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肉を食べるということ

2013-02-11 | 青森自然
今年の庭のお客様は常連のスズメ、シジュウカラ、ヒヨドリ、エナガの他に、スズメを狙いに来たハヤブサとキジでした。
ハヤブサは動きが早くて写真に撮るには難しいのですが、毎日のように庭に来るキジは動きのスピードが写真撮影に良く、冬の観察対象として楽しい相手です。
狩猟対象の鳥ですが、オス一羽とメス二羽の組み合わせが親子なのか兄弟なのか、はたまた違う関係なのかを想像するのも面白く、庭に来ない日には心配になるほどになりました。

ペットと家畜と野生動物への心理的な距離感が、年代や経験によって大きく変わるという事を考えています。
沖縄に住んでいた頃に、内地出身の友人がペットとしてヤギを飼いだしました。
ブラッシングをしたり散歩に連れて行ったり、当然名前を付けて可愛がっていたのですが、ある日「おまえの所のヤギはいつ食べるんだ」と言われ激怒していたと聞きました。
また別の沖縄生まれの農家の友人も家畜としてヤギを飼っていました。
それなりに大切に育てていましたが、名前は付けず家畜としての扱いをしていました。
自分で絞めて食べるのか聞いたところ、さすがにそれはできないので他所の家のヤギと交換したり、売ったりするということでした。

現代の生活の中で食べるために動物を飼うというのはほとんど体験しない事です。
動物との心理的距離感も、ペットと自分もしくは野生動物と自分の関係しか想像できなくなっています。
それしか知らなければ、食べるための家畜との心理的な関係については想像することも難しい。
それでも毎日のように何かの肉を食べている。
殺して食べる作業の心の痛みは、昔は信仰によって緩和されていたようにも思うのですが、信仰心を失くした時代には直視できなくなりつつあるのでしょうか。
天明の飢饉の記録を読むと、牛馬を食べた事の罪悪感も記述されています。
人肉食の悲惨さに比べればインパクトは小さいのですが、日本の家畜は食べるためというより労働力であったわけで、家族に準じる心理的地位を持っていました。
心理的な距離と、食べるという行為の関係性の模索はまだ答えが出ない状態です。









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2 コメント

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Unknown (やじろじゃ)
2013-02-12 09:30:29
立派な雉ですね。それだけ自然が豊かである印なんでしょうか?

とりぱん読んでも目の前の鳥がなんであるか、よく判らないのが残念です。
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やじろじゃさま (shouske0)
2013-02-13 13:31:55
鳥の種類が多いことに山野の大きさを感じますね。
とりぱんは未だに読んでないのでわからないのですが。
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