スミダマンのほのぼの奮戦記

~グルメ・旅・仕事・自然・地域~あらゆる出来事をフラッシュバック。

護王神社

2022-09-30 06:15:32 | 旅 ~京都

護王神社は京都御苑蛤御門前にあり、

この前を幾度も通っていたので、いつかは行きたいと思っていた。

今回その機会が来たが、この日は急にあいにくの豪雨となり

ドシャブリの中を小走りの形だけの訪問となってしまった。

本神社は別格官幣社で現在は神社本庁の別表神社になっている。

和気清麻呂と姉の和気広虫を主祭神とし、その後藤原百川と路豊永を配祀している。

和気氏の創建による高雄山守護寺境内に作られた和気清麻呂を祀った護王善神社に始まる。

正確な創建年代は不詳だ。

この本殿は明治19年建立とまだ新しい。

平成10年(1998年)に造られた和気清麻呂像。

銘字は茶道裏千家前家元千玄室の筆でこれも新しい。

和気清麻呂は奈良時代末期から平安時代初期の貴族で、

桓武天皇に遷都を進言し平安京遷都に貢献した、いわば京都の生みの親だ。

宇佐八幡宮神託事件の際、配流に処せられながらも皇統を守ったとして

孝明天皇はその功績を讃え嘉永4年(1851年)最高位の神階を授けた。

天皇自らが人臣に対して神階を授けたのはこれが初めてのことだ。

明治16年(1886年)明治天皇の勅命により

京都御苑蛤御門付近にあった公家は中院家の邸宅跡に遷都された。

本神社は、いのしし神社の俗称もあり、足腰健康の神社としても有名だ。

和気清麻呂が宇佐へ配布された際、道鏡から送り込まれた刺客に襲われたのを

突如現れた約300頭の猪によって難事を救われたとの伝説による。

そして足腰の健康については清麻呂が刺客に襲われた際、

足に傷を負ったが、猪が去った後に足の傷も癒えた故事に由来している。

それにしてもこの写真を見ればわかるようにこの日の雨は半端な雨ではなかった。

携帯電話に地震警報の嫌な音が鳴ることがあるが、

この雨で京都北部の河川の氾濫警報が鳴ったのには驚いた。

これは初めての体験だった。

明治23年(1890年)から狛犬として狛猪が置かれ

境内には推定で4,000頭ものイノシシのコレクションがあり、

全国からイノシシに因むものが奉納されているとか。

亥年には参拝者が例年より増えるらしい。

また、2枚目の写真の花手水の猪は霊猪手水舎といわれ、

猪の鼻を触ると「足腰が良くなる」「再びここに戻って来れる」

「幸せが訪れる」等のご利益があると言われている。

幅3m高さ2mのこの大きな石は国家「君が代」に歌われているさざれ石。

大小様々な石が集まって頑強な巌になっているように見える。

この激しく降る雨の中、境内をじっくり見ることなどできず、

この写真を撮るのが精いっぱいであった。

この辺りはよく通るので次回は天気の良い時にもう一度じっくりと見に来よう。

 

 


豊国神社と方広寺

2022-09-29 06:17:39 | 旅 ~京都

前々から気になっていた神社とお寺がタクシーの運転手さん曰く

「ハイアットホテルのすぐ近くですヨ」との事で

さっそく早朝散歩で行ってみた。

確かに国立博物館の正門の隣りで目と鼻の先だった。

旧方広寺大仏殿跡地にあるこの豊国神社は京都の人々からは

「ほうこくさん」の名で親しまれているが正式な名称は「とよくにじんしゃ」。

御祭神は「太閤記」で今も広く知られているさきの関白太政大臣贈正一位豊臣秀吉公であります。

豊臣秀吉公は慶長3年(1598年)8月18日、

京都・伏見城で62年の生涯を終え、遺命により京都東山連峰の秀峰「阿弥陀ヶ峯」に埋葬された。

翌慶長4年には山腹の「太閤垣」に日本最初の権現造りで

壮麗にして雄大な社殿の造営がなされ、

後陽成天皇により「豊国大明神」の神号を与えられ神として祀られた。

その社殿は「豊国社」と呼ばれ、境域(境内の広さ)は約30万坪(約100万㎡)にのぼり、

現在神社の宝物殿に蔵する重要文化財「豊国祭礼図屏風」によっても、

当時の規模、祭事の盛大さが容易に想像できる。

神社正面石鳥居をくぐり参道を進むと、前面に威容を誇る大唐門は伏見城の遺構で、

国宝に指定されており、西本願寺・大徳寺の唐門と併せ「国宝の三唐門」と呼ばれている。

唐門正面に高く掲げてある「豊国大明神」の御神号額は後陽成天皇の御宸筆によるもので、

旧豊国社伝来の勅願である。

境内の中程にある手水舎。

看板を見ると宝物館もあり、前述の重要文化財「豊国祭礼図屏風」などが

所蔵されているようだったが早朝のため見ることができなかった。

豊臣家滅亡後この華麗な豊国社は幕府の命により廃社となり、

以後250年の長きにわたり庶民の参拝もままならず、

むなしく草むらに埋もれて跡形もなくなってしまっていた。

その後、明治維新に至り明治元年、明治天皇より再興の御沙汰をいただき、

明治6年には別格官幣社に列せられ、同13年(1880年)旧方広寺大仏殿跡地に

復興されたのが現在の豊国神社である。

秀吉公御馬印の千成ひょうたん絵馬で開運招福、諸願成就の願いにご利益がある。

明朝願い事が叶えられるように御神前に神職がご祈願の上、

御宝前に一年間奉掲されるとのことです。

境内の一角には秀吉の千成ひょうたんに因んでか、ひょうたん畑があり、

立派なひょうたんが実っていた。

今年は寅年のためか、唐門の下にひょうたんを首に下げた立派な虎の像が置いてあった。

また、唐門の両脇には秀吉恩顧の大名が寄進したという石灯籠が並んでいた。

こちらは社務所に並べられていたおみくじやお守りなどのグッズ。

当神社は早朝ということもあってあまり人気を感じない

ちょっと寂しい空気を感じた。

京都刀剣御朱印めぐりと称して栗田神社、藤森神社、建勲神社、

そして当豊国神社の4神社めぐりをやっているようだ。

こんな企画は他の神社でも見たが、今この切り口企画は流行かもしれない。

豊国神社の隣りにはひっそりと方広寺の本堂がある。

この本堂は妙法院の脇寺であった日厳院の客殿を明治初頭に移築したもの。

本尊は盧舎那仏。

通称は「大仏」または「大仏殿」。

この大仏はかつて日本一の高さ、規模を誇っていたが寛政10年(1798年)に落雷で焼失した。

これがかの有名な方広寺鐘銘事件の引き金となった「国家安康」の梵鐘。

慶長19年(1614年)豊臣秀頼が亡き父・秀吉の追善のため造った鐘である。

秀吉追善のためと表向きにはなっているが、

豊臣家の財力の消耗が狙いで徳川家康が秀頼に勧めて造らせたもの。

この鐘の上部には東福寺の僧清韓の書いた銘文が刻まれており、

その銘文の中の「国家安康」と「君臣豊楽」の八文字が徳川家康の怒りをかった。

家康の文字を二分し呪詛をはかり、

豊臣家の幸福を祈念するものだという主張であった。

これをきっかけに状況は悪化し大阪冬の陣へと向かっていった。

なお、この鐘楼の天井画は元々伏見城の女性の化粧室の天井画であった。

ここでも秀吉のシンボルひょうたんの栽培を市民活動団体がしていた。


祇園祭 八坂御輿渡御編

2022-09-28 05:58:38 | イベント

昨年の祇園祭神幸祭は神事だけ行われました。

(2021-8-7付ブログ参照)

この建物は京都を代表するものの1つで、八坂神社の西楼門(重要文化財)。

実際の正門は南楼門だが、あまりにも有名な門なので正門と思われていることが多い。

祇園祭はここ八坂神社(祇園社)の祭礼で、

一般的には山鉾町が主催する行事(山鉾巡行)が祇園祭と認識されることが多いが、

八坂神社主催の神事「神輿渡御」があくまでもメインの日本三大祭、京都三大祭の1つだ。

この時間は午後4時だというのに既に階段のところでは

3年振りの神幸祭を見ようと多勢の人々がその時を待っていた。

祇園祭 八坂御輿渡御編①

そうこうしていたら祇園交差点に東御座御輿を担当している四若神輿会の皆さんが

「ホイット ホイット」の掛け声も勇ましく堂々と正門に向かって行進していった。

こちらは北門のところで神事が始まるのを

今か今かと待っている中御座御輿を担当する三若神輿会の面々の方々。

もう既に熱気を感じる。

3基の御輿が安置されている舞殿の周りには神幸祭の関係者、

一般の人達が取り囲んで3年振りの御輿渡御の神事を待っている。

祭の前の静けさがヒシヒシと伝わってきた。

7月1日の「吉符入」に始まり、7月31日の「疫神社夏越祭」で幕を閉じる。

京都中心部で1ヶ月にわたって開催される祇園祭は基本的には

雨天・荒天でも決行されるが、過去に中止になったことが4回だけあった。

応仁の乱、太平洋戦争、阪急電車の地下工事そして今回のコロナ禍である。

そんな祇園祭1160年の歴史はすごい重みを改めて感じてしまう。

祇園祭 八坂御輿渡御編②

最初に舞殿から担ぎ出されたのが三若神輿会の中御座御輿。

この御輿には八坂神社の主祭神スサノヲノミコトの御霊が乗せられている。

中御座の神輿の屋根の形は六角形で3基とも違うが屋根飾りはともに鳳凰である。

三若の人達は約500名で担当する。

神輿渡御は神様を載せた重要な神事であるため、

当然八坂の神宮は大勢参列して御旅所まで渡御する。

神輿が境内から御旅所へ向かうのが「神幸祭(前祭)」、

御旅所から境内へ戻るのが「還幸祭」で雅なイメージが強い京都の街だが、

2階の神輿渡御は勇壮な行事で京都の意外な一面が見られる。

祇園祭 八坂御輿渡御編③

次に舞殿を出て境内を1周し本殿の前で担ぎ上げるのが東御座御輿。

屋根の形は四角でクシイナダヒメノミコトが祀られている。

この御輿は四若神輿会約450名がご奉仕している。

1枚目の写真から約1時間半が経過。

西楼門前の階段には八坂神社から出てきた3基の神輿を見ようと大変な人混みになっていた。

何せ3年振りの渡御ですから観衆の人達の熱気もすごい。

八坂の神宮の皆さんも東大路通から四条通に向かい、いよいよ御旅所に向かう。

これを見ても山鉾巡行とちがい神事だということがよくわかる。

沿道の大変な人出だ。

祇園祭 八坂御輿渡御編④

いよいよ祇園交差点に中御座御輿が登場。

「ホイット ホイット」の一種独特の掛け声。

そして「上げろ 上げろ」「まわせ まわせ」迫力。

色々書くよりも動画を見てその空気を楽しんでください。

そして三若会の長老。

NHKで放映されたノーナレ「祇園の神さん」の中で紹介されたスナックの大将。

祇園祭がずーっと人生で命と涙ながらに語っていた大将が

この日も元気で参加していたのを発見。

思わずシャッターを押した。

これ正直感動です!

祇園祭 八坂御輿渡御編⑤

続いて登場したのが四若会がご奉仕している東御座神輿。

もうこの頃は祇園交差点は熱気ムンムン最高潮だ。

祇園祭 八坂御輿渡御編⑥

今回この西御座神輿の紹介が少なくなってしまったのが残念だ。

この神輿は形が八角形で重さが約2トンと3基の中で一番重く、

ヤハシラノミコガミが乗っている。

約600名ほどの錦神輿会の人達がご奉仕している。

その中心的人達は錦市場の人々。

幾多の苦難を乗り越えてきた錦市場の人々の結束はものすごく強いと以前TVで報じられていた。

そんな市場気質(かたぎ)があるのか、一番荒々しく勢いを感じて

その迫力に引き込まれてしまった。

やはり祇園祭はこの御輿渡御を見なければ本当の祭の真髄はわからない。

神幸祭の翌日どうしても気になって3基の神輿が納められた「御旅所」まで行ってみた。

八坂神社の御旅所は古くは大政所御旅所と少将井御旅所の2ヶ所があったが、

1591年(天正19年)に豊臣秀吉の命により四条京極1ヶ所に移転した。

1912年(明治45年)四条通り拡幅に伴い現在の姿になった。

この御旅所は普段は京都土産処「Otabi Kyoto おたびきょうと」として使われているということで

神幸祭の7月17日から還幸祭の7月24日の1週間は

八坂神社の神様は御旅所にいて神社にはいなくなる。

 

 


浦和エリア旨い店シリーズ ~番外編389-Ⅱ~

2022-09-27 06:09:01 | 食~番外編(京都)

洋食 おがた

京都市中京区柳馬場押小路上ル等持寺町32-1

TEL 075-223-2230

定休日 火曜日、月1回不定休

https://youshoku-ogata.com/

前回は予約にあんなに苦労したのに今回はあっけないほどすっきりと予約が取れ、

これで縁がさらに太くなったのかと勝手に思いつつ

超人気店で予約困難店の洋食「おがた」さんにふたたび行ってまいりました。

(2022-5-17付ブログ参照)

予約時間が5時半と早めだったためカウンター席は一番乗り。

前回とは逆側の玄関サイドのカウンター席に通された。

奥のテーブル席ではもうすでに食事が始まって賑やかな雰囲気が伝わってきた。

洋食「おがた」さんの調理人は大将を含めて3名。

そのうちの中堅1人が目の前で調理をしていてオープンキッチンの臨場感が

ヒシヒシと伝わってきてスミダマン的には大いに楽しんでしまった。

こういうの超楽しい!

これが本日のおすすめメニュー。

手書きでご覧のようにすごい種類だ。

一通り目を通すだけでも大変で数を勘定してみるとなんと53メニューもある。

このレシピが3人のシェフの頭の中にインプットされていると思うとすごいことだ。

このメニューをよく見ると具体的に食材の産地が書かれている。

あじフライの鯵は焼津の漁師さんと直に契約していると前回聞いたがそれだけではなかった。

「魚は静岡サスエ前田さんより」「馬刺しは熊本古閑牧場より」

「豚肉は鹿児島ふくとめ小牧場さんより」「牛肉は滋賀サカエヤさんより」

「ステーキ牛は京都丹波平井牛より」「京都綾部河北さん賀茂なす」

「岡山吉田牧場さん」など素材に対するこだわりがすごい。

こちらは単品のアラカルトメニュー。

冷前菜は5種、温前菜3種、その日のオムレツとは?

スープ3種、魚2種、本日の魚ピカタは納得、

肉は名物の特性ハンバーグ(100g)2,180円とCPも立派。

他に3種、グラタン・パスタが4種、カレーナポリタン薫堂風2,370円は興味がある。

また、〆のごはんとして2種、オムライスが2,640円だから、

ただの洋食屋さんだと思ったら勘違いしてしまう。

デザートは6種、前回のピーチとすいかのデザートは消えていた。

なお、おまかせディナーコースは事前予約で16,500円だ。

まずはビール。

サントリーのプレミア醸造家の夢というブランド。

これがちょっと普通のビールとは味が違うんだナー。

これは売っている店と売っていない店があるとか。

今度家に帰って調べてみよう。

さぁここから「おがた」さんの料理がスタート。

右側の白い紙はマスク入れだ。

これはお通しでたぶんキャベツマリネ990円。

単なるキャベツ料理だが、インスタ映えしている。

すっぱからずでさすが味のバランス。

メリハリが素晴らしい。

基本的には前回のオーダー品を避けて本日のおすすめから選んだ。

ただし「活アジフライレアに揚げて塩とからし」は、

どうしても忘れられない味だったので今回もオーダーするつもりだったが、

残念ながら品切れということで断念。

そしてメインの熊本菊地牛リブロースステーキをオーダー。

何か肉料理を1品と思って決めたがこれおおごと。

オーナーシェフの緒方さんがやおらカウンターから出て客席近くにある冷蔵庫に赴き、

この立派な肉の塊をスミダマンに見せる。

本日のメニューには全て一切価格が表示されてなく、これは高額なオーダーをしたと覚悟した。

その後、オーナーシェフがこの料理をするのをじっと見ていたが、そのプロセスの丁寧なこと。

これはすごい料理になる。

それがこれだ。

味は簡単に表現ができないほどすごかった。

これにわさびチーズをかけるのも斬新だ。

豆いかとうどの・・・。

これもかなりのものでしたネ。

賀茂なす さっと揚げてからゴマソースかけ。

これは洋食というよりは和食に近い料理だ。

ゴマソースの味が複雑で奥が深い。

今回京都に来て木の芽を使った料理に多く出会ったが、

浦和エリアではもう見かけなくなった時期にさず京都といった感を持った。

桃といちじくの白和え。

これはすごい。

今回の料理の中では1、2を競う逸品だ。

料理というよりは食材からいってデザートに近い感じだ。

活タチウオフリットおろしと木の芽 大根おろし。

もう1つの逸品がこれだ。

おがたさんに来てフリットがこんなにも旨いのか痛感した。

このお皿もなかなか味がありますネー。

紅ズワイガニクリームコロッケ。

クリームコロッケにズワイガニを使うなんてにくいですネ。

とりたて小さい豆イカフライ タルタルソース。

この日は豆イカを使ったレシピを色々試してみる。

緒方シェフの腕のすごさを感じる。

〆にはやはり前回と同じミニカレー(小)にした。

ごはん茶碗でいただくのがとても新鮮。

わずかなスペースに付け合わせが乗っているのもインスタ映えしてお洒落だ。

今回のデザートはキャラメルアイス720円だ。

こちらの後ろ姿がオーナーシェフの緒方大将。

氏は熊本県出身。

熊本ニュースカイホテル、長崎ハウステンボス内ホテルヨーロッパなどを経て、

肉料理で名高い京都ビストロセプトの料理長を6年間務める。

2015年に独立し「洋食おがた」を開店した。

よく技は師の背中から学べと言うが、この後ろ姿は何かを語っているようだ。

前にも書いたが、この若き料理人がスミダマンの真ん前で火を使わない料理を作っていた。

これから4点の料理は他の客がオーダーしたものを盗み撮りしたもの。

たぶんこちらは京都大原伏見山田ファームの無農薬野菜サラダ。

こちらは盛り付け最中の熊本阿蘇あか牛ローストビーフか、

けずりたてカチュカバロのローストビーフ。

この肉を見るだけでも美しい。

これはパテ風に見えるがメニューをさがしてもわからない。

洋食おがたは生産者の想いを詰め込んだ料理で

一人一人のお客様が楽しんでいただける空間づくりをこころがけているとか。

ゴーヤのおひたし。

メニューに具体的な産地、生産者が書いてあるように、

産地に水から足を運んで出会った安心安全な素材に向き合い、

心をこめて料理を仕上げている。

今回の「おがた」さんもワンダフルでした。

 

 

 


ハイアットリージェンシー京都

2022-09-24 06:42:52 | ホテル・旅館

https://www.hyatt.com/

今回の祇園祭の旅の2軒目のホテルは京都東山の

ラグジュアリーホテル「ハイアットリージェンシー京都」を選んだ。

今までのブログ、あるいはこれからのブログを見ればわかると思いますが、

このホテルの周辺は沢山の名所旧跡に囲まれている。

早朝散歩にはもってこいの好立地が選んだ一番の理由です。

いつかこの日のためにと智積院を除けば残していたくらいです。

京都にはこんなロケーションのホテルがまだまだあるのでしょう。

当ホテルは1971年に京都パークホテルとして開業した。

開業時は2階建ての小規模なホテルだったが、1980年に現在の建物に建て替えられた。

しかし、経営不振により2004年12月にモルガン・スタンレーに売却された。

2005年1月から7ヶ月かけて内部が全面的に改装され、

2006年3月15日にハイアットリージェンシー京都としてリニューアルオープンした。

1階のフロント・ロビー・レストランの光景。

かなりゆったりとしたスペースに重厚なソファーが置かれている。

最近オープンしたホテルとはやはりちょっと違う大人の雰囲気がする空間が広がっている。

このフロアーですぐ目に訴えてきたのが細く幾何学的模様に組まれた

様々な紋様の白い化粧材が天井、壁、一部柱に張られている意匠だ。

受けた印象は優しいものだが、とてもインパクトがある内装デザインだ。

その化粧天井・壁のところに一気に空間を引き締める

迫力のある螺旋階段が広々したロビーの中で目を奪う。

なんとも素晴らしい空間デザインだ。

こちらの部屋はコンシェルジュルームだそうだ。

木に囲まれた温かみのある部屋でゆったりとお客と打合せができる部屋となっている。

広々したロビー、エレベーターホールのエリアに置かれた黒い金属製のオブジェ。

何か機械の部品の一部のようなもので、ちょっと異質さを感じてしまった。

こちらはエレベーターの前にデーンと置かれた石壺、花瓶のオバケのようなもの。

これも何か浮いてしまっているように見え、不要なものと思えた。

ホテルの周りは緑がいっぱい。

隣接する三十三間堂を含むこのホテルの一帯は、

平安時代の末期、当時の朝廷の最高権力者だった

後白河法皇の院御所である「法住寺殿」があったところだ。

ここが1階ロビーの多くを仕切った朝食会場のレストラン。

とても開放的で気持ちが良い。

こちらが当ホテルのブレックファーストメニュー。

コンチネンタル3,700円、cafe33ブレックファースト4,500円、和朝食4,500円とちょっと高めだが、

スミダマンは朝食付き1泊のセットなのでいくらかはわからない。

スミダマンはこの方々と同じビュッフェスタイル。

とてもモダンでお洒落な並べ方で朝の食欲をそそった。

サラダ・果物など各ビュッフェ料理。

このレストランでは外国人のウエイターが数名働いていた。

この方はアメリカ・サウスカロライナ出身で、とても愛嬌があってピースマークをしてくれた。

これがスミダマンの朝食。

こちらは相方の和朝食。

標準の客室は旧京都パークホテルの客室3室を2室に改造して30㎡の広さに拡大している。

客室数はスイートルーム4室を含む全189室、

和のしつらえにこだわった機能性の高い快適なゲストルーム。

室内には行燈を配し、低めのベッドに着物柄のヘッドボード、

特徴的なバスルームには天然の御影石を使い、ゆったりとしたバスタブを用意している。

 

 

ハイアットリージェンシー京都は古の歴史と伝統を今に伝える

緑豊かな東山七条の一角に位置していて「コンテンポラリージャパニーズ」をコンセプトに

和の伝統美を国際感覚豊かな現代のテイストでよみがえらせ、

温もりに満ちた空間と京都ならではのおもてなしを提供している。


養源院

2022-09-22 06:42:10 | 旅 ~京都

ここ養源院は豊臣秀吉の側室・淀殿が、父・浅井長政の追善のため、長政の二十一回忌に建立した。

開山は長政の従弟で比叡山の高僧であった成伯法印、

長政の院号を以って寺号としたのは文禄3年(1594年)5月である。

養源院の寺院名は浅井長政公の戒名そのものである。

その後、程なくして火災にあい焼失するも元和7年(1621年)に淀殿の妹で

二代将軍・徳川秀忠公正室、お江により伏見城の遺構を用いて再建される。

以来徳川家の菩提所となり歴代将軍の位碑をまつる寺院となった。

上の門は重要文化財の山門。

下の門は北門で勅使門か?

山門を入ると白衣弁財天堂と毘沙門天堂がある。

2つとも小さい棟だが、なかなか味がある建物だ。

山門から本堂までは長い石畳になっている。

秋の紅葉時期は後に紹介しますが、素晴らしい風情になるようだ。

この本堂(客殿)はお江が再建した時のもの。

平成28年2月に本堂(客殿)、護摩堂、中門、鐘楼堂等が国の重要文化財に指定された。

なお、護摩堂、中門は通常非公開だ。

玄関のところに徳川家の三つ葉葵の紋の幕があるが、

創建した時は豊臣家の桐紋、そして再建した時はご覧の徳川家の葵紋、

また、娘・和子が後水尾天皇の中宮として入門して菊紋と3つの紋が並ぶお寺は

日本ではここだけだそうだ。

ここが本堂の入口。

ここからは一切撮影禁止で皆さんにお伝えしたい光景ができないのが残念です。

当院の案内はどうやら住職の奥さんが1つのグループを束ねて進める完全入れ替え制。

この日も多くの来訪客がいたがテキパキとテンポ良くウィットに富んだ説明をし、

その世界に浸らしていく。

その話術、間の取り方はプロの漫才師のようで聞き入ってしまう。

このオバサン(オバアサン?)は名物女性のようだ。

本堂(客殿)の廊下の上の天井は全て血天井となる。

血天井とは関ヶ原の合戦の前哨戦である伏見城の戦い(1600年)で

豊臣方の軍勢に打ち取られる直前に伏見城内の廊下で自刃した

徳川方の兵士らをお弔いされるもので自刃した兵士らの血で染まった廊下を

寺の天井に上げて残されているものだ。

その時の徳川方の大将であった鳥居元忠公御自害の痕と伝わるものもお弔いされ残されている。

また、本堂(客殿)には俵屋宗達が描いた障壁画がある。

杉戸絵は血天井の英霊をお慰めするために御回向にちなんだ絵を描いたもので「白象」や

「唐獅子」「麒麟」等珍しい動物を描いており、

その表現が奇抜で新鮮さに溢れ、大胆な筆遣いと構図でもって描かれている。

とくにこの白象は有名で2015年琳派400年記念祭のポスターに使われた。

キャッチコピーは「日本に京都があってよかった。」だ。

他にも俵屋宗達の襖絵「岩に老松図」は今にも動き出しそうな躍動感ある

松と抽象的な表現の際立つ岩が宗達独特の技法で描かれており、

素晴らしいもので俵屋宗達の現存する唯一の襖絵となっている。

帰路の青紅葉の参道とその参道が真っ赤に紅葉した敷き紅葉の写真。

この時期機会があったらもう一度訪ねてみたくなるような素敵な写真だ。

この1枚の写真を見ると周辺の位置関係がわかると思います。

右側の朱の建物が三十三間堂。

この道の一番奥に見えるのが南大門そして左側が養源院、その先が法住寺だ。

このエリアは京都の意外に知られていないホットエリアだ。

 

 


後白河法皇陵と法住寺

2022-09-21 06:16:44 | 旅 ~京都

最近では今年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で西田敏行が演じて話題になった

後白河法皇の御陵が三十三間堂裏側、

法住寺と養源院の間のひっそりと奥まったところにある。

正式には後白河天皇法住寺陵。

ここには他に5人の天皇の親王7人も祀られている。

この御陵(みささぎ)へのアプローチの間口は狭く細長い道となっていて

うっかりすると通り過ぎてしまうほど、目立たない。

御陵は昔は法住寺が守護してきた。

明治以降は宮内省(現・宮内庁)の管理する天皇陵となっていて、

土・日・祝日以外は拝所まで入ることができる。

後白河天皇は1127年10月18日(大治2年9月11日)誕生、

崩御は1192年4月26日(建久3年3月13日)65歳で崩御された。

日本の第77代天皇(在位・1155年8月23日~1158年9月5日)で

先代は近衛天皇、次代は二条天皇、平安時代である。

父親は鳥羽天皇で第4皇子として生まれ、異母弟の近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、

譲位後は34年にわたり院政をを行った。

その治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、

二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、

幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。

政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、

振興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、

その後の公武関係の枠組みを構築した。

また、和歌は不得意だったが、今様を愛好して文化的に大きな足跡を残した。

源頼朝曰く「日本一の大天狗」と言わしめ、源平を翻弄する中世最大のトリックスター。

強大な権威と政治力を使い、武士たちと渡り合った型破りな巨星であった。

ここ法住寺は天台宗の寺で、永祚元年(989年)右大臣・藤原為光が、

その夫人と娘・怟子(花山天皇女御)の菩提を弔うため建てた。

当時は北は七条通、南は八条通、東は東山山麗、西は大和大路に及ぶ広大な地域を占めていた。

しかし、のちに火災し荒廃した。

保元3年(1158年)後白河天皇は法住寺の地を院の御所と定められ、上皇となって住まわれた。

その後、当寺の寺域内に蓮華王院(三十三間堂を本堂とする)や長講堂を造営された。

法住寺の本尊は不動明王。

後白河天皇ゆかりの寺である。

境内に入ると広さはあまりないが本堂、山門(竜宮造)は旧御陵の正門、

ミニ枯山水、庭園、阿弥陀堂、鎮守社、福寿観音、十三重石塔などがある。

ちなみに当寺は漫画・サザエさんの作者、長谷川町子の菩提寺でお墓がある。

法住寺正門の道路を隔てて向かい側には、あの有名な蓮華王院三十三間がある。

三十三間堂の南側に南大門(重要文化財)と言われる門がある。

この門は通常の道路として使われている。

単層切妻造の八脚門で桃山時代を代表する大規模な門の遺構で重要文化財であるのに、

タクシーや自動車、自転車など、観光や地元の人の通り道として利用されているのがすごすぎる。


京都国立博物館

2022-09-20 06:06:33 | 建物

https://www.kyohaku.go.jp/jp/

京都国立博物館の南門。

この門は谷口吉生設計で2001年竣工した。

愛称は京博(キョーハク)と呼ばれている。

当博物館は明治30年(1897年)5月に開館した。

現在、明治古都館と平成知新館があり延床面積は25.275㎡。

主に平安時代から江戸時代にかけての京都の文化を中心とした文化財を

収集・保管・展示するとともに、文化財に関する研究、普及活動を行っている。

これが博物館の平面配置図。

この土地は方広寺(京の大仏)旧境内にあたり、

1890年当時は東半が民有地、西半は七条御料地(旧恭明宮)であった。

恭明宮とは明治初年の神仏分離後、それまでの御所の御黒戸に安置されていた仏像や

歴代天皇の位碑を安置していた施設である。

博物館の本館であるこの「明治古都館」は片山東熊の設計で、煉瓦造平屋建て、

フレンチルネサンス様式の建物で明治25年(1892年)6月に着工、

明治28年(1895年)10月に竣工した。

ちなみに設計者の片山東熊は赤坂離宮のほか、

奈良国立博物館本館や、東京国立博物館、表慶館の設計にも携わった宮廷建築家だ。

この建物は昭和44年、重要文化財に指定された。

やはり片山東熊によって設計された表門(正門)も同じ年に重要文化財に指定された。

こちらの一枚目は早朝散歩で撮ったものだが、全く人気が無い中、

単なる門とは見えず、威風堂々とした存在感のある建物だ。

正門と明治古都館を結ぶ軸線上に放置されたロダン作「考える人」の像がある。

同じ像は上野の西洋美術館にもあり、この像はあまりにも有名だ。

この正門の先には京都タワーも見えた。

やはり京都タワーは市内の色々なところから見ることができ、

目印的シンボルになっている。

博物館を取り囲む赤煉瓦造の塀。

このレトロな塀は古都京都の空気に馴染んで素敵な空間を演出している。

こちらは2013年に竣工した平成知新館で常時展示館として利用されている。

この建物は谷口吉生の設計で2009年1月着工、2013年8月に竣工した。

ちなみに谷口吉生の作品は葛西臨海水族園、ニューヨーク近代美術館新館、

法隆寺宝物館、土門拳記念館、鈴木大拙館などがある。

平成知新館は地下1F~3F建てで、B1Fは講堂(シアター)、

1階は特別展示室、そして書跡、染織、金工、漆工、彫刻の展示、

2階は絵巻肖像画、仏画、水墨画などの絵画の展示、

3階は考古、陶磁関係の展示を行っている。

館内は写真撮影禁止のため残念ながらご紹介できません。

館内共用部のディテールが光の陰と陽もあって美しい。

直線が基調の内部空間は京の町屋をコンセプトに取り入れたものだそうだ。

特に建物に入って左側は陽光が降り注ぐ吹き抜けのロビー。

上階からはレンガ造りの明治古都館のほか、

周辺の緑や遠方には京都の街並みまで見渡すことができる。

館内1階にはショップもある。

こちらは南側に隣接したインフォメーションとミュージアムショップ。

谷口吉生の設計で全面ガラス張りのモダンな空間が

博物館のお洒落さを引き立たせているようだ。

広い博物館の庭に立っていた今後の2つの企画展案内看板も存在感がある。

当博物館は2020年3月31日時点で国宝29件、重要文化財200件を含む収蔵品の総数は8,130件。

これとは別に国宝88件、重要文化財615件を含む総数6,520件の寄託品を収蔵している。

2019年度の平常展の展示替え件数は1,140件、展示総件数は1,147件。

周年度の来館者は約38万人で常時展示来場者は約16万人だった。


妙法院門跡

2022-09-16 06:15:18 | 旅 ~京都

妙法院門跡の全景模型。

この模型は隣りのフォーシーズンズホテルにありました。

その訳は後ほど説明いたします。

当院は昨日アップした智積院の隣りにあり創建は平安時代初期。

天台宗の寺院で山号は南叡山。

本尊は普賢菩提。

開山は最澄と伝わっています。

皇族・貴族の子弟が歴代住持となる別格の寺院を指して「門跡」と称するが、

妙法院は青蓮院、三千院(梶井門跡)とともに「天台三門跡」と並び称されてきた名門寺院であります。

また、後白河法皇や豊臣秀吉ゆかりの寺院として知られ、

近世には方広寺(京の大仏)や蓮華王院(三十三間堂)を管理下に置き、

三十三間堂は近代以降も妙法院所管の仏堂となっています。

当院の唐門と通用門。

伽藍は西側を正門とし、東大路通りに面して唐門と通用門がある。

境内は西側正面に国宝の庫裏、右手に宸殿が建ち、本堂はその南側に建っている。

当院は秋季など、特別公開の時を除いて一般には公開されていない。

当院には「ポルトガル国印度副王信書」(国宝)など多数の文化財も所蔵しているが、

いまいちその名が知られていない。

近世初期建立の豪荘な庫裏(国宝)は令和2年11月から令和の大保存修理工事が始まり、

令和8年12月末に完成予定の大工事中であった。

この有名な庫裏は豊臣秀吉の亡父母や先祖の菩提を弔うため、

当時の日本仏教の八宗(天台宗、真言宗、律宗、禅宗、浄土宗、日蓮宗、時宗、一向宗)の

僧を集めた「千僧供養」を大仏経堂で行った。

この大仏経堂は妙法院に属し、千僧供養に出仕する千人もの僧の食事を

準備した台所が現存する庫裏だとされている。

また、妙法院は幕末には三条実美や尊皇攘夷派の公卿7人が

京都から追放された七卿落ちの舞台となっている。

この庫裏は桃山時代の建物で桁行21.8メートル、梁間23.7メートル、

入母屋造り・妻入・玄関一間・唐破風本瓦葺造となっている。

内部は天井がなく小屋根を現した壮大な空間が広がります。

手前に土間、奥に板間、北側の土間にはカマドが設けられている。

北側には煙出しを設け、正面性を重視した非常に意匠の優れた建築物です。

国宝庫裏の半解体修理工事の工事施工写真。

この解体修理は大正7年以来、約100年振りの大工事となっている。

解体現場のすぐそばから写真を撮らせてもらったが、

その大きさにすごい迫力を感じたとともに、その歴史の重みも感じるものがあった。

大棟の鬼瓦には慶長9年の銘が見られる等、

数々の謎の究明や新たな発見が期待されているとの事。

この蘇鉄は明治期、東海日泰寺造営の協賛お礼として献納されたもの。

維新以来、沈滞の続く仏教界の鼓舞振興策としてタイ(旧称シャム)より

日本への仏舎利の分骨奉載を運動。

これをうけて仏教界は日本菩提会を結成。

その初代会長に当院の門主がついた。

その一連の落慶行事の象徴としてこの蘇鉄が植樹された。

妙法院門跡の境内風景。

玄関は重要文化財。

奥には土蔵収蔵庫が見える。

右奥に見えるのが妙法院。

そして手前の建物がフォーシーズンズホテル京都(2020-11-28付ブログ参照)。

2016年10月オープン。

昭和29年(1954年)に境内の一部であった庭園

「積翠園」(平重盛の別邸「小松殿」の庭園)が日本専売公社に買い取られた。

その後、京都専売病院になり、平成17年(2005年)からは東山武田病院になり、

そして平成28年(2016年)からはフォーシーズンズホテル京都になったというのが今日までの推移である。

 

 

 

このように妙法院門跡はあまり世の中に知られていないが三十三間堂の本坊であり、

後白河法皇を15代と仰ぎ、豊臣秀吉ともゆかりが深い寺院で、

しかも京都の1、2位を競うラグジュアリーホテルのフォーシーズンズホテルとも

深い関りがある寺院だということが行ってみて改めてわかった。

ここだけを見ても京都の時の重み、

一つの地に時代が重層化していくすごさを感じないわけにはいかなかった。

 

 

 


真言宗智山派総本山 智積院-Ⅱ

2022-09-15 06:10:47 | 旅 ~京都

2021-7-31付ブログ参照

智積院には昨年、閉門時間間近という中途半端な時に来たが、

今回最後に宿泊したホテルハイアットリージェンシー京都(後日、紹介します)の

すぐ近くだったので再度行ってみました。

智積院の宗団は成田山新勝寺、川崎大師平間寺、高尾山薬王寺の大本山を始め、

東京都の高幡山金剛寺、名古屋市の大須賀観音寶生院を別格本山として

全国に3,000余りの寺院教会を擁し、総本山智積院は全国約30万人にのぼる

檀信徒の信仰のよりどころとして総菩提所・総祈願所と位置付けられている。

智積院は真言宗智山派の総本山。

もとは文禄元年(1592年)に豊臣秀吉が愛児鶴松のために創建した祥雲寺があったところで、

慶長5年(1600年)に玄宥僧正が家康から寺地をもらい受けて建立した。

境内にある案内表示。

金堂、明王殿、梅林園、あじさい園はここから右エリア。

左には宝物館、講堂、名勝庭園がある。

昨年も祇園祭の時期に来たのでブログに桔梗の花をアップしたが、

今年も金堂に向かう参道の両脇をたくさんの桔梗の花が彩っていて思わずシャッターを押してしまう。

ちなみに智積院の寺紋は桔梗だ。

こちらはハスの花が咲く池。

寺院にはハスの花がよく似合う。

昨年来た時はこの金堂は大規模改修の工事中であったが、すでに工事は完了し、

すっかりきれいに生まれ変わっていた。

もともとあった金堂は元禄14年(1701年)に第10世専戒僧正が発願、

宝永2年(1705年)に建立されたものでしたが、明治15年(1882年)火災により焼失。

現在の金堂は弘法大師の誕生1200年の記念事業として昭和50年(1975年)に完成。

堂内には昭和の祈りを込めた本尊大日如来が安置されている。

この明王殿は昭和22年(1947年)の火災により仮本堂であった方丈殿が焼失した際に、

明治15年に焼失した本堂の再建のため、京都四条寺町にある浄土宗の名刹

大雲院の本堂の譲渡を受け、現在の講堂である場所に移築した建物です。

その後、平成4年(1992年)に講堂再建にともなって現在の場所に移築された。

ご本尊は不動明王様で明王堂は不動堂とも呼ばれている。

各種研修の道場と使用している講堂ではブルガリの展示場として貸し出されていた。

この前はルイヴィトンの展示をやっていたとか。

お寺と有名ブランドとはかけ離れた存在に思えてしまうが、当院に限らず、

このようなコラボのアイディア・企画が最近進められているような気がする。

今、神社仏閣ではこのような発想が生きていくのに重要なことかもしれない。

前回入館できなかった宝物館には日本の障壁画の代表作として知られている国宝の

長谷川等伯「楓図」、長谷川久蔵「桜図」をはじめ数々の名作が収められているが

残念ながら一切撮影禁止でご紹介できません。

境内内の智積院の風景。