跡がいくつも点在している。たいがいが、この東西に延びる大動脈に寸断され、かろうじて妙脈を保っている。

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