スミダマンのほのぼの奮戦記

~グルメ・旅・仕事・自然・地域~あらゆる出来事をフラッシュバック。

ワールド of コカ・コーラ博物館

2017-07-10 05:32:38 | 旅 ~海外

アトランタの観光名所の1つになったワールドオブコカ・コーラ博物館は

1990年8月3日にオープンした。コカ・コーラ誕生の地はアトランタで

この博物館でコカ・コーラの全てが分かる。

ここの入場料は大人、17$とちょっと高い。それでも大勢の人が来て

コカ・コーラワールドに浸って楽しんでいた。

入場すると最初に4種類のコーラが試飲できる。

黒い缶はzero、緑の缶は初めて見た。

試飲が終わると「ザ ロフト」という部屋に入る。壁には100年以上前の

ポスター、宣伝グッズなど所狭しと展示してあって

アメリカのポップカルチャーの香りがプンプンする。

又、早口でちょっと巻舌の英語を話すこのオジさんがまた良い。

所々で笑いを取っていたが、悲しいかなその意味が分からない。

多分、世界で最も成功したブランドの詳しい歴史やその精神を語っているのだろう。

次のコーナーはミニシアターで世界中でコカ・コーラが親しまれ、

愛されている様なPR映画を見、このザ ロフトのオジさんが

コメントしていた。終わるとこの大きなスクリーンが開いて

次のエリアに導かれる。エンターテイメントの国だけに

この仕掛けは「やる~」といった感じだった。

1886年に販売を開始したコカ・コーラ。コーラは様々な謎を

抱えたまま大衆に迎合された。その謎に関していくつかの都市伝説を生んだ。

 

コカ・コーラの瓶は女性のボディラインを参考にした。

過去に偽物が出回った為、暗闇で触ってもすぐ分かる様に、

この型に成ったというのが真相みたいだ。

サンタクロースが赤い服を着ているのは、コカ・コーラのCMが元祖。

このCMが流れる前からサンタの赤い服の絵本はあった。

が、世界中に広めたのはコーラのCMの力があった。

他にも、コカ・コーラは民主党派 ペプシ・コーラは共和党派(?)。

コカ・コーラを飲むと骨が溶けるという噂話が1970~1980年前半まで

広く流布した。この写真の真ん中奥に金庫の扉が写っているが、

コカ・コーラのトップシークレット「原液」の秘密レシピが

2011年、創業125周年記念事業の一環としてここに移されたらしい。

コカ・コーラのマスコット白くま君と記念写真を撮る若い女性。

幸せの瞬間だ。

コカ・コーラの発明者ジョンペンバートン博士。コカ・コーラの名称由来は

コカの葉(成分としてコカインを含む)とコーラの実(当時はアフリカ産)を

原材料として作った為。1903年以降はコカインの成分は含まれない。

 

館内にはコーラの昔の看板コーナー、コカ・コーラ誕生の歴史、

世界中の瓶の変遷。昔使われた自動販売機など、コカ・コーラの

総てが分かり易く回遊しながら知ることが出来る様に成っている。

誰もが見慣れてしまった「coca cola」の書体はこの肖像画の人が書いた。

そして命名者はコーラの発明者ジョンペンドール博士の

友人総理担当のフランク・ロビンソンだ。

この昔の自販機はレバーを押すとコーラが出てくる音がし、

栓を抜いた時のジュワーという音も出る。この女の子は何度も楽しそうに繰り返していた。

戦争中も戦地で兵士はよくコーラを飲んでいたというコーナー。

私達日本人がコーラを目にし出したのはコカ・コーラが

テレビでCMを開始した1960年代初めの頃か。因みに

日本でコカ・コーラを製造開始したのは1957年(昭和32年)から。

歴代のオリンピック聖火のトーチが展示してあって

デザイン大きさなど目の前で見ることができ、大変興味深かった。

そういえばコカ・コーラはオリンピックはじめ

各種のスポーツイベントに協賛していることが多いことを思い出した。

過去のコカ・コーラが関わった絵、写真などのポスターの展示コーナー。

このミュージアムをここまで見てきて、コカ・コーラそのものが

アメリカの一部に成っている様な気がしてきた。

コカ・コーラ社が世界中で製造している商品の入れ物(瓶、缶、ペットボトル等々)。

真ん中の丸くなった所に原点のコカ・コーラの瓶がある。

縮小サイズのボトリング工場。クラシックサイズのコーラが

ボトル詰めされる様子が観察できる。世界のコカ・コーラの

製造システムは、ザコカ・コーラカンパニーで調整されたコーラの原液

(この成分を知っているのは最高幹部のみ)を世界各地の

ボトリング会社に流通。現地各社によってコーンシロップ、

砂糖などで薄められ、炭酸水で割られて造られる。

4Dシネマ「秘密のレシピを探せ」というフィクション映画を上映している。

最後のこのエリアでは、世界各国のコカ・コーラブランド製品を

試飲することができる、その種類の数は60種類以上だ。

アジアエリアで8種類ある。

博物館を出るとそこはかなり広いショッピングエリアだ。

ここコカ・コーラストアーでは限定グッズなど

ここでしか買えないお土産品が売っており、大いにショッピングが楽しめる。

ワールドオブコカ・コーラ博物館を出ると広い広場に成っていて、

道にはロータリークラブのPR広告塔が並んでいた。


マーガレット・ミッチェル ハウス

2017-07-08 05:19:33 | 旅 ~海外

ミッドタウン、クレッセントアベニューにある「風と共に去りぬ」

(Gone with the Wind)を書いたマーガレット・マナーリン・ミッチェルが

住んでいたアパート。正に世紀の名作「風と共に去りぬ」はここで生まれた。

外から見ると一戸建ての家に見える10戸のアパートで

ミッチェルは二度目の結婚した日にこのアパートに引越してきた。

このハウスの向かい側には映画「風と共に去りぬ」の小さなミュージアムがある。

1939年(昭和14年)映画化された時造られたタラの家のセットの

写真と1Fセンターの玄関扉を移設してここに展示してある。

ビビアンーリーが演じたスカーレットオハラの絵。

この絵を映画の中で実際に使った写真。

映画の撮影の前に画かれたスカーレットオハラとレッドバトラーのその当時の絵コンテ。

ここがマーガレット・ミッチェルの生活していたリビングルーム。

風と共に去りぬは膨大な作品で狭いアパートに原稿を仕舞う場所がなく

来客が来た時は応援セットのソファーの下に隠したとか。

今もそんなソファーになっている。

ベットルームのベットもとても小さい。ミッチェルの身長は150㎝を

切っている小さな人の為だ。

ミッチェルは料理をあまりしなかった様でキッチンも本当に小さい。

又その当時使っていた氷で冷す冷蔵庫。昔日本にもありましたよネ。

マーガレット・マナーリン。ミッチェルは1900年(明治33年)

11月18日アトランタで誕生した。父は弁護士でアトランタの市史、

及びジョージア州史の権威として知られていた。

若き日のミッチェルのポートレート写真を真剣に見ている少女。

彼女の幼年期は南北戦争を生き抜いた母方の親戚の影響を大きく受けた。

1918年頃アトランタジャーナル社に入社。日曜版のコラム執筆者になった。

その当時のアメリカ南部では女性のキャリアガールなど珍しく

マーガレットは飛んでいる女性であった。彼女の活躍期は

1926年~1949年の約20年間だった。

このハウスには館の職員が案内してくれる。我々がガイドさんの

説明を聞いている間に他の外国人グループの人々が来て、

真剣に説明を聞いていた。

アトランタジャーナル時代に使っていた旧式レミントンのタイプライター。

タイプライターの上の写真を見ればわかる様に周りの男性に

囲まれたマーガレットは異常なぐらい小さい。

身長は148㎝だったようだ。その為テーブルの脚を切って調整したらしい。

マーガレットは小説の原稿を書くとこのクリップボードに貼ったらしい。

小説を書いたきっかけは夫のジョン・マーシュから「ねぇ、そんなに本が好きなら

今度は自分で書いたら?」と言われたからとか。

南北戦争の豊富な知識を持っていた彼女はそれを背景として

自分の人生体験を叙事詩に綴っていった。彼女の執筆手法は

最終章から書き出し、章を飛び飛び書き進めるという独特なものであった。

1935年、彼女の運命を一変させる出来事が起きた。出版社の編集者

ハワードラザムが来て出版を依頼。それがマーガレット・ミッチェルの

最初で最後の小説「風と共に去りぬ」だった。この本は大ヒットとなり

クリスマスには100万部、翌年に150万部。フランス、日本など

29ヶ国語に翻訳され、ピュリッツァー賞を受賞した。

私も学生時代、この大作を読んで感動したことをよく覚えている。

それだけにこのミュージアムでは青春時代の時間が蘇ってきた。

1939年(昭和14年)風と共に去りぬは映画化され、アトランタの

ローズグランドシアターでプレミアム上映された。アトランタに

クラーク・ゲーブルなど映画関係者が来た時の市民の大熱狂の

模様が新聞報道された。下の写真はマーガレットとクラーク・ゲーブルが会った所。

1940年のアカデミー賞では、作品賞、監督賞、主演女優賞

(ビビアン・リー)、脚色賞を獲得、そして特筆すべきことは

ハティ・マクダニエルが黒人俳優として初めて助演女優賞を受賞したことだ。

この写真はアトランタで風と共に去りぬを上映した劇場前での一枚。

なんと一番前列左側、白い大きな帽子をかぶっている少年は

マーチン・ルーサー・キング・ジュニアだそうだ。

マーガレット、ミッチェルは1949年8月11日の晩、劇場に行く途中、

ピーチツリー街を横断時にタクシーにはねられ、5日後に死去した。享年49才だった。

 


マーチン・ルーサー・キング・ジュニア牧師

2017-07-07 04:15:24 | 旅 ~海外

アトランタ郊外にアフリカ系アメリカ人公民権運動の指導者であった

マーチン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の墓所と記念館、

そして父親と伴に活動した教会がある。

キング牧師は1925年1月15日にこの墓地の隣りに生まれ、

父シニア牧師の後を継ぎ、プロテスタントバブテスト派の牧師となり、

大指導者となった。そして1968年4月4日、テネシー州メンフィスで

暗殺された。この墓地には愛妻のコレッタ・スコット・キングと伴に葬られている。

墓標には「I'm Free at last」(ついに自由を得た)と書かれているのが強く胸に響いた。

墓地の前には「THE ETERNAL FLAME」永遠の灯があり、

スピーカーからはキング牧師の演説のテープが流されていた。

その声は太く何か深い憂いのある肉声であった。

これが墓地の隣りにある「EBENZER BAPTIST CHURCH」。

ここで父親キング・シニア牧師が活動し、キングジュニア牧師が受け継いだ教会。

地下1階は集会場と展示記念館になっている。

館内ではビデオが流され、この教会の事、歴史、活動内容、キング家の

指導力などのパネルが展示されていた。

1階では丁度牧師さんによる礼拝が行われていた。

厳粛な空気が流れちょっと緊張した。

キング牧師の葬儀の写真。その後キング牧師の栄誉を称え、

ロナルド・レーガン政権下の1986年よりキングの誕生日(1月15日)に

近い毎年1月第3月曜日をキング牧師記念日として祝日とした。

生前の業績から祝日が制定された故人は、クリストファー・コロンブス、

ジョージ・ワシントン、エイブラハム・リンカーンの3人しかいない。

キング牧師は1964年、ノーベル平和賞を受賞した。

このメダルはノーベル賞のレプリカです。

1942年キング牧師はブーカー・T・ワシントン高校に入学。

弁論大会で優勝した帰り道に、バスの中で白人から席を譲れと強制され、

激しく怒った。これが後のバスボイコットに繋がっていく。

又、神学校大学院生の時、マハトマ・ガンジーの思想を知り、

深く傾倒して、のちの活動に非常に大きく影響をもたらした。

キング牧師が提唱した運動の特徴は徹底した非暴力主義だ。

キング牧師が暗殺されたメンフィス市内のロレイン・モーテル。

このバルコニーでその夜の集会での演奏音楽の曲目の打合せ中に

白人で累犯のならず者に撃たれ死亡した。

この事件もケネディ暗殺と同じように犯人に色々の説があり、

真相はまだ分かっていない。尚、このモーテルは今、国立公民権博物館となっている。

妻のコレッタとはボストン大学在学中に知り合って結婚した。

コレッタは4人の子供を育て、夫が亡くなった後もその意思を継ぎ、

「非暴力社会変革センター」を設立。非暴力運動、人種差別撤廃、

貧困層救済の運動を指導して世界を行脚した。78才でこの世を去った。

1963年、8月28日キング牧師たちは首都ワシントンにおいて

リンカーンの奴隷解放宣言100年を記念して大集会を企画、

参加者は20万人を超えた。そしてリンカーン記念堂の前で

あの有名な演説「I Have a Dream・・・・」(私には夢がある・・・)を行なった。

この演説はジョン・F・ケネディ大統領の就任演説と並び

20世紀のアメリカを代表する名演説として有名だ。

記念館の近くにマーチン・ルーサー・キング・ジュニアの生家がある。

因みに、ファーストネームのマーチンは宗教会改革をはじめた

マルティン・ルターから父親が命名したという。

 


レノックス スクエア (ショッピングモール)

2017-07-05 04:15:06 | 旅 ~海外

我々が宿泊したホテルの近くに大型ショッピングモール

「レノックス スクエア」があった。バックヘッドには他にフィップス・プラザという

大型ショッピングモールもあり、アトランタ有数のショッピングエリアだ。

ガイドさんの話ではクリスマスシーズンには近隣の州からも

プレゼントを買いに大変な賑わいになるという。

ショッピングモールの原型はショッピングセンターと言われ、1922年

アメリカ、カンザスシティで始まった。その後、車社会化と郊外住宅の

発展に伴い、1950年代頃から完全な共同店舗型のモールが生まれ、

1956年にミネアポリス郊外に、「サウスデール・センター」がオープンした。

わかりずらいがこれがレノックス スクエア、サイモンモールの案内図。

4階層になっており、なんと250軒のお店がある。ここには

日本にも浸透しているフォーエバー24、アメリカンイーグル、

アバクロンバー&フィッチなどのお店があり、日本未上陸の

コスメのセフォラ、バス&ボディーワークなども入っている。

モール1階から2階へのエスカレーター。アトランタは関東エリアと

逆の右サイドに立っている。関西エリアと同じだ。

アールの吹き抜けが非常に開放的で良い店舗デザインだと思う。

天井の丸いトップライトも効いている。

屋根全体のガラス張りもやさしい自然光が入って明るくあたたかみがある。

フロアーのポイントポイントにはこの噴水の様にシンボリックなものがある。

広いモールの中でひときわ大きい百貨店メイシーズ。

1929年設立の老舗デパートでニューヨークに本部がある。

オハイオ州シンシナティのR.H.メイシー社が経営している。

ここは洒落た家具屋さん。ひと回り、内を歩いてみたが、

ほしくなる様な小物が沢山あった。入口の所には、日本では見ない、

いちごとレモン(?)の冷水が誰でも飲める様に置いてあった。

この家具屋さんの店内にあった木製のいい感じの階段が

目に止まったのでパチリ。

ベランダから下位層を撮った1枚。それにしてもアメリカ人は

Tシャツなど皆ラフな服装の人ばかり。日本のビジネス街の様に

スーツにネクタイの人などほとんど見かけない。

このアングルのディテールもいい感じだ。トップライト下の壁の絵も

いかにも南部の香りがする壁画だ。

地下のフードコートに行くと日本食の店を発見。

「Sarku Japan」。なぜかJapanという字を見るとうれしくなる。

メニューはチキン、海老の照り焼きがメインの様だ。

働いている人もアジア系の人だが日本人ではないみたい。

ここは同じSarku Japanがやっているスシバー。

鮨種ケースを見ると半分位は日本の寿司屋さんのものと同じだが、

他カリフォルニアロール的海外のオリジナル寿司の種が並んでいた。

今や、寿司は外国の土地柄に合ったスシに変身して世界中に広がっている。

店内を歩いていて気に成るものを発見した。3Dクリスタランドという

商品で、写真をベースに立体的にクリスタルガラスの中に絵を描いていくらしい。


ストーンマウンテンパーク

2017-07-01 04:05:07 | 旅 ~海外

アトランタのダウンタウンから東へ車で35分程度、標高513Mの岩山、ストーンマウンテンパーク

世界最大の花崗岩(御影石)の一枚岩で、周囲からの高さは251Mだ

このレリーフは高さ27M、幅58Mの巨大なもので、世界最大とされる。

ここは一見の価値がある公園だ

ストーン・マウンテンは、その山腹にある、ジェファーソン。

ディヴィス、ロバート・E・リー、ストーンウォール・ジャクソン

の南北戦争の南軍の司令官・将軍3名のレリーフでも知られている。

左からディヴィス・リー、ジャクソンのレリーフ

メモリアルホールからストーン・マウンテンまでの

広大で明るい公園は噴水の池があり

一面に芝生が敷き詰められ、とても整備されている

合衆国に行くとどこにでも星条旗から取った、赤、白、ブルーの半円の幕をよく見る

メモリアルホールの内にはギャラリー、ビデオシアター

みあげ物屋さんなどがこじんまりある。

2階建ての立派な建物でとても味のある空間だ

このレリーフは後にラシュモア山の4人の大統領の

胸像を担当することになった、アイダホ州出身の

彫刻家ガッストン・ボーグラムによって製作された

山頂まではケーブルカーで行ける、結構早い時間に

行ったにもかかわらず、ケーブルカー2台分のウェイティングだった

ウェイティング中、目に留まった大きな犬と女性、そして子供

犬にサービスドッグと書かれていたが介助犬か?

この子供の背中から何か語りかけてくるような一枚。

メルヘンチックな写真だ

ケーブルカーから撮った一枚。こんな巨大な山が

一個の石だとは信じられない。

途中にはぐるり落下防止の棚があるが当然だ。

人間が豆粒に見え、この山以外は地平線まで平らだ

山頂駅に到着。海抜1683フィート

山頂はご覧の様に思ったより平らだ。この一枚を見ると

地球が円いことがなんとなくわかる

左サイドにボンヤリ見えるのがダウンタウン、ミッドランド

その右側がバックヘッドだ

そしてズームで撮ったダウンタウンとミッドランド

本当に緑が豊かだ

黒人女性の左手の上にはカメラのファインダーからは

バックヘッドがのっているのだろう。

ガイドさんからあの女性を撮ってもみたらと言われた一枚

今回の旅の最高傑作かもしれない

ケーブルカーでウェイティングの時の女性と犬と頂上で再会。

黒人の親子?との微笑ましい一枚

この太った職員はケーブルカーの運転から、客の誘導

切符切りまですべて1人でこなしていた

その上、ものすごい早口の英語でまくし立て

当然、アメリカ人だけに受けて、笑いを取っていた

とってもかっこいいおじさんでした。

これは絶景かな!絶景かな!

すごい風景の連続でした。

 


アトランタの街(ダウンタウン編)

2017-06-30 06:24:59 | 旅 ~海外

バックヘッドよりハイウェイでアトランタの中心ダウンタウンに向かう。

2枚目の左側に見える金色の飾り物が見える塔は

1996年開催された夏季オリンピックで使われたものだ。

ダウンタウンはアトランタで最も古くから発展した地域で

CNNなどの企業の本社をはじめ、州政府市政府の各種機関の施設、

さらに市の名所も集中している。ところでアトランタは18都市と姉妹都市を

提携しており、日本では緯度が同じということで福岡市と結んでいる。

他にはリオデャネイロ、台北、ブリュッセル、ニュルンエルグ市などがある。

私達と姉妹クラブを結んでいるカリフォルニア州にあるクラブと

懇談する為に行ったヒルトンホテルの前から撮ったダウンタウンのビル。

ダウンタウンの真ん中には、こんな観覧車「スカイビューアトランタ」もある。

ジョージア、ワールド、コングレスセンターの隣りにあるジョージアドーム。

NFLのアトランタ。ファルコンズの本拠地。他にもNBAの

アトランタ・ホークスも使っている。収容能力はバスケで6万人。

アメフトで7万人もある。

完成間近のメルセデス・ベンツスタジアム。メルセデス・ベンツが

ネーミングライツを取得していて、個性的な意匠の外壁に

大きなベンツのマークを付けている。完成するとNFLアトランタファルコンズ

メジャーリーグサッカーアトランタユナイテッドFCの本拠地になる。

尚当スタジアムの建設費は14億ドルとか。

アトランタに本社を置く大企業の中でも、有名なのがコカ・コーラ社だ。

ここはその本社ビル。後日アトランタの観光名物コースになっている、

ワールドオブコカ・コーラ博物館のブログも紹介いたします。

コカコーラ本社の手前左右2棟のレンガ調の建物はジョージア工科大学だ。

ここは南部のMITと呼ばれ米国工科大学の御三家。

工学の分野では世界で7番目にランクさえている。

コカ・コーラ博物館の窓から木造の軸組み工法の6階建て

(?まだ上に延びるかも)の施工現場を発見。見た所

パネルも使われておらず、思わず近くに行って見学したい気持ちになった。

又その近くに、今度はパネルを使ったW造の5階建てと6階建ての

施工現場も発見。外壁に白と黄色のシートが貼ってあるのが印象的であった。

アトランタの中心部は今まで紹介してきたダウンタウン、バックヘッド以外に

ミッドランドがある。ここはダウンタウンの北約2㎞に位置し、

1987年にワン・アトランティック・センターが完成してから

急速に発展した。現在ビジネス街として成長を続け、

金融センター的エリアになっている。

その中にアトランタで最も高い超高層ビルが、このバンク・オブ・アメリカプラザ。

高さ311.8m、55階建てでニューヨーク、シカゴ以外の

合衆国の都市に建つビルとしては最も高い。このビルは

1991年から92年にかけて建設され、なんとわずか14ヶ月の短期間で完成したという。

ミッドタウンは単にビジネス街であるのみならず、ビクトリア調の

家屋が建ち並ぶ閑静な住宅街でもある。

隣りの古い建物で改修工事が行われていた。足場は単管足場で

落下防止のネットもちゃんと張ってある。職人の上着は皆Tシャツだ。

命綱は皆着ている。この4人は皆黒人だ。

バックヘッドの我々のホテル屋上から見た。ダウンタウンと

ミッドタウン。その間は森。郊外に向かって延びる木々の天蓋が

スカイラインとなり、それは美しい夜景だった。


アトランタの街(バックヘッド編)

2017-06-29 06:38:19 | 旅 ~海外

アトランタの街には夜到着した。宿泊したホテルは

バックヘッドというダウンタウンエリアとはちょっと離れた(北約15㎞)

新しく開発されたエリアにある。バックヘッドとは、鹿の頭という意で

1980年代から中高層のオフィスが建つようになり、

職住近接型のオフィス街へと変貌を遂げている。

アトランタはアメリカ合衆国南部の州、ジョージア州の州都であり、

最大の都市だ。1847年に市制施行し、市域内の人口は

約50万人と少ないが、アトランタ広域都市圏では約600万人を擁し、

世界都市ランキングで、世界第36位の都市と評価されている。

アトランタの治安をガイドさんに聞いたら、安全だと言うので、

習慣になっている早朝散歩に出てみた。この風景はホテルを出た所の一枚。

アトランタの歴史は古くは鉄道交通のハブとして、又綿花産業の

中心地として栄えた。やがて、多数の大企業が本社を置き、

合衆国南部の商業経済の中心地となった。

アトランタは他の南部諸都市とは異なり、オールド・サウスの

建築様式を継承せず、1880年代に提唱された「ニュー・サウス」を

代表する都市として、中層以上の近代的建築物を建てていく道を選んだ。

そしてアトランタの建築物はアメリカ有数の建築設計事務所や

20世紀を代表する建築家によって設計されてきた。

これがアトランタの手押しボタンと表示。ここも横断歩道の時間が

表示してあるが、台北の方がずっと親切な方式だと思った。

アトランタは一時代前までは全米でも有数の犯罪多発都市であった。

全米の危険な都市ランキングで、1994年、1995年は

連続ワースト1であった。この犯罪率の高さは、貧困率と失業率の高さが

大きな要因と考えられた。2003年にアトランタ警察財団が設立され

130万ドルを投じて警察力を強化。この防犯カメラもその1つと思われる。

ついでに街を散歩して目に付いたのが、この消火栓。きれいに

シルバーに塗られ上部の方が映画、TVで見るアメリカの

ファイアーマンの帽子に似ていたのでパチリした。

 

 

バックヘットは、元々高級住宅街のエリアで、アトランタで最も

裕福な地域で、ロスアンジェルス郊外のビバリーヒルズを凌ぐ

超邸宅街がある。最近、ここで映画のロケーションもよく行なわれるとか。

では車窓から撮った幾軒かをご紹介します。

高級住宅街で最も有名な「スワンハウス」。初めの所有者の

奥さんが白鳥好きで、映画にも使われた。表はコロニアル風

裏はバロック風で現在はアトランタ歴史協会が保存しているとか。

このエリアの中に日本大使館公使公邸があった。皆

星条旗を掲げている中で、やけに日章旗と菊の紋章が印象的であった。

それにしても外交官は良い所に住んでいるのですネー。

この大邸宅の敷地面積は約1000坪~1500坪が平均だそうで、

ゴルフの救聖ボビージョーンズなど有名人が住んでいた。

因みにアメリカでは金持を赤い血をもじってブルーブラッド(青い血)と言うそうだ。

この邸宅はコカコーラ社に60年間以上も君臨した

ロバート・ウットラフが所有していた。建物建築に16億円もかけたとか。

とにかく、アメリカの金持はスケールも桁も違う。

 

 


台北事情

2017-05-27 04:10:30 | 旅 ~海外

台北を旅して気に成ったことをアトランダムにアップしてみました。

東京に成田空港と羽田空港がある様に台北にも

台湾桃園国際空港(桃園市)と台北松山空港(台北市)の

2つの空港がある。桃園国際空港は1979年に開港し、

主に国際線主体に、それによって松山空港は国内線を中心に

運営されている。松山空港は日本統治時代の1936年に建設され

現在も台湾空軍が併設されている。故に上空から許可なく

撮影することは禁じられている。場所は台北市街地の内にあり、

大変便利な空港だ。今回の旅は羽田空港から松山空港利用と成った。

台湾にはチャイナエアラインと安全面での評価が高いエバー航空

(長栄航空)がり、全日空との共同運航しているスターアライアンスに

加盟している。エバー航空は航空会社として初めてサンリオと提携し

ハローキティジェットをはじめあらゆるものにキティちゃんをデザインしている。

又搭乗記念としてキティちゃんのトランプを配っている。

台湾の人々は、ほっとひと息つきたい時や、客をもてなす時に

お茶を出してリラックスする習慣がある。台湾のお茶は凍頂烏龍茶をはじめ

東方美人茶、木柵鉄観音、文山包種茶といった、半発酵の「青茶」が多い。

故に香りが高く後味がほんのり甘いのが特徴だ。茶芸館でお茶の先生より

名茶の説明を聞いた後、ティーセレモニーを堪能した。但し、それだけでは終わらず

結構高い東方美人茶を買う羽目になってしまった。

台北はコンビニがやたらと多い。しかもほとんどが、ファミリーマートと

セブンイレブンだ。1人当たりのコンビニの数は台湾が日本の2倍も

あるそうだ。台北は特にコンビニ激戦区。数十メートルの間に

2,3店舗あるのも珍しくない。台湾のコンビニ密度は世界一だ。

売られている物も、おにぎりや丼ぶりもの、おでんまであった。

日本のビールやチューハイも置いてある。日本のコンビニと違う所は、

レジ袋は有料。トイレは非情に少ない。台湾の人は

ファーストフード店(マックなど)へ行くらしい。

台北で日本で言う建築お知らせ看板を発見。内容は日本と非常に似ているが

表現がおもしろい。施工者は起造人、設計監理者は設計監造人

着工日は開工日期、等々。なんとなく理解できますよネ。

台湾の郵便ポストは赤色と緑色の2種類ある。緑色のポストは

台湾国内専用、赤色はエアメールと速達専用となっている。

なぜ台湾のポストは2つのポストが設置されているのでしょう?

台湾が日本に統治されていた時代は、当然ポストは赤色だけでした。

戦後、国民党が中国大陸から渡って来て以降、ポストは緑色を使うようになった。

因みに中国大陸で使われているポストは緑色です。

台湾元の為替レートは元1に対して円0.24 即ち1元は約4円の計算になる。

円より多くなる国は本当に少ない。

 

故宮博物院と台北101で見かけた「法輪大法好」 中国の伝統の気功で

創始者は李洪志。1992年から李が伝え、中国古来から仏家修練法で

真・善・忍に則って修練するもの。簡単に言えば人の道徳を向上させ

同時に五式の動作を通じて、身体を鍛える気功だ。

お揃いの服装を着ているため、新興宗教かと思った。

台北で代表的なホテル「圓山大飯店」 以前は世界10大ホテルに選定された。

建築的にも中国建築のクラシカルな美を留めていて、台北市でもっとも

眩しいランドマークになっている。現代における宮殿建築の代表であり

客室は東洋と西洋の設計美学を融合している。

台湾の宝 北投石は台湾で唯一地名が命名された鉱物。

1905年に台湾総督府鉱物課の技師だった岡本要八郎が

北投川で発見した。乳白色か黄褐色の北投石は、温泉水が

沈殿してできた結晶の一種で硫酸鉛と硫酸バリウムの化合物。

微量の放射性元素「ラジウム」が含まれている。ここ以外には

日本の玉川温泉しかない。現在は天然の北投石は滅多に採れなくなり

貴重な石だ。一方沈香木は東南アジアに生息する植物で木部を侵されたとき

防御策としてダメージ部の内部に樹脂を分泌、蓄積したものを乾燥させ

木部を削り取ったもの。特に質の良いものは伽羅と呼ばれ香木として珍重される。

お土産店での時間があった為、店員さんをからかっていたら

先方の術中にはまり、35%ディスカウントで買う羽目になってしまった。

連日歩き疲れたので、ガイドさんの紹介で足裏マッサージへ行って来た。

ダイナスティ理容名店 「豪門世家」

台北市林森北路410號B1

フリーダイヤル 0800-369-588

ここは日本語が通じ、送迎無料サービスを行っている。

タレント志村けんがよく利用するらしく、広告塔に使っていた。

店内には日本の有名人の写真が張り出してあり

よく見ると相撲取りが多い様だ。値段は日本とあまり変わりがなく

台湾の物価は結構高い。付いた巨漢のオバサンは下手で

もっと弱くしてくれと言ったら強くですかと反対に言う。

全くまいったもんだ。それにしても

市内には「マッサージ」と書かれた看板が多いのには驚いた。

日清戦争の結果清国から割譲された台湾を統治するため

設置された台湾総督府は、今日でも中華民国の総統府として使用されている。

この建物は日本で初の正式設計コンペで東京駅等を設計した

辰野金吾の弟子長野宇平治の基本設計が選ばれ、大正8年に完成した。

象徴性を高める為中央塔の高さを60Mに変更、赤レンガ造の建造物としては

日本一背が高いものになった。

台北で台北101の次に高いビル新光摩天大楼。

244Mの高さで新光三越百貨店が入っている。

総統府の前にある公園にいた鳥。日本で見たことがない。

何という鳥ですかネ?(UDKさん分かったらメール下さい。)

そう言えば、台北では一羽もカラスを見なかった。ガイドさんに聞いたら

ゴミの回収システムが日本と違う為、エサがなく都会には

カラスが住んでいないと言っていた。

台北の広い道にはヤシの木並木が多い。この南国の木がひとつ

景観を造っている。このヤシの木は大王椰子という種で

幹は直立して基部は太く、高さは40Mに達する。

葉は大きな羽状複葉で、茎頂にまとってつき、実は小さな球形。

故に大きな椰子の実が落ちて危険な要素が少ないとガイドさんは言っていた。

(高雄 台北の旅)

2014-12-17付ブログでも掲載したが、改めて台北の信号機が

気に成ったので、動画を撮ってみた。大変合理的と同時にコミカルな動きが

イライラを和ませる。青の歩みが赤に近づくと小走りに変わる。

これは日本でも検討する価値があるのでは。

信号機とは全く関係ないが、デジカメで動画あるいは写真を撮ると

画が全部撮れない。どうしてなのか?その理由がわかる読者の方、コメントを下さい。


九份の街散策

2017-05-18 05:00:31 | 旅 ~海外

台北から東へ約45㎞。日本統治時代に金鉱で栄えた街「九份」。

いっときは鉱山の閉山の為全く寂びれてしまったが、今は観光都市として

大変な賑わいの街に変わった。ここは霞海城隍廟横の

展望台から見た基隆港の海。

 これは九份の街の案内図だが、山の急な中腹にある為、

道は狭く急だ。その為下のバスターミナルで乗換えて、皆ここ公車站まで来る。

 ここから九份の商店街メインストリート基山街(チーサンチュ)に入っていく。

九份の街は映画「悲情城市」の舞台となってから

脚光を浴び、観光の街として蘇った。まさに映画に出てきそうな

レトロな雰囲気が漂う街だ。

狭い路地沿いには土産物屋や食堂、芸藝館などが

両脇に連なる。ご覧の様に夕方になると大変な人出で、

肩と肩がぶつかりあう様だ。

 商店街の途中にある台湾名物の芋団子のおしるこ屋さんに入った。

名物に旨いものなし、そんな感じの汁粉だった。

 夕方と夜の「阿妹茶樓」。この建物が日本の観光客、

特に若い女性たちに人気がある。なぜかというと、

宮崎駿監督のジブリアニメ「千と千尋の神隠し」の舞台となった

ということで日本人の定番観光スポットと成った。

なる程、群馬県四万温泉の積善館の湯殿にも良く似ている。

こちらの方がチャイナチックで華やかな感じだ。

基山街と直角に交差し長い石段の中段にあるフォトエリア。

ここの狭い舞場には周辺のレトロな建物を撮ろうと

押し合いへし合い状態だ。軒下の赤い提灯がやけに旅情を誘う。

 阿妹茶樓の壁に掛けられた不気味で巨大なお麺。

千と千尋の神隠しに出てくるキャラクターにちょっと似ている感じがした。

 やはり夕方と夜の豎崎路(スーチールー)。

周囲が暗くなると赤いランタンに灯がともり、坂の街は表情が一変する。

人通りもずっと増え満員電車状態だ。この坂を幾度も往復したが、

その度に何とも言えないアジアの旅愁を感じた。

 坂の途中の柱に雑な看板を発見した。日本でTV放映された日テレ、TBS

フジ、南日本TVの番組名が書かれていた。

 頭上に沢山の赤提灯が飾られたちょっとした広場。

ここには多くの観光客が集い、記念写真に

ロマンチックな街並風景を収めていた。

 


台湾十分で天燈上げ

2017-05-17 04:56:07 | 旅 ~海外

台北市から車で約1時間ほど郊外に位置する町。

そこが十分。ここは願いが叶う台湾の絶景スポットだ。

ここはどこか昭和初期の雰囲気を漂わせている。

ここでは感動的なイベント「天燈(ランタン)」上げが行われている。

ラプンツェルの世界が味わえて、願い事が叶えられちゃうという

ノスタルジックな十分という町に初めは驚いた。

まず天燈に願い事を書く。合計4面書ける。

赤は健康や総合的意味。黄色は金運、藍色は仕事運

紫は勉学、桃色は恋愛運。日本人のグループは字が読めてしまい、

何か日常のリアリティーを感じてしまう。

天燈は1.5m程の気球上のランタンで、下の火種に火をつけて飛ばす。

昼でも夜でもOK。強風以外の日は雨の日でもやっているそうだ。

特に夜の天燈は大変幻想的でウットリしてしまうそうだ。

夜の天燈を是非見たかったナー。

天燈は想像していたよりずっと大きく、天に上がる

スピードも結構速かった。天にいくつもの天燈が昇っていく光景を

見ていると時間が経つのを忘れてしまう、それ程非日常の光景だった。

このカップルの天燈に沢山の願い事が英語で書かれてあった。

いかにも幸せそうな顔をしている彼女。

因みに単色ランタンは100NTドル 4色ランタンは150NTドルだ。

このグループは日本人の人達だ。大きな字で真ん中に

「世界平和」と書かれている。素晴らしい。

そして「2020年に結婚50周年もっともっと生きるぞ」。

善良な老若男女がここに集まっている。

この動画を見れば天燈上げがどんなイベントか

どんな雰囲気かよくわかっていただけると思います。そもそも

この天燈上げは年末年始の時期に増える盗賊から身を避ける為

山に逃げていた村民に家の番をしていた使用人たちが

小正月を過ぎた頃、安全を知らせる為に飛ばしていたと言われている。

街の真ん中に電車が通っている。その両側にお土産屋さんや

食べ物屋さんなどのお店が並んでいる。線路には自由に

立ち入ることができ、電車が通るとかなりスレスレに走る。

この電車は平渓線というローカル線で1時間に1本走っている。

電車が来ると地元の人達が笛を激しく鳴らし、今まで

線路上で天燈上げをしていた観光客を退避させる。

日本では考えられない全くのどかな風景だ。

2枚目の写真の奥に見えるのが「十分車站」。1時間に1本の通過だから、

あとは線路上で自由気儘な行動ができる。

線路の横にじっくり座っていつまでも線路のポイントを撮っている男性。

線路上で様々なポーズを取って写真を撮っているカップル。

線路に寝転んでいる女性もいた。線路上を歩くというのは

変な優越感を感じ、ワクワクドキドキするのもだ。

線路の横には十分のもうひとつの名所

「静安吊橋」がある。観光客はここでも違うスリルを楽しんでいた。

毎年旧正月、平渓天燈祭が行われ、この日は世界中から

何万人という観光客が来て、この世とは思えない幻想的行事に浸るそうだ。

たまにTVで放映されているのを見た人もいると思います。