今は亡きわが父は、帝国陸軍の軍人であった。
富山県魚津のお寺の次男に生まれ、少年の頃から檀家廻りをしていたとか。
東京の学校をでて職業軍人になったのだが、最初の任地は満州であった。
その頃の写真がたくさん遺されている。
軍刀を腰に下げ、勲章で飾られた礼装の父。蒙古服に身を固めサイドカーのハンドルを握る父。
見舞った友人の傷病兵と並ぶ父。どれもが凛として、格好いい。
写真だけのお見合いで、兄さまに付き添われて母となるおひとは下関から、
釜山を経て松花江をさかのぼり、はるばると満州の富錦(ふうきん)へ嫁いだ訳だ。
昭和18年のことである。
コスモスの咲き乱れる中の、官舎の前に佇む母の若いこと!!
父の任務は市川雷蔵の映画「陸軍中野学校」を彷彿とさせる、満人を手先に使っての諜報活動であった。中国やロシアの情報を集め、調査する訳である。また、周辺に出没する匪族の平定にも当たっていた。独立守備隊の班長として、鉄道の守備の任務にも就いていた。
やがて戦況悪化し、南方のジャワの「フロレス島」に転属となり、終戦を迎えた訳だが、
その後3年間の捕虜収容所での生活を送ることとなった。
オランダ軍の管轄の下、比較的に自由はあったようだ。生活用品、娯楽の用具などを手作りした。
将棋の駒もその一つ。それぞれ大きさを変えて、彫りを入れた中に墨が入れてある、見事な駒だ。
また、ドンゴロスを縫うための縫い針を、戦闘機のプロペラで作りあげた。
ジュラルミンの軽いことを、今、掌にするスプーンに感じる。このスプーンをいかに創ったのか?
捕虜時代のことどもは、あまり語らぬ父であった。
薄く軽いこのスプーンが物語る、父の辛苦の捕虜生活の重さは、想像するのみである。