スミダマンのほのぼの奮戦記

~グルメ・旅・仕事・自然・地域~あらゆる出来事をフラッシュバック。

浦和エリア旨い店シリーズ ~番外編399~

2022-07-30 05:39:21 | 食~番外編(京都)

祇園 権兵衛

京都市東山区祇園町北側254

TEL 075-561-3350

定休日 木曜日

祇園権兵衛は祇園四条通りから切り通しを北に少し入ると左側にある。

またCMや映画撮影などでよく使われる祇園白川の巽橋(たつみばし)へと真っすぐ続く。

大きな赤い提灯にもあるように当店は、そば・うどん・丼ものが有名。

当店の歴史は古く(京都の中ではそう言わないかもしれない)

1927年オープン、95年の歴史を誇っている。

店の造りも町屋造りで京都らしさを楽しめる古風な佇まいだ。

当店は戦前の雰囲気がまだ残っていて、

南座の役者さん、舞妓芸妓さんの間でも長い間親しまれている。

席は3タイプでテーブル9席、小上り席58席、座敷席18席もある。

メニューを見ると京都らしいものが並んでいる。

けいらん、志っぽく、のっぺ、鳥、親子、鴨、南蛮もなんばの名称。

あなごそばも珍しい。

丼ものではなんといっても、はも丼。

それに木のは丼とはどんな丼ぶりだろう。

お値段のことを舌代と表現。

ざるそばが1,100円と結構高めのCPだ。

スミダマンは日本一旨いと言われている親子丼(1,700円)を迷わず注文。

卵がふわっふわのとろっとろなんです。

それがぷりぷりの鶏肉と絡み合って極上のハーモニーを奏でている。

出汁の旨味もしっかりしていて美味しい。

日本一と言われるのがわかるような気がした絶品でした。

相方はやはり京都人が大好物というけいらん(1,100円)を注文。

けいらんは京都人のソウルフードと言われ、関東で言う玉子とじうどん。

大女将曰く「玉子があんの中に散るさまが湯葉のように見えると腕がいいって言われるのよ。」

また、「やわらかい京都のうどんは出汁があってのもの。

出汁に絡みやすい舌触りを考えます。」と店主は言う。

お出汁にひたる白身の淡味、これがわかるようになったら京都通と言われている。

権兵衛さんに到着した時は運よく並ばずに入れたが、

1時間後の権兵衛さんはご覧のようなウエイティング状態。

この時間は13:47ですから、いかに人気店かわかる。


河井寛次郎記念館

2022-07-29 06:11:22 | 建物

土と炎の詩人、その作品、陶房、登窯、コレクションを公開している河井寛次郎記念館。

昭和48年(1973年)2月1日にオープンした。

http://www.kanjiro.jp/

偉大な陶芸家・河井寛次郎は明治23年(1890)8月24日、島根県の安来市に生まれる。

東京高等工業高校(現・東京工大)窯業科を卒業、

京都市立陶磁器試験所に入所、研究制作に励む。

大正9年、30歳の時に現住所に住居窯を設ける。

大正15年、36歳の時に柳宗悦・浜田庄司らとともに日本民芸美術館を設立。

昭和11年、46歳で東京駒場に「日本民芸館」を開館する。

昭和41年、76歳で没。

この家(記念館)は寛次郎が日本各地の民家(主に飛騨高山)を参考にしつつ、

独自の構想のもとに設計し昭和12年(1937)に建築されたものです。

玄関を入って細長い廊下を進むと受付に出る。

そこに広がるロビー的空間には寛次郎自らがデザインした円形椅子、

木製ベンチ(断面が三角で朝鮮の炒事台をヒントに)、竹製家具、

柱時計(昭和12年新築時に柳宗悦氏寄贈)、箱階段(昭和12年新築時に浜田庄司氏寄贈)

などが飾られ置かれている。

なお、床は朝鮮張に擬したものです。

受付のある隣には存在感のある大型家具的なものが鎮座している。

これは寛次郎が製作した「自在鈎」だ。

飾られた〆縄もすごく立派。

暑い中ここまでテクテク歩いて正直ものすごく疲れたので窓際の椅子に座ったら

一見すると猫のオブジェが置いてあると勘違いするほど全く動かない太った猫が寝ていた。

他のお客もそう思ったのか触れると動いたのでビックリしていた。

受付のところには河井寛次郎の作品の絵葉書や書籍が沢山売られていた。

特に写真の作品を見ていくと寛次郎の作風がなんとなくわかってくるような気がする。

ロビー的なところの次に和室2部屋に行く。

この建物が新築された際、古い家具の柱を利用し、寛次郎自らが彫ったこま犬。

黒田辰秋作の飾り棚、寛次郎自筆の翻とデザインした額などが飾られている。

母屋から出るとゆったりとした中庭に出る。

中庭の向かい側には陳列室、茶室がある。

敷かれているすのこを渡っていくと素焼窯、釉掛けや絵付けを主にする釉壺コーナーなどを通る。

この中庭を過ぎると作品が展示されている休憩室になる。

向かい側には陶房がありここでも一部作品が展示されていた。

河井寛次郎は、その生涯を通じていつも子供のように感動する心を失わず、

ありとあらゆる物と事の中から喜びを見出し、

そして何よりも人と人生をこよなく愛し大切にした人であります。

この京都の街の真ん中にデーンと構えた登り窯。

この窯は昔に築かれたものを寛次郎が譲り受け、鐘徯窯と名付けていた。

火は二昼夜にわたって前の室から後ろの室へと燃やされ、

このために約2000束の松の割木を必要とした。

寛次郎は主に窯の前から2番目の室を使用し、作品のほとんどがここから生み出された。

ここは陶房内にある「けろくろ」。

足で蹴ってまわすろくろだ。

休憩室の前の作品展示コーナーに展示されていた作品でスミダマン的に目に留まったもの。

寛次郎作品は3つの作風の変遷が見られる。

中国や朝鮮の陶磁器に倣った初期、民藝運動と連動した「用の美」の中期、

そして戦後の自由な表現がみられる後期だ。

この縄ののれんをくぐると廊下状の陳列室に出る。

この縄のれん辺りのしつらえがとても京風でいいです。

河井寛次郎の作品です。

寛次郎のスケッチと作品の数々。

ここでご覧いただくものの中には作陶をはじめとした木彫。

文章を通じて激しい表現をしたものが数多くある反面、

建築・調度品・蒐集品の中には日々の生活に素を尊んだ寛次郎の静かな精神を見ることができる。

この記念館はそんな寛次郎であったことを皆さんに知っていただくとともに、

ここが作品を創作した場所であるだけでなく、高く、深く、人間を讃えつつ

生活をした場所であることを観ていただくために開館したとのことです。

寛次郎の数々の遺品も展示している。

それをじーっと見ているとそれぞれが今でも生々しく生きているようにも見えてくる。

2階の吹き抜けから見た1階ロビーエリアの光景。

この建物は純日本式の木造で材木も太い無垢材を使っており重厚感があって素晴らしい建物だ。

2階の2つの居間と上段の間。

特に1枚目の写真の和室は一段高くなっていて素晴らしい気を感じる。

吹き抜け横の板の間の部屋で寛次郎がデザインしたという椅子にしばし座り、

開け放たれた窓から本当に心地の良い肌に優しい風にあたり

しばし夢心地の世界に浸りきってしまった。

あーなんて気持ちがイイんだろう。

こんな気分、久し振りに味わえた。

河井寛次郎展のポスター。

おかげさまで何かの美、何かの感動、何かの驚き、何かのやすらぎを

覚えることができありがとうございました。

 

 


六波羅密寺

2022-07-28 06:00:39 | 旅 ~京都

六波羅密寺の周辺一帯は中世から近世にわたって武士が大いに活躍した舞台であった。

平安後期から鎌倉初期、貴族政治から武家政治への転換という

激動の時代を担った平家の棟梁、平清盛の泉殿をはじめ、

5千を超える平家一門の邸館が軒を連ねた六波羅第や鎌倉幕府が、

朝延の監視と市中取締り組織の六波羅探題を置いたところである。

当寺の境内に清盛の塚や、六波羅探題がこの地にあったことを記す碑が残っている。

日本最古の都七福神ノ一と福寿弁財天が祀られているお堂と

御拝観、御参拝の受付を兼ねたお土産ショップ。

両方の建物ともまだ真新しい。

ところで六波羅蜜寺と平家との関係に戻ると、清盛の祖父・平正盛から始まる。

天永元年(1110年)、この地に邸宅を構えた正盛は、

自ら常光院という寺を建立し、六波羅蜜寺で一切経の供養をしている。

その子の忠盛は、この地に軍勢を駐留させて軍事拠点とし、

白河上皇、鳥羽上皇の信を得て、越前国や播磨国の国守を歴任。

九州神崎荘では日栄貿易を行い、内裏への昇殿を許された。

これは平清盛公の塚。

そして清盛は武力と経済力を背景に武家として初めて太政大臣となり、

「平家にあらずんば人にあらず」と言われるほど絶大な権勢を誇り、政権の実権を握ったのである。

しかし清盛は養和元年(1181)に高熱を発して亡くなり、

寿永2年(1183)平家一族が西海へ落ち延びる際に六波羅蜜寺は兵火を受け、

本堂を残し諸堂ことごとく類焼した。

一願石。

願いをこめて金文字から手前に3回まわして下さいと書かれている。

六波羅蜜寺はその後も、繰り返し起こった火災や自然災害、動乱の渦中にあったが、

源頼朝や北条泰時らによって再興修復された。

特に室町幕府第二代将軍・足利義詮は、貞治2年(1363)に本堂大修営の勧進元となり、

駿河・遠江の守護大名今川範国をはじめ、

当時の名だたる武将がこぞって寄進したことが奉加状に記されているほか、

貧しい庶民の喜捨も多かったと伝わる。

安土桃山時代の天正17年(1589)には

豊臣秀吉が本堂を補修して現在の向拝を付設し、寺領70石を安堵した。

江戸時代に至っても代々の将軍から朱印状を授けられ、

諸街道の整備が全国的に進んだことから、この地はさらに多くの人々で賑わうようになった。

明治5年(1872)政府が一連の神仏分離(判然)令を発出し、神仏習合を禁じた結果、

当寺の敷地は上地等で激減し存亡の危機に陥るが、

歴代住職と信仰の方々の尽力で厳しい状況を潜り抜け、

多くの貴重な文化財が現在に引き継がれた。

現在の本堂は大修営から約660年を経過するが、

昭和40年から4年にわたる解体修理が行われた際に、創建当時のものと推定される梵字、

三鈷杵、独鈷杵の模様が刻まれた軒丸瓦や軒平瓦をはじめ、

今昔物語集や山槐記などに記載されている泥塔が約八千基も出向した。

歴史に名高い応仁の乱をはじめ、

度重なる争乱屋天災によって多くの名刹が失われた京都にあって、

六波羅蜜寺の本堂は創建当時の建築様式を現代に引き継いだ貴重な寺院建造物であり、

重要文化財に指定されている。

なお、平安時代作の本尊、十一面観世音菩薩立像は国宝だ。

本堂の裏には令和館と称する宝物館がある。

ここの文化財は入館してみてビックリ。

よく歴史の教科書に載っている像があった。

しかし撮影禁止のため、空也上人立像の資料写真だけアップします。

木造空也上人立像。

鎌倉時代の運慶の四男、康勝の作品で重要文化財。

疫病が蔓延していた京の街中を空也が鉦(かね)を鳴らし、

念仏を唱えながら悪疫退職を祈りつつ歩くさまを迫真の描写力で表現している。

空也の口からは6体の阿弥陀仏の小像が吐き出されている。

6体の阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏」の6字を象徴し、

念仏を唱えるさまを視覚的に表現している。

それ以外に空也上人像の隣りに平清盛とされる経を持った僧形の像もあった。

六波羅蜜寺の近く六道の辻近くにある幽霊子育飴本館。

この飴の由来は慶長4年(1599)女性が亡くなり埋葬され、

数日後にその土の中から子供の泣き声が聞こえてきたので掘り返すと、

亡くなった女性が産んだ子どもであった。

ちょうどその頃、毎夜飴を買いに来る女性がいたが、

子どもが墓から助けられたあとは買いに来なくなったので

この飴は「幽霊子育飴」と呼ばれるようになった。


恵美須神社

2022-07-27 06:06:59 | 旅 ~京都

恵美須神社(ゑびす神社)は事代主神(ことしろぬしのかみ)、

少彦名神(すくなひこなのかみ)、大国主神(おおくにのかみ)を祀っている。

社伝によれば建久2年(1191)、栄西禅師が栄(中国)よりの帰途、船が暴風雨に遭い、

遭難しそうになったが、海上に恵美須神が現れ、その加護により難を免れたといわれ、

建仁年(1202)建仁寺創建にあたり境内に恵美須神社を祀り、

建仁寺の鎮守社としたのが当社の起こりである。

応仁の乱後、建仁寺再建の際も同所に再建され、

今なお当地の産土神として人々の崇敬を受けている。

この財布塚・名刺塚は古くなった財布や名刺の供養のため築かれたものだ。

財布塚は松下幸之助氏、名刺塚は吉村孫三郎氏が寄贈したようだ。

境内を進むとさらにもう1つ鳥居がある。

この鳥居の上部にはゑびすさんの顔が付いた網のカゴが取り付けられている。

このカゴにお賽銭が入ると縁起が良いとされている。

何度かやってみたがこれがなかなかうまくいかない。

恵美須神社は西宮神社、今宮戎神社と並んで日本三大えびすと称されていて、

地元では「えべっさん」の名で親しまれている。

本殿にお参りする時は本殿脇にある木の枠内を優しくえびす様の肩をたたくお詣りをするとか。

えびす様は耳が遠いのでお詣りに来たことを知らせるためにやるらしい。

また、えびす信仰における笹(福笹)は京都ゑびす神社独自の御礼の形態で広まったものだとされ、

「節目正しく真直に伸び」「弾力があり折れない」「葉が落ちず常に青々と繁る」といった特徴から

当神社は家運隆盛、商売繫盛、旅行安全の特徴とされ、ご利益があるといわれている。

境内には他に渡会春彦を祭神とした白太夫社、在原業平を祭神とした岩本社、

八幡神を祭神とした八幡神社、猿田彦大神を祭神とした猿田彦神社などもある。

これは当神社の立派な裏門。

なお、毎年1月10日を中心として前後5日間行われる「十日ゑびす」の大祭には

全国各地から商売繁盛、家運隆盛、交通安全を祈願するため多くの人が参詣する。


2022祇園祭速報ダイジェスト

2022-07-26 06:24:39 | イベント

先日ブログで予告した通り新型コロナで2年連続中止、

そして3年振りに復活した祇園祭に行ってきたダイジェスト版を

速報としてアップしてみました。

詳しくは後日(予定日は未定)、宵山編、山鉾巡行編、神輿渡御編としてアップいたします。

乞うご期待!!

7月15日(金)午前10時50分頃、京都駅に到着。

この日は祇園祭宵々山の日。

駅にはこのような祇園祭の案内が何ヶ所かにあり、今からなんとなくソワソワ!

もっと言えばワクワク・ドキドキしてくる。

何せ祇園祭1100年の歴史で2年間中止になって3年振りの待ちに待った日が来たからだ。

祇園祭は8年前から以前の形に戻して山鉾巡行は7月17日の前祭(さきまつり)と

7月24日の後祭(あとまつり)の2回に分けて行われるようになった。

街角にはご覧のポスターが張り巡らされていた。

この地図には23基の山鉾の位置が記されている。

宵山の早朝の霰天神山がある新町通り錦小路通りのエリア。

15日16日は夕方から23:00頃まで歩行者天国の交通規制がかかる。

この車両通行禁止表示は宵々山の流れ(中京警察署)。

こちらは早朝の放下鉾。

この鉾はくじ取らずと言って巡行順番は7番目(鉾として)と決まっている。

なお、前祭の鉾は9基ある。

こちらはメインストリート四条通りにある月鉾エリア。

保存会によってこのように歩道に提灯ゲートが作られ、祭りの雰囲気を盛り上げている。

この四条通りには鉾が3基、傘鉾が1基、舁山が1基ある。

室町通りに面してある菊水鉾。

鉾と建物を結んでいる出入の橋の先は町会所があり、

この場で祇園囃子の練習が行われている。

祇園祭には長い歴史の中で生まれてきた独特の素晴らしさ、すごさがあるが、

その1つにこの山鉾を飾る懸装品がある。

この部分は胴掛といって一種の芸術、美術品で覆われる。

まさに動く美術館といわれる所以だ。

こちらは「占出山」の町会所。

祇園祭の準備や人形、その他の飾りの準備は町家と呼ばれる各山鉾のこのような町会所で賄われる。

そして祇園祭では町会所で御神体とそれぞれの秘蔵の宝が披露されているので

ここに立ち寄るととても楽しめる。

2015年1月から2017年5月までの不定期に放送されたNHK・BSプレミアムの

テレビドラマ・ドキュメンタリー番組シリーズ「京都人の密かな愉しみ」の中でも出てきた

棒振り囃子で有名な綾傘鉾。

1ヶ月間続く祇園祭の初日7月1日に行われる「吉符入り」が行われた大原神社の光景。

ここは「芦刈山」のエリア。

各会所では粽(ちまき)をはじめ、手拭、パンフレット、扇、大うちわなど

各山鉾の特徴あるグッズ、品物などを売っている。

今年196年振りに巡行(後祭)に復帰する「鷹山」のグループを発見。

後日、今年注目の鷹山のお囃子を紹介する予定です。

放下鉾のテント、道路周辺も宵山の午後(15:00)になると人の賑いが増えてきて祭の活気が出てきた。

こちらは山鉾巡行の最終通りになる新町通り。

道の両サイドに京都らしい、祇園らしい、番傘付提灯が並び、本当に良い感じだ。

人もだいぶ出てきた。

いよいよ夜8:30頃になり宵山の人出も最高潮に達してきた。

烏丸通りの風景と四条通りの提灯に明かりが灯った最も祇園祭宵山らしい1枚だ。

そして菊水鉾と霰天神山、山伏山、占出山が見渡せる室町通り、蛸薬師通りの交差点。

まさに祇園祭宵山の空気を精一杯感じられる場所・時間だ。

いよいよ山鉾巡行の朝(7月17日(日)午前9:06)を迎えた。

心配したお天気もOK。

この鉾は新町通りに設置されている放下鉾だ。

観覧席が設けられた御池通りには外国人の方もチラホラ見かけられ、

やっと国際観光都市京都の顔が戻ってきた感じだ。

山鉾巡行の辻回しが行われる御池通り河原町通りの交差点

(ホテルオークラ、京都市役所のあるところ)も

警察の交通規制が始まってきた(AM9:30)。

こちらが広い御池通りの両サイドに設けられた有料観覧席の風景。

このチケットも3年振りの祇園祭ということもあって数分でネット販売は売り切れてしまった。

 

 

午前11:00いよいよ先頭を行く「長刀鉾」が来た。

古来より長刀鉾はくじ取らずで巡行の先頭を行き、

唯一生稚児(いきちご)を乗せ、2人の禿(かむろ)を従えている。

ご利益は厄除け、疫病除け。

動画で是非コンコンチキチン・コンチキチンの祇園囃子の雰囲気を味わって下さい。

3番目が丹後守平井保昌と和泉式部の恋物語を題材とする「保昌山」。

この巡行の順番は籤取り式といって7月2日、京都市役所で各山鉾町の代表者らが

クジを引き当日の順番を決めるのが習わしとなっている。

なにやら見ているとスミダマンの席の向こうで山鉾が来る度に何か差し入れ物が渡されている。

これも何かの慣習なのか。

13番目の「鶏鉾(にわとりぼこ)」だ。

最初の長刀鉾が通過してからちょうど1時間。

続けてくる場合もあれば途中かなり間合いが開くこともある。

総じて優雅でのんびりした空気が流れていた。

スミダマンの席は前から4番目。

しかし1時間以上も経つと直射日光もあたりとても暑く、帰る人もだいぶ出てきた。

おかげで1番前の席へ移ると祭全体の感じがわかる写真が撮れた。

23番目の「船鉾」は、くじ取らずで巡行時、前祭のしんがり(最後尾)で

巡行する慣習になっている。

今年は長刀鉾からスタートしてこの船鉾まで2時間半かかっていた。

山鉾巡行が無事終わった翌日、早朝散歩に出ると朝6:30というのに

もう各鉾、山の解体作業が始まっていたのには段取りの良さに多少驚いた。

後日、聞いたところによると、山鉾の中には巡行で怨霊が集まり一時でも早く

払うため山鉾の解体を早くするとのこと。

と同時に後祭の「八幡山」の山建て準備が始まっていたのにも2重でビックリ。

 

 

とりあえず祇園祭前祭の宵々山、宵山から山鉾巡行まで、

そして翌日の解体作業の裏風景とあわせて後祭の準備風景まで

4日間の祇園祭ダイジェスト版を速報でアップしました。

詳しくは後日また紹介したいと思いますのでよろしく。

 

 


六道珍皇寺

2022-07-25 06:06:11 | 旅 ~京都

六道珍皇寺は大椿山と号し、臨済宗建仁寺派に属する。

創建は平安時代に遡り、かつては真言宗東寺に属していた。

中世期に兵禍によって荒廃したため、建仁寺僧渓良聡により南北朝時代に建仁寺所属となり

その再興がはかられ現在に至っている。

寺域は古来からの葬送の地「鳥辺野(とりのべ)」の麓で入口付近に当たることから

冥界との境界「六道の辻」と称され、お盆に帰る精霊は必ずここを通るともされた。

「六道」とは仏教でいう一切の衆生が生前の業因によって赴くとされる「地獄」「餓鬼」

「畜生」「修羅」「人間」「天上」の六種の迷界をいう。

4月29日(金祝)~5月5日(木祝)のゴールデンウィークに「薫風寺宝展」という特別展をやっていたようだ。

数知れぬほどある京都の神社仏閣では絶えずこの種の展覧会が実施されており、

ここを巡るのも京都を知る醍醐味であるが、旅人にはちょっと時間的に厳しいテーマだ。

本堂の前には六道の辻の碑がある。

本尊は平安時代前期の薬師如来座像(重文)だ。

平安時代初期の公郷・文人であった小野篁の居宅はここにあった。

篁は文武両道に優れた人物であったが、不羇な性格で「野狂」ともいわれ

奇行が多く、なぜか閻魔王宮の役人ともいわれ、昼は朝庭に出仕し、

夜は閻魔庁につとめていたという奇怪な伝説がある。

本堂の前には「魔王宮の臣 小野篁卿旧跡」と「あの世への入口 六道の辻」の提灯が

下っており他のお寺とは全く違う異様な空気感のある提灯に見えてしまう。

この鐘楼では毎年、お盆ごとに御先祖様の精霊を迎えるため8月7日から10日の4日間は

「六道参り」の行事が行われ、大勢の参詣者が冥土にも響くという梵鐘(迎え鐘)を撞き、

亡者をこの世に呼び寄せる。

四方を白壁で囲い外からは鐘が見えないようにできており、

正面中央にしつらえた小さな穴から出ている網を手前に引いて撞くようになっている。

なお「送り鐘」は中京区の矢田寺にある。

この閻魔堂(篁堂)には弘法大師、冥官伝説をもつ小野篁立像と木造閻魔王坐像が祀られている。

この写真ちょっと気になるのが早朝7時ごろお堂の格子口から撮ったもので

小野篁の頭が切れて撮れてしまったのが縁起でもない思いがする。

三界萬霊十万至聖の石塔姿と水子地蔵尊。

本堂背後の庭にある小野篁が冥界への往路に利用したと伝えられる「冥土通りの井戸」と

2011年(平成23年)に隣地民有地(内境内地)から発見された篁が

冥土より帰路に使ったと伝わる「黄泉がえりの井戸」。

この井戸は有名であるため多くの文学作品に登場している。

ホテルを出て八坂通から路地に入ったところにある北門。

早朝のため門は閉じられているため入れず。

境内にあった強烈な「飲酒運転禁止」のポスター。

「酒の臭いがしておる 嘘つくな!」。

そういえば今年4月から道路交通法が改正され、

朝夕企業ではアルコールチェックが義務付けられるようになった。

 


安井金比羅宮

2022-07-23 06:44:49 | 旅 ~京都

この東鳥居は東大路通りに面してある。

当神社は通称縁切り神社として知る人ぞ知る神社で、

今まで何度も前を通っていたが、

とても気になっていただけに早朝散歩で来ることができて

やっと来られたかという思いが強くある。

京都には一大世界的観光地だけに、このような案内地図がいたる所にある。

しかもこの看板は英語だけだが、中国語や韓国語が書かれているものも多い。

このエリアは祇園、東山地区で観光地京都の中でも名所旧跡のメッカだ。

お世話になったホテルがいかに素晴らしいロケーションであるかが

この地図を見ればわかる。

東鳥居から本殿までは想像とは違ってかなり長い参道が続いている。

前述したように当神社は悪縁を切り良縁を結ぶ祈願所、祭神として

崇徳天皇、大物主神、源頼政の3神を祀っている。

ここで由来について記してみましょう。

社伝によると保元の乱(1156年)に敗れて讃岐(香川県)で崩じた崇徳天皇の霊を慰めるため、

建治年間(1275~1277年)に大円法師が建立した光明院観勝寺が

当社の起こりといわれている。

その後、観勝寺は応仁の兵火により荒廃し、元禄8年(1695年)太泰安井(左京区)にあった

蓮華光院が当地に移建され、その鎮守として崇徳天皇に加えて

讃岐金比羅宮より観請した大物主神と源頼政を祀ったことから

安井の金比羅さんの名で知られるようになった。

桂米朝さんの肝入りでこんなタレントさんの絵馬が集まりました。

越路吹雪、横山やすし、小松左京、イーデスハンソン、夢路いとし、喜味こいし、桂枝雀など。

有名な悪縁を切る縁切り縁結び碑。

高さ1.5m、幅3m、絵馬の形をした巨石で、

中央の亀裂を通じて神様のお力が円形の穴に注がれ、

様々な願い、形代(かたしろ)、身代りのお札が貼られ碑が見えないほどだ。

1、まず御本殿に参拝

2、次に形代を持って願い事を念じながら碑の表から裏へくぐる

3、次、裏から表へ

4、最後に形代を碑に貼る

こちらは金比羅会館。

ご祈願は24時間可能だとか。

境内はご覧のように狭い。

右側には金比羅絵馬会館。

左手に入ると拝殿、本殿がある。

他にも「久志摩」という古い櫛を

供養のために築かれた塚もあり9月には櫛祭が行われている。

こちらが拝殿と本殿。

拝殿の横には各種御神札、絵馬のサンプルがガラスケースに入れられて売られている。

当宮は古来より断ち物の祈願所として信仰を集め、

幸せな男女にえにしを妨げる全ての悪縁を断ち切ってくれる。

ただし、良縁で結ばれたご夫婦やカップルがお参りされても縁が切れることはないとの事。

病気、酒、たばこ、賭け事の悪縁を切りに来ることが多いとか。

こちらは安井天満宮。

梅丸天満宮とも呼ばれ、洛陽天満宮二十五社順拝第17番礼所になっている。

北にある鳥居。

実は京都にある神社、仏閣を早朝散歩して強く感じることがある。

日中は観光客の参拝客が多くいるが、早朝は地元の人が来ていて

深い祈りを捧げている姿を多く見る。

しかしこの日は群馬県草津方面から来た女性と話す出会いがあった。

彼女曰く「昨日も日中来たが100人くらいの長い参拝客がいて、諦めて今日出直してきた。

お嬢さんの良縁を祈願に30年振りにお嬢さんと京都に来た」とか。

しばし京都で群馬、草津温泉の話で盛り上がってしまった。

遠くに小さく見える赤い鳥居が前にアップした鳥居。

この石柱の鳥居の先に「2022-7-7付、京都の街あれこれPART9」で紹介した

崇徳天皇の御霊がある。

前述したように当宮が祀っている1人がこの崇徳天皇で保元の乱で対峙する後白河法皇と兄弟になる。

 

 


祇園甲部歌舞練場と弥栄会館難工事

2022-07-22 06:22:52 | お仕事

2020年3月26日(日)NHK・BSプレミアムで放映された

「解体キングダム・京都祇園シンボルを解体せよ」の現場を早朝散歩で見てきた。

現場は大きく2工区あり、こちらは大成建設設計施工による

「祇園甲部歌舞練場 耐震改修工事」の仮囲い。

発注者は学校法人八坂女紅場学園で受注者は大成建設(株)関西支店だ。

工期は令和2年1月27日から令和4年11月30日まで。

大正2年に新築した祇園甲部歌舞練場もできて約110年の歳月が過ぎ、

老朽化が進みTV放送によると毎年春行われていた「都おどり」の会場は木造大空間劇場のため、

柱、梁を鉄骨プレートで補強する耐震工事が必要となったようだ。

現場の入口の道路沿いに「祇園甲部歌舞練場耐震改修に向けて」

「歌舞練場工事概要」「歌舞練場改修後の様子」

「歌舞練場工事の様子」などの資料が写真、図面付きで掲示されていた。

それによると耐震改修とともに異なる機構更新と拡張を目的とした

新ホールや新稽古場が入る新館の増築工事も実施するとのこと。

この工事は大規模木造である国の登録有形文化財に対して

鉄骨で耐震補強を行いながら大きく増築を行うという全国でもあまりないプロジェクトで

今からその完成が楽しみである。

片やこちらは大林組が設計施工で取り組んでいる(仮)弥栄会館計画。

発注者は解体工事の方が学校法人八坂女紅場学園

そしてもう1つは新しく京都に進出するホテル、なんと(株)帝国ホテルだ。

この弥栄会館は昭和11年完成のモダン建築で築85年のやはり登録有形文化財となっている。

この建物を残しながら解体するという難工事。

現場所長は現場40年という大ベテランだが、胸は躍るが足はすくむという。

今までの担当した案件の中では一番難しい工事だとTVの中で言っていた。

なぜ帝国ホテルはコストは2倍、工期は3倍もかかるこの方法を選んだかというと

2007年京都市は高さ12mまでしか建てられないという厳しい京都景観条例を施行した。

そのため現在の会館の南、西、両壁を残すことによって

客室60室のホテル計画が可能になり、

注目の帝国ホテルが京都に26年春オープンする予定となった。

こちらも現場入口の道路沿いに掲示されている「弥栄会館工事概要」の説明と写真集。

TV「解体キングダム」はTOKIOのリーダー城島茂とHey!Say!JUMPの伊野尾慧がMCになって

現場取材したドキュメンタリーだが、これを見ても職人の高度な技、

経験が左右する難工事だということがよくわかる。

この難産の帝国ホテルにはオープンしたら是非一度行ってみたいものだと思った。

こちらは前述の祇園弥栄会館とは若干離れているがほぼ同時に進行している

(仮)元新道小学校跡地活用計画。

事業主体はNTT都市開発(株)でこちらはもう1つの花街宮川町の歌舞練場と92室のホテル、

地域交流施設、消防施設の複合施設計画のようだ。

完成予定は2025年を目指しているとの事。

1200年の都・京都には大規模な開発ができる用地はあまりなく、

生徒数が減った学校の統廃合・跡地利用計画が街づくりに

重要なテーマになっているように感じる。


祇園花見小路ナイトandデェィ

2022-07-21 06:05:49 | 旅 ~京都

昨日紹介したホテル、ザ・セレスティン京都祇園のロケーションが良いため、

夕方の割烹「八寸」から酔い覚ましを兼ねて夜の花見小路をテクテク歩きホテルに帰館。

翌日は恒例の早朝散歩で各名所をぶらり探索。

歩いているうちに早朝の花見小路にも出てしまった。

そこで「祇園花見小路ナイトandデェィ」と称して

夜と朝の花見小路の風景をスナップ的にアップしてみました。

祇園花見小路は北は三条通りから南は安井北門通りまで約1km、

祇園の中心を通るメインストリートを指す。

四条通り以南はもともと建仁寺の領地であったものが、明治以降発展した。

由緒あるお茶屋や料理屋が立ち並び、2011年電線類地中化、石畳の整備が完成し、

情緒ある町並みへと生まれ変わった。

江戸時代の花見小路は建仁寺の塔頭が並び、竹やぶの中を通る細い道であった。

明治4年(1877年)遊女解放令にともなって京都府が土地の返還(上知令)を求め、

明治6~7年頃(1873年~1874年)、祇園甲部お茶屋組合が譲り受けて祇園町の南側部分が誕生した。

明治6年(1873年)建仁寺の塔頭であった旧清住院の建物をそのまま歌舞練場として使用し、

第2回「都おどり」が開催された。

大正2年、現在耐震工事中の祇園甲部歌舞場の地に新築移転した。

花見小路をはんなり京散歩をするとフォトジェニックな京町屋と沢山出会う。

弁柄格子に犬矢来(いぬやらい)・・・軒下にある防護棚のようなもの。

いかにも京町屋の建物に夜は提灯に明かりが灯り、より妖艶な姿に風情を変える。

and

いかにも花街の雰囲気が漂う夜の祇園甲部と京都の街並の特色、路地の代表的な風景、

祇園の街の奥に入り込んだ「THIS IS 京都」の町屋風景。

このエリアは電線は地中化し、歩道は石畳に整備され、素晴らしい街並だ。

こちらはお茶屋さん。

江戸時代末期には祇園甲部にはお茶屋さんが約500軒以上あったという。

現在は56軒に減った。

因みに他の花街の現在のお茶屋の数は宮川町29軒、先斗町21軒、

上七軒10軒、祇園東7軒(2020年4月現在)だそうだ。

夜ではわからないブロンズのお洒落な道路標識も早朝散歩では足元で見ることができる。

やはり京都は歩かなくては奥深い京都の世界はわからない。

 


ザ・セレスティン京都祇園

2022-07-20 06:27:31 | ホテル・旅館

今回は早朝散歩のロケーション、大風呂があるホテル、

そして朝食がいいところを基準に当ホテルにお世話になりました。

当ホテルは祇園四条駅から徒歩10分、東山区八坂通東大路西入るにあります。

当ホテルは三井不動産ホテルマネジメントが経営していて2017年9月にオープンした。

157室を有する素敵なホテルでした。

そのコンセプトは「東山悠遠の邸」。

京を知り尽くした方が辿り着くホテルとして京の文化に溶け込む体験を価値としているとの事。

素晴らしいです。

建仁寺が佇み京の暮らしが垣間見える閑静な場にあり、

その周囲の環境にしっくり溶け込んだ和の意匠としつらえが

とても心を落ち着かせる雰囲気が漂っていた。

京都の街は建築物に対しての規制がかなり厳しい。

1つは高さ制限があり、1つは周囲の景観を壊さない意匠造りである。

当ホテルも5階建てでフロントロビー等パブリックスペースは地下1階になている。

そのためか、ホテルに入ると一般のホテルとはかなり違う

インパクトのある空間が目の前に広がり、

それが高級感につながっている造りになっている。

ロビーや客室廊下、外構の造園デザインは荻野寿也景観設計が手掛け、

丹波石の石積を基壇とし、アカマツ、ヤマザクラ、イロハモミジ等を配し、

東山の原風景や四季折々の移ろいを感じとれるデザインとなっている。

また、ロビーや客室廊下から望む庭園も京都らしく

はんなりとした情緒を実感できる造りを取り入れている。

客室のデザイン、カラーコーディネートもシンプルで余計な飾り付けもなく

最近の流行を先取りしているようなスミダマンにとっては好みタイプの部屋であった。

その代わりと言っては変だが、ミニBARスタンド、茶器、花瓶などの

しつらえなどにはかなりのこだわりを感じた。

特に老舗日本茶専門店一保堂のお茶、西川貞三郎商店プロデュースの清水焼の茶器などは

日本の伝統を感じながらくつろぎのひとときを過ごせるおもてなしの心が十分伝わってきた。

このホテルの1つの魅力はこの大浴場の存在。

京都の旅の醍醐味は街を歩くこと。

故に足腰が疲れる街だが、この旅の疲れを癒しリフレッシュできるのが、この大浴場だ。

古代の庭を望みながらゆったりとした時間を過ごせた。

京都はここ数年で新しいホテルがどんどんオープンしているが、

この大浴場を備えているホテルが増えているような気がする。

また、この大浴場へは専用の館内下駄と湯龍が用意されていて、

客室には備え付けの浴衣があり、大浴場の往来に利用できるという気配りには感心した。

これも素晴らしい。

そして当ホテルのもう1つの売りがこのレストラン「天ぷらの八坂圓堂」。

数奇屋造りと現代建築の調和した店内。

粋な京格子で仕切られた大小テーブル。

朝食のテーマは「京の朝ごはん」でビュッフェスタイルを取っている。

しかも名店「天ぷら八坂圓堂」が目の前で調理する天ぷらカウンターもある。

この朝食ビュッフェがまた素晴らしい。

京懐石をベースに八代目儀兵衛のごはん(五ツ星お米マイスター)、八百伊の京漬物、

出汁巻玉子など、京都ならではのラインアップだ。

この誘惑にはダイエットを考えていても勝てない。

まーいいか、毎日の事ではなく旅の時くらいは!と

勝手な理屈付で「京の朝ごはん」を堪能した。

もう1つ気になったこだわりがこの黒い猫のオブジェ。

ホテル内を歩いていると随所に種々な姿の黒猫の人形を発見。

おそらく何かの意図、主張があるに違いないのだが、

その意味するところは分からない。

ここは宿泊者専用のラウンジ。

京都の雑誌、書籍などが取り揃えられており、

コーヒー、紅茶、ジュース、お菓子などが無料サービスとなっている。

当ホテルは他に京都駅八条からホテルへのピックアップサービスも行っており、

様々なホスピタリティを実施している。

ザ・セレスティン京都祇園のキーテーマはLocal Experience、

Private Style、そしてPersonanalized Hospitalityだ。

また、経営母体の三井不動産ホテルマネジメントのコンセプトは

「オフの人生をもてなすならばホテルに出来ることはもっとある」

・・・これはフィロソフィーだ。