スミダマンのほのぼの奮戦記

~グルメ・旅・仕事・自然・地域~あらゆる出来事をフラッシュバック。

志林夜市市場散策

2017-05-10 06:41:36 | 旅 ~海外

台北市士林地区にある、台北最大規模の観光夜市場。

この日は午後からあいにくの雨模様になり、時間の制約も

あってアーケード内だけの散策となった。

ここは日本統治時代の1909年に士林市場として作られた。

その後、台北市政府は大規模改修をするため、2002年に

同市場を閉鎖し、2011年12月25日に新士林市場として開業した。

アーケードの地上階はショッピングエリア、地下は屋台が

集中する美食街となっている。

夕方になると常設店舗の前などの路上に小吃と呼ばれる

飲食物や衣料店、生活雑貨、遊戯など様々な

屋台が所狭しと出店する。日本人観光客も多く訪れることから

多くの店では日本語が通じ、日本語のメニューも用意してある。

入口の所で店を開いていたTシャツ屋さん。お土産の定番

Tシャツを買うにはうってつけのお店だ。

若い女の子の店員の愛想の良さが印象的だ。

台湾は南国の地。果物もパイナップル、マンゴー、パパイア、

ドラゴンフルーツ、パッションフルーツ、ライチ

ナツメ、グァバなど豊富だ。今回の旅ではあまり果物は

食べなかったのでその味の程は分からない。

このアーケードの中にはゲーム屋台も多い。ここは麻雀の

パイを使って、1人麻雀みたいなことをしている。

ルールはサッパリ分からないが、若い人が夢中になっていた。

BB銃で回る風船を射つゲーム。日本の射的だ。

1人チンピラっぽい若い男が、簡単に射って百発百中。

各店を廻って荒らしていたのがやけに目立った。

これは日本で言う輪投げ屋さん。地元では

あまり人気がないのか、あまり客が来ず、閑散としていた。

壁に飾っている物が賞品なのだろう。

ぬいぐるみなどおもちゃが多かった。

ここは天井から吊り下げられたぬいぐるみ屋さん。右端にある

情けない顔した人形が何かを訴えているみたいで思わず撮ってしまった。

何これ?とビックリしたのが、日本でいう金魚すくい。

釣っているのはエビだ。どうやら近年、このエビ釣りが

人気らしい。釣ったエビはその場で食べられるとか。

いよいよ地下の美食区へ突入。ここはにおいが凄いのと

同時に大変な人出の賑わいで圧倒された。台北の人は

夜なかなか眠れない。これを夜猫族(イェマオズゥ)と呼ぶらしい。

要は宵っ張りのこと。そして夜市へ繰り出す。

夜7時頃から賑わい始め、ピークは10時から深夜1時頃とか。

 

ここは正にB級グルメ天国。メニューをよく見ると

日本語が表記されている。海老チャーハンの小が約350円。

小龍湯包(ショーロンポー)が約350円だ。

この値段、安いのかそうではないのか微妙な感じだ。

これが台北の名物料理「臭豆腐」1個約175円。

日本でいう納豆みたいな料理で名前の如く臭い。

下水の水が腐ったみたいなにおいで台北の人にはうけている様だ。

「糯米腸台湾風めソーセージセシト」と書いてある。1份約200円。

台湾住民の多くは開拓民としてのルーツを持っており、

食材を無駄なく使うといった発想から内臓や凝固させた

血液を多用する料理が多いらしい。

この料理もその1つか。因みに台湾で書かれている日本語は

ミス看板文字が多いらしい。日本語を全く分からない人が

目で見て書く為とか。この看板も「台湾風→の」

「ソーセージセスト→セット」の間違いではないか。

鉄板カウンターの前でお好み焼風なものを

神妙な顔をして食べていた外国人。

台湾は古くから外食文化が盛んで夜市に代表される

屋台で庶民は食事をするらしい。正にパワー満足。

熱気あふれる台北の夜。「夜市で遊ぼう」を体験した夜であった。


台北 忠烈祠

2017-05-08 04:50:09 | 旅 ~海外

台北市中山区剣潭山にある忠烈祠。辛亥革命をはじめ

中華民国建国及び革命、中国大陸での日中戦争などに

おいて戦没した英霊を祀る祠だ。言わば、台湾の靖国神社だ。

この門は忠烈祠の大門牌楼。日本統治時代では

台湾護国神社が当地に建立されその跡地に1969年に、

故宮の大和殿を模して創建された。

ここは国防部が管轄している。

大門の左右には衛兵が微動だにせず立っている。

瞬きもせず、まるでお人形さんの様だ。ここの衛兵交代のセレモニーは

有名で、9時から17時まで(最後の交代は16時40分)、

1時間ごとに行われる。

大門をくぐると中央広場。その奥に中国の宮殿様式の

忠烈祠大殿がある。中央広場は写真で見るよりも

実際はずっと広大で、広場の真ん中には地面に5本の真っ直ぐな

線がある。これは長年の衛兵たちによる行進でできた跡だそうだ。

山門の手前に対になって六角形の建物は鐘鼓楼だ。

いかにも中華的な建物だ。

一番奥にある忠烈祠大殿。左右には文烈士祠、武烈士祠があり

台湾の戦争、革命の歴史の史料が展示されている。

この大殿に革命建国の為に亡くなった志士33万人が

祀られている。そしてここにも2人の衛兵が守っている。

この任務は1時間就く。本当に信じられない程きつい任務だ。

この衛兵たちは陸海空軍から厳しい条件をクリアーして

選抜された優秀な兵士達だ。

いよいよ儀仗衛兵の交代セレモニーが始まった。引率兵士1人と

4名(任務に就いた兵士とこれからの就兵士)が隊列を組み、

大殿では殿内の位牌に向かい敬礼。

銃を振り回す儀式(衛兵が持っている銃の状態を確認する

動作が半ば形式化したもの)を行なう。

銃の重さはなんと6㎏。陸海空3軍が交代で担当している。

制服の色は青が空軍、白が海軍、緑が陸軍で

この日は空軍が担当していた。

百聞は一見にしかず。是非この動画を見れば見事な衛兵の

息の合いっぷりに感激してしまうでしょう。

セレモニーの所要時間は約20分間。台座に上がるときでさえ、

タイミングをピタリ合わせる、感動物だ。台湾は徴兵制で

大学へ入学した人は兵役を免除されるが、あと皆兵制だ。

儀杖兵の資格は、高卒以上で犯歴がなく、身長は175㎝~195㎝

体重は65㎏±1㎏の兵士から選別さらえる。

あまりにも美しい形式美。それに見とれる、市民、観光客。

ピーンと張り詰めた空気に私語一つない。

忠烈祠大殿の衛兵交代を終え、大門の交代式へ向かう衛兵5人。

ピカピカ光る鏡のようなヘルメットがとても印象的であった。

 


世界遺産チャンアン

2016-12-20 07:10:00 | 旅 ~海外

陸のハロン湾と言われているチャンアン。

2014年に世界遺産に指定された。広大なカルスト地形は水に溶けやすく、

石灰岩は川の流れや風雨の浸食を受け、

数百万年をかけて深い渓谷や奇岩奇峰を生み出した。

水蓮の花が随所に咲き、全体の景観にアクセントを付けている。

ある所では山々の風景と相俟ってまるで極楽浄土の世界の様であった。

チャンアンはハノイから約2時間、ニンピン省にあり、

行く道中は、ベトナムらしいのどかな田園風景が続いていた。

ここはビジターセンターに入る前の土産店売場。

今の所、チャンアンは穴場的スポットだ。観光客はベトナム人がメインで

まだ外国人は少ない。竹笠(ノンラー)を被った欧米人はいかにもツーリストそのものだ。

ここが船の乗船場の入口、ビジターセンター。広い講堂では

モダンな音楽が流れていた。この場所はどのような使い方をしているのだろう。

最盛時のクルージングの風景が写真で展示してあった。

こんなにも船が出ると衝突しないか、老婆心ながら心配になる。

ここが船着場。この日は比較的すいていた。船頭さんは皆女性。

必ず船頭さんには1人2万~2.5万ドン(100円~125円)の

チップを渡すのがマナーだそうだ。

因みに、ボートツアーの料金は15万ドン(750円)だ。

いよいよ出航。クルーズ時間は約3時間。

日本ではまず見られない大陸ならではの山水風景がどこまでも続いた。

チャン祠など道中いくつかの寺院が現れる。

ベトナムではチャイアンで結婚の記念写真を撮るのが定番とか。

今回ハノイを旅して感じた一つに若い人達は人生のエポックに

記念写真をよく撮るみたいという事。

チャンアンの地下水の流れが約50以上の洞窟を掘り出した。

クルーズではその内9ヶ所の洞窟をくぐり抜ける。この鍾乳洞の

洞窟は頭が本当にぶつかる程低い。

そこをスレスレに通り抜ける船頭のテクニックに感服した。

洞窟を抜けるとそこは極楽浄土の世界の様な錯覚に陥る。

船頭の漕ぐオールの「ギシッ、ギシッ、ポチャポチャ」という船の音、

水の音と風の音のみでとても心地が良かった。

船は手漕ぎボートなのでエンジン音がなく水がとても身近に感じれらる。

流れもほとんどなくここは川なのか湖なのか?

ご覧の様に水面下に水草が茂り、実にグリーンの水面が美しい。

又々立派な寺院が現れた。この風景を見た瞬間、昔、見た映画

「地獄の黙示禄」の光景を思い出した。この映画は

フランシス・コッポラが監督し、主演はマーロン・ブランド。

ベトナム戦争をテーマにした映画だ。

こちらが私達が乗った船頭さん。

カメラを向けると顔を隠してしまうシャイな女性だった。

クルージングを始めて約1時間。丁度折り返し点の所にあった

寺院に休憩がてら上陸した。本当にこのクルーズは癒しのボートクルーズだ。

このボートは4~5人乗。女性船頭さんがいちばん後ろに

前向きに座って櫂を押すように漕ぐ。

船にはお客も漕げるオールが置いてあって

私達の2隻は後半ボートレース状態になった。

船頭さんも長丁場の為、途中ご覧の様に足で漕ぎ出した。

これが又器用でまるで足が手の様に上手に漕ぐ。

一体足の裏はどうなっているのだろうと仲間と議論になってしまった程だ。

ススキの中をぬって行く船は一幅の絵画のようだ。

いよいよゴール間近か。陽も徐々に暮れてきて夕陽が眩しい一枚となった。

ボートクルーズの前にランチタイム。ビジターセンターの中に立派なレストランがある。

この地方の名物料理は3枚目のマトンの焼肉料理とか。

味はイマイチだった。

ちょっとぼやけて分かりずらいが、中の具が透き通って見えてしまう程

薄くて透明度が高いライスペーパーの料理。

これもベトナム名物のコーヒー。ドリップ式の容器から

ポター、ポター、しばらくしてポター。なかなか下に溜まらない。

飲める状態になるまで気長に待つしかない。

味は香りが強く、濃い逸品だ。


ハロン湾

2016-12-17 06:46:58 | 旅 ~海外

ハロン湾入口のゲート。ハノイから車で3時間半

ハノイからしばらくは高速道路で快適であったが

途中から田舎道になり、しかも追い抜き自由

クラックションが鳴り続けてゆっくり寝ることもできなかった

ハロン湾は1994年自然遺産に登録され、国内外から

約200万人の観光客が来ている

大きくは船に泊まって日の出日の入り、夜空の星とゆっくり

楽しめる一泊コースとポイントだけを見る日帰りコースがある

当然、観光地にはおみあげ物屋さんが並んでいる

観光客は皆この様なジャンク船に乗ってハロン湾に出ていく

外から見た船は古めいた漁船といった感じだったが

乗船するとそこは海上レストラン。まあまあの雰囲気の

造りになっていた。サー出航するとすぐランチタイム

これが意外に結構旨い料理だった。蒸し海老は

船の女性が全てむいてくれた。ビールはベトナムの地ビール

かにの甲羅揚げみたいなものはけっこう旨かった

今回の旅でほとんど食べていないベトナム料理定番

の揚げ春巻き。これは特に旨かったナー

一通りコース料理が終わるとスペシャル料理の食材が

各テーブルに見せにくる。みな生きているシャコ、ハマグリ

カニ、の3点だ。最近日本ではすっかり見なくなったシャコを注文

これが蒸しシャコ2匹。かなり大型だ

塩を付けて食べたが、味はマアマアだったかな。

ハロン湾は海の桂林と呼ばれ、トンキン湾

北西部の湾でクアンニン省にある

カットバ島のほか、大小3000もの奇岩、奇峰がそそりたち、存在している。

日本のODA特別円借款により建設されたバイチャイ橋

クアルク海峡に架かる橋で全長903Mの巨大吊り橋

清水建設と三井住友建設のJVで建設された

ベトナムで初めての1面吊りPC斜張橋で当時

世界最大支間(現在64位)として土木学会田中賞を受賞した

ハロン湾は彫刻作品のような島々の景観

太陽の位置によって輝きが変化し、雨や霧によって

また趣のある雰囲気を醸し出す

ランチを食べていると小さな船が横付けをして来て

少女が本船に飛び乗ってきた

そして窓を開け、モンキーバナナなど果物を売りにきた

結局、船員に追い払われていたが、その素早い動作にビックリした

なる程こうゆう商売もあるのだと

変な感動をした

ハロン湾の伝承では中国がベトナムに侵攻してきた時

(日本での元寇)、龍の親子が現われ敵を

破り、口から吐き出した宝石が、湾内の島々に

なったと伝えられている

この1枚は気に入った1枚だ。若き女性が

龍の船首に立ってカメラを向けている

その集中力が伝わってくるようだ

もうちょっとアップにした方が良かったかな?

ハロン湾奇岩の代表「闘鶏岩」逆から見ると2羽の

鶏がキスしているように見える。

ハロン湾を地質学的に見ると北の中国から桂林から

広大な石灰岩台地の一角にありその台地が沈降し、

侵食作用が進んで現在の姿になったと言われている

もしNHKの「ブラタモリ」が海外に取材に

行った場合、第一号にハロン湾を選ぶといいと思う。

日本からの若い3人女性組がいて、ハロン湾の奇岩

が出て来るたびに甲板に出てきてポーズを決めて写真を撮っていた

とてもハイテンションの女性達で見ていて楽しかった

ランチサービスが終わるとそのサービスをしていた

女性達が土産物売りのセールスレディに変身

最初は安い雑貨、マフラーなどから始まって

最後はご覧の様な真珠のネックレス、指輪を

売りに来た。断っても断っても2回、3回とくるので、結局

くだらない雑貨を買うはめに成ってしまった

なんとか良い写真を撮ろうと努力した4枚

デキはどうですか?

このクルーズ約2時間半。スピードもゆったりで

しかも天気も最高

ついつい2階のデッキでのんびり昼寝する客もでてきた

この船の客はほとんど日本人だった

そしてハロン湾観光クルーズの目玉、鍾乳洞探索を

する為1つ島に上陸。桟橋を渡って

山の中腹にある鍾乳洞の入口まで登る

これは入口の所にあったハロン湾世界遺産のシンボルマーク

この小屋みたいな所が鍾乳洞の入口

これが鍾乳洞の内。想像していたより大きく

迫力がある。数色のLEDライトアップを

していて幻想的な空間が続いている

真ん中に小さく光がさしている所から、台風で

避難してきた漁民が1990年代にこの鍾乳洞を発見した

発見されたのが最近

外国にはこんな事がまだまだおきるのだ

この柱状の鍾乳洞は本当にすごい

ここの鍾乳洞はあまり水が出ていない

唯一池がある鍾乳洞

約2時間のクルージングを堪能して一路

港に戻る

「百聞は一見に如かず」正にハロン湾は

そんな所だった

絶対に行く価値がある!!


陶器の街バッチャン村

2016-12-15 06:52:16 | 旅 ~海外

ハノイ市街から南東に約13kmのホン川(紅河)沿いに

位置し、15世紀頃から陶磁器作りが始まり、現在では

約100軒の工場が軒を連ねる。又レンガ作りが

盛んであったために今もレンガ工場も多い。

村の人口は約5000人で、90%近くが陶器作りに従事している

ガイドさんはこの陶器工場を「おばあちゃんの工場」

と言っていたがテュン・タン・セラミックスの工場の様だ

バッチャンの陶磁器は歴史も古く、白地に

青の陶磁器が多いが、近年は海外の観光客の

増加もあって色とりどりの形も大きさも様々な

陶磁器が作られるようになった。

基本的には手書きで上薬は3回塗られ

石炭コークスで焼き上げる。最近はガス、電気で

焼く所が増えて来た

案内されたチュンタンセラミックス。

入口の看板がカタカナ

日本とのつながりがあるお店の様だ

店はご覧の様に陶器の棚で囲まれている

地震が無いからこんな展示ができる。

実際このお店の物を見るまではベトナムの

陶器なんてと思っていたが、よく見ると

手作りの味が伝わってくる。一番下の

鍋敷の形はあまり日本では見ないデザインだ

その上壁掛にもなるように作ってある

中には日本で良く見るトンボをモチーフにしたデザイン

の絵柄があったので聞いてみたら、昔日本の

多くの茶人たちの注文があってその後ベトナムでも

好まれるようになり一般化したとか。

陶器を通じて日本とベトナムとの意外なつながりを

知ることができ興味深かった

ということでこの女性が持っている鍋敷2点を買ってしまった

衝動買いにしては

秘密ですが結構よい価格でした

因みにこの女性はおばあちゃんの息子の

嫁ということでした。

 

 

 


ハノイの名所旧跡

2016-12-14 07:01:27 | 旅 ~海外

「国のお父さん」とベトナム人の心の中に永久に生きている

ホー・チ・ミンの霊廟。2年の歳月をかけ建てられ、1975年9月2日に完成した。

残念ながら現在はメンテナンス中で内に入ることは出来なかった。

ホー・チ・ミン廟の中には一年中冷房の効いた内部の部屋に

永久保存処置されたホー・チ・ミンの遺体が安置されている。

ホー・チ・ミン廟を警護するベトナム人民軍兵。丁度衛兵の交代式が

あったので動画に納めてみました。

ホーチミン廟の前にあるクアン・チェーン・バーディン(バーディン広場)は

1945年9月2日にホーチミンがベトナム民主共和国の

独立宣言を読み上げた場所として有名だ。

広場を挟んで廟の反対側にある国会議事堂は2年前にできた2つ目の議事堂。

ホーチミン廟を警護する軍の本部。ハノイの建物はこのビルの様な

黄色っぽい建物とピンクぽい建物がなぜか多い。

ホーチミン廟のそばにある博物館。1990年5月19日。

ホーチミンの生誕100周年を記念して建てられた。旧ソ連などの援助で

レーニン博物館の専門家が設計や内装を担当し、斬新でアーティスティクな

造りと内装だ。ホーチミンの生家の模型、愛用品、書簡などが展示されている。

李朝の太宗(リー・タイ・トン)が1049年に創建した延祐寺内の楼閣で、

1本の柱の上に仏堂を乗せたユニークな形から、一本寺の名で

呼び親しまれている。この仏堂は小さいがベトナムを代表する

古利であり、ハス池の中に浮かび立つ優雅な姿はハノイの

シンボルのひとつに挙げられる。御堂には八本手の観音像が

祀られており、子宝に恵まれてると言われている。

蓮の花の上に子供を抱いた観音菩薩樹を夢で見て、

この寺を建立したと言われている。その菩薩樹。

1070年に建てられ、ベトナムで最初に大学が開設された「文廟」(孔子廟)。

2013年に世界遺産に登録された。文廟門の前は大変な人出で

ユルキャラまで出て賑わっていた。

建物の屋根の甍がとても凝っていて、棟の所に鯉らしき飾りがあり

屋根瓦がレンガ色で帆立の貝の様な形の物が敷かれている。

これは後日アップする。陶器の町バッチャンで作られたものだ。

この亀の石碑は、科挙の試験に合格し、博士を取得した

学者の名前、経歴が刻まれている。亀は長寿の象徴。

ベトナム、ハノイでは大学を卒業する前に各所で記念写真を撮る

習慣があるらしい。この日も多勢の学生が制服を着て集合していた。

それは圧巻の風景で観光客は皆シャッターを押していた。

こちらの大学はキリスト教か とってもお洒落な制服の集団だった。

こちらが文廟の本堂。内には儒教の始祖「孔子」と

孟子荀子など4人の高弟が祀られている。

ここにもベトナムで重要な動物、亀、龍、鶴、獅子の置物があった。

特に亀の焼物は金箔に塗られすごい迫力だ。

日本でもこの動物は縁起物になっている。

きっとどこかで(仏教か?)つながっているのだろう。

世界遺産タンロン皇城の入口の所で展示されていた若き

ホーチミンとベトナム戦争の資料。ベトナム民主共和国の

初代国家首席 初代首相を務めたホー・チ・ミンは1890年(明治22年)

フランスの植民地であったベトナム中部のゲアン省の

貧しい儒学者の子供として生まれた。ホーはフランスマルセイユ

そして船員としてアメリカ合衆国、ラテンアメリカヨーロッパ諸国を

回って見聞をひろめ、語学を学んだ。そしてパリに居た時

ロシア革命が起こり大きな影響を受けた。その後

ベトナム共産党を創立。民族解放、ベトナムの独立運動の

指導者となった。その後筆舌に尽くし難い人生を歩み、

「建国の父」、ベトナム人民からは親しみを込めて

「ホーおじさん」(バック・ホー)の愛称で呼ばれていた。

1969年(昭和44年)、ベトナム戦争終結に向けた動きが

始まった9月2日、心臓発作によって79年の生涯を閉じた。

タンロン皇城へ向かう広場の一角にベトナム戦争の記念物が展示してあった。

ベトナム戦争はインドシナ戦争後、南北に分裂したベトナムで

発生した戦争で、第二次インドシナ戦争ともいわれた。

この戦争は宣戦布告が行なわなかった為、いつ開始されたか諸説がある。

又アメリカ合衆国を盟主とする資本主義陣営と

ソ連を盟主とする共産主義陣営との間の冷戦を

背景とした代理戦争でもあった。1973年(昭和48年)、

ニクソン大統領は米軍を撤退させ1975年(昭和50年)

4月30日サイゴン陥落によってベトナム戦争は終戦した。

2010年に世界遺産登録されたタンロン皇城。この遺跡は

2003年から発掘された遺跡群。タンロンはハノイの旧称で

1010年から1804年までほぼ一貫してベトナム諸王朝がここに都を置いた。

 

 

尚ベトナムの気候についてだが、ハノイには四季がある。

旧正月(テト)は1月末日から2月初1週間、

春は湿度が高く、夏が長い。逆にホーチミン市は四季が無く

乾期と雨期のみ。これはベトナムの地形が南北にS字型で長く

約33,000㎞(北海道から山口県までの距離)もある為だ。

この大きな亀は翡翠(ヒスイ)で出来ている。ベトナムは

意外にも天然鉱物が豊富な国。宝石に成る、このヒスイや

スタールビー サファイア(ベトナムのみ)が採れる。

又南部では石油、北部では石炭、コークスそしてレアアースもある。

タンロン皇城の裏にはベトナム戦争の生々しい遺構が残っている。

これは地下に網の様に張り巡らされている地下道と地下室。

その一部が一般に開放されている。この写真が

赤いナポレオンと呼ばれていた伝説的軍人の

ヴォー・グエン・ザップ将軍。軍歴は1944年から1991年で

最終階級は大将。優れた軍事戦術家でディエンビエンフーの戦いで

仏印からベトナムを開放し、ベトナム戦争では人民軍総司令官として

アメリカ軍、南ベトナム軍との戦いを指揮し、ベトナム人民からは

ベトナム救国の英雄として深い敬愛と尊敬を集めている。

この部屋がグエンザップ将軍の作戦室で数々の作戦会議が

開かれた歴史的な場所だ。地下道の鉄扉は米軍の空襲に

耐えられる様分厚くできている。尚ハノイはB52の空襲によって

90%破壊されたそうだ。終戦してまだ約40年しか経ってないのに

市内はほとんど再建され、戦争の痕跡は一見するとほとんど残っていなかった。


ハノイの街

2016-12-12 06:28:11 | 旅 ~海外

これが金星紅旗と呼ばれるベトナム国旗。

中国の国旗、五星紅旗と似ている。ハノイの人口は約700万人。

今も地方からどんどん流入しているとか。

因みにベトナム通貨の単位は「ドン」。1円は約200ドン。

この国のお金は円に比べて多くなるので帰国するまで計算しずらかった。

この写真では分からないが、とにかくベトナム人の足はバイクだ。

一昔行ったホーチミンよりは少ないがそれでも

夕方のラッシュの時は、ものすごい数でちょっと隙間があると

割り込んでくる。しかもクラクションを鳴らして、街中が超うるさい。

地下鉄もなく、鉄道網が貧弱の為、こうなるらしい。

日本ではとっくに消えた三輪車がまだ走っていた。

昭和30年代ミゼットと言っていた代物だ。

そうゆうことで、バイクに乗っている人はかなりの人がマスクをしている。

町の道路は圧倒的にコンクリート舗装でその為かなり埃っぽい。

どうしてアスファルト舗装をしないのか、分からない。

ハノイで小さいがそこそこの建築現場。

正直言って、お粗末なものだ。整理整頓なんてあったものではない。

聞く所によると、ベトナムには片付けの習慣がないらしい。

ベトナムは地震が無い為、一般的に建築はレンガの野積み。

建築の契約書は軽く、信用、資金がない為、原則前金制度らしい。

住宅の屋根瓦は圧倒的にこのレンガ色の瓦だ。

建築は手抜きが多く、建材はオーナーが自分で探し

家族を毎日現場に張り付けることも多いらしい。

ベトナム人は親戚も含めて家族を大事にすることから

最近の家はこのように3~4階建ての住宅で一見するとビルの様で立派に見える。

そしてメイン道路から一歩入るとこの様に狭い路地に建物が密集している。

街角には日本人が持っているだろう、ベトナムらしい光景が至る所で見られる。

自転車で花を売るおばさん。アオザイともう一つの

ベトナム名物、ノンラーという竹笠をかぶって荷物を

山盛りにして運ぶ人。やはりベトナムノンラ―をかぶって

天秤で物を担いでいる人。この光景を見るとベトナムに来たナーと思う。

こちらはハノイのポリスマン。この制服はなんとなく仰々しく見える。

このモスグリーンの色は日本ではあまり使わない色だけに

思わず、シャッターを押してしまった。

こちらは道路掃除をしていた女性。なぜか絵になっていた。

こちらは賑わいのある商店街を歩いていたら洗浄機でバイクを

洗っていた人。泡が飛び散るのもお構いなしだ。

片や路上でお皿を洗っている女性達。ここは飲食店のようだ。

この時突然太鼓、ドラ、チャルメラの様な大きな音が

遠くからしてきた。よく見るとお葬式の行列だ。

鳴り物の後には遺影を持った男性が歩いている。

その後には仏様を乗せたマイクロバスが続く。参列の関係者は皆

白いハチマキをしていてビックリだ。車の中から紅白の

小さな四角い空箱を撒いていた。一体これはどんな意味があるのだろう。

暫し拝礼をしながら列を見送った。

ベトナムの埋葬は一旦土葬したあと遺骨を取り出して墓地に埋葬するそうだ。

街並みを良く見渡すと何これ?といったものを見つける。

この電柱の配線を見て下さい。日本では絶対見られない配線です。

これは街の床屋さん。ちょっとズームしすぎた為、

わからなくなっていしまいましたが、汚らしい小屋の中で散髪をしていた。

これは町の宝くじ屋さんか?一時人が群がってあーでもない

こーでもないと話していたが、どんな会話をしていたのかしら。

ハノイの街を歩いてアレッ?という感じで発見したのは

日本の物よりかなり大型の盆栽だ。手入れはあまりされていないが

明らかに盆栽だ。日本と盆栽とどの様なつながりがあるのだろう?

ベトナムの代表的な物産の一つにシルクの製品がある。

色彩やかなマフラーが所狭しと並んでいたが、今回は衝動買いはやめた。

儒教を初めて教えた大学「一柱寺」や世界遺産タンロン城で

思わぬ華やかな光景に出くわした。ベトナムでは大学を

卒業する前に学生達は記念写真を撮る習慣があるらしい。

思春期の女性らしく皆カメラを意識してモデルの様にポーズを取る。

まるでモデルの撮影会の様であった。

ハノイの街中を流れる紅河。かつてはソンコイ川(母なる川)と呼ばれた。

ハノイ北西で並行するソンボー川とともに紅河デルタを形成レトンキン湾に注ぐ。

日本のODA援助でできた全長3755Mの大型橋

ニャッタン橋(日越友好橋)。この橋はホン川(紅河)にかかり

国際空港とハノイ市街地を結ぶ新設の主要道路の一部で

541億4千万円の円借款を供与、2009年から建設が

進められ2015年1月4日太田国交大臣、グエン・シン・フン国会議長らが

出席して記念式典が行われた。施工は大成建設。

やはり日本のODAで完成したハノイノイバイ空港国際線新ターミナル。

古くて暗いターミナルから一新、ベトナムの社会、

経済発展を促進し、ハノイを東南アジアの国際都市へと大きく牽引した。

ここも施工は大成建設。

日本のODAは現在ベトナムがNo1になっている。

そんなこともあってか、今年2月に変わったトップの

党書記長は日本びいきらしい。空港には桜の造花まで植えてあった。

 


喜望峰

2016-10-18 05:34:49 | 旅 ~海外

テーブルマウンテンから一路、喜望峰へ。

道中、多彩な表現を見せるケープ半島西側の道。

海岸に面して高級な住宅街を抜けていく。

こんなRC造のシンプルな意匠の住宅が続く。ここはアフリカの

イメージから遠く欧米の豊かな人達の住宅エリアの様だ。

この街へ入る道は一本だけ。非常にプライベート性が守られた、

ハイレベルの街らしい。多くの有名人が住んでいて、

なかには欧米人の別荘もあるとの事。(ハリウッドスター、ミュージシャン等)

ここは有名なビューポイント。場所はメモをなくした為わからない。

観光客もバスを停めて絶景の風景をカメラに収めていた。

今南アフリカはサイクリングがブームらしい。数々の競技が行われ、

一般市民も休日にサイクリングを楽しみながら、競技に参加するとの事。

この海岸の名も忘れたが、長く広い波打ち際を乗馬して楽しむエリアだとか。

小さく黒い点に写っているのが乗馬の人達。

いよいよ喜望峰に近づいて来た。このエリアは喜望峰自然保護区になっていて、

世界遺産に登録されている。約1100もの固有種の植物や

約250種の鳥が生息している。ここで野生のダチョウの

親子も見たが、後日この写真はアップします。

ここがアフリカ大陸最南西端のケープポイントだ。

このケープポイントと喜望峰は1488年、ディアスが

最初の発見者で「嵐の岬」と命名した。この写真を撮った後、

中国人の団体が来て、ピャーピャー大きな声を出しながらこの看板を

占領してしまった。世界中からこの地を目指して多くの人が

来ているのに自分の事しか考えていない。マナーも

あったものではない。隣の白人が顔をしかめて苦笑いをしていた。

尖閣諸島もこんな調子なんだろう。

続いてケーブルカーに乗っていよいよ喜望峰へ。

このケーブルカーにフライングダッチマンと書かれているが、

南アではオランダ系移民の子孫をアフリカーンスと呼び、

オランダ語の方言に属しているアフリカーンス語を話す。

因みに白人と黒人などの有色人種のハーフをカラードと呼び、

やはりアフリカーンス語を話す。

大胆なカラーの衣服を着たアフリカ人にどうしてもカメラが向いてしまう。

この人もケーブルカーの所で目立っていた。

因みに南アフリカに暮らしていたといわれる最も古い民族が

狩猟・採集民族のサン族(ブッシュマン)。続いて以前は

ホッテントットという名で呼ばれていた牧畜民族のコイKhoi族が

移住して来たと考えられている。

これがインド洋と大西洋が出合う岬、喜望峰だ。

初めは嵐の岬と命名されたが、ポルトガル王ジョアン2世の時代、

ヴァスコ・ダ・ガマ(2013-7-8付ブログ大航海時代参照)の

当方航路(インド航路)発見を記念し、ポルトガルに希望をと

願いを込めて「喜望峰(Cope of Hope)」と名付けた。

喜望峰が望める灯台へ。本当のアフリカ大陸最南端は

喜望峰から南東150㎞にあるアグラス岬だ。

灯台の標識には世界の主要都市への距離が書いてある。

(ロンドンまで9623㎞、ニューヨークまで12541㎞)

それよりもこの写真では全く分からないが右側ブルーの

女性のおりしがすごかった。ケーブルカーを待っている時から

我々のグループが気になっていて、その中の勇気ある女性が

「私のお尻を触ってもいいから、あなたのお尻触らせて」と

頼んでいた。たぶんこの女性は昔のホッテントット族の血を

引いた人ではないか?セクハラになったかも

しれないが、このスーパー尻を撮ればよかった。


テーブルマウンテン観光

2016-10-17 05:46:26 | 旅 ~海外

世界遺産でもある絶景、テーブルマウンテンへの観光スタート。

・・・とは言ったものの山頂はご覧のように雲がかかっている。

ここは雲や霧が多く、地元の人たちは「テーブルクロス」と呼ぶらしい。

なんともオシャレな表現である。

ちなみに晴れの日は2日に1回位との事。

標高1085mのテーブルマウンテンには沢山のハイキングコースがあり、多くの人がトレッキングを楽しんでいる。

たまたま岩山を眺めていたら、直角に切り立った岩山の下をランニングしている集団を発見。

ユニークな光景なので撮ってみた。

こちらは登山の支度をしてケーブルカーが来るのを待っている人々。

目の前にいる白人さんの腕には鳥肌が・・・!

寒いのか・・・それとも怖いのか・・・。

テーブルマウンテンは険しい岩山の断崖なので、本格的なロッククライミングができる。

危険な山なので登山事故による死者もいるとのこと。

1929年にできたケーブルカー。スイス製で65人乗りのパノラマビューの機体は10分置きに出ていて

1時間で約500人運べる。因みに乗車時間は5分。

ケープタウンから約12㎞の沖合に浮かぶロベン島。

世界遺産でもあるこの島は別名「監獄島」とも呼ばれ、政治犯の強制収容所、ハンセン病患者の隔離

などに使われていた。今では島全体が博物館になっていて、刑務所の元囚人がガイドをしている。

ロベン島の周辺は海流が強く、脱出困難な為17世紀の終わりに監獄になった。

ネルソン・マンデラ元大統領も18年間ロベン島に投獄されていた。

晴れていれば360度の大迫力パノラマビューの絶景が見られる予定だったが、あいにくの濃霧。

下界は全く見えず、しかも風が強くて冷え込んでいた。

山頂にある模型を見ながらガイドさんから詳しい説明を聞いた。

模型がある所から近くにあるTIP-TOPスーベニアショップなのにボンヤリしている。

まるでハリー・ポッターに出てきそうな建物だ。

ご覧のような雲の中を散策。ここには世界的に珍しい植物もあり、全部で1470種類の植物が存在している。

絵葉書を見ると、快晴ならばこのようにテーブルマウンテンが見えることが分かる。

世界でも稀な地形だ。

山頂のごみ置き場の囲いが丸太で造られていた。世界の名だたる観光地として、環境、景観への配慮が窺える。

ケーブルカー乗り場の壁に2011年選定された「The New 7 Wonders of Nature」のポスターが貼ってあった。

知らなかった・・・。

①南アメリカのアマゾン

②ベトナムのハロン港

③アルゼンチン・ブラジルのイグアスの滝

④韓国の済州島

⑤インドネシアのコモド島

⑥フィリピンのプエルトープリンセサ地底河川

⑦そしてここ南アケープタウンのテーブルマウンテン

帰りのケーブルカーの運転手が地元の初めて登ったという女の子に運転ボタンを押させていた。

安全管理の厳しい日本では考えられないこと。なんとおおらかな国なのだ・・・。

テーブルマウンテンは濃霧だったが本当に素晴らしい所。

もっと近かったら晴れの日に来て散策したい、魅力的な所だ。 


ケープタウンの街

2016-10-16 05:34:42 | 旅 ~海外

飛行機から見たケープタウンの夜景。

ケープタウンはマザーシティと呼ばれる南アフリカ最古の町であり、ヨハネスブルグに次いで

第二の都市である。

アフリカ大陸の南端に位置するケープタウンはオランダ人、ヤン・ファン・リーベックにより1652年

に開かれた。

現在の南アフリカの国旗は、アパルトヘイトの終焉と同時に人種差別主義からの決別を明確にする為、

1994年4月27日に制定された。

ネルソン・マンデラの言葉であるレインボーネーションからレインボーフラッグと呼ばれている。

カラフルなかわいらしい家々が立ち並ぶ光景が見られる人気エリア、ボ・カープ(マレー・クォーター)地区。

ここには、17世紀にオランダ人により奴隷として連れてこられた人々の子孫の多くが暮らしている。

ケープタウンにおける南アフリカの民族コミュニティの1つ、ケープマレーの文化の歴史的中心地になっている。

ご覧のように、様々な色彩が壁に用いられた家屋が立ち並ぶストリートとして知られている。

前述の奴隷はアフリカ、インドネシア、マレーシア、その他のアジアから来た人が多く、彼らがもたらした

技術や食文化は南アフリカの文化に大きく貢献しているそうだ。

このポップなカラーは?何故そうなったのか?

奴隷たちはお金がなく、造船所等でペンキをもらってきて混ぜて塗った為このような様々なカラーになったとか。

そして各職業の違いから分かりやすく名刺代わりの意図もあったとか。

インドネシア、マレーシア系の為、多くのイスラム教徒が住んでいる。

モスクもいくつもあり、早朝からコーランが街中に流れたのには驚いた。

街角には朝早くから屋台が出ていた。この女性もイスラム教徒のようだ。

パイのようなパンを売っているらしい。

このボ・カープ地区を早朝散歩してみたが、夜明け前に現地の人たちが歩いていると、独特の雰囲気から

ある種の憂懼を覚えたので早々にホテルへ帰ってしまった。

カラフルな少女がカラフルな家に入ろうとしている瞬間をパシャリ。

偶然とはいえポップアートな一枚が撮れた。

街中では結構な数のホームレスを見た。中には小さな子供のいるファミリーもいた。

早朝に暗がりをウロウロしていたのでちょっと後ずさりをしてしまった。

それにしてもこんな騒々しい大通りではなく、もっと静かな所に移り住めばいいのに・・・。

これがケープタウンのシンボル、テーブルマウンテン。

約3㎞に亘り山頂がほぼ平坦なことから名付けられた。

垂直に切り立った崖が特徴の山で、標高は1085m。珪質砂岩でできており、表面は硬い。

 

ケーブルカー乗り場あたりから見たケープタウンの中心街と住宅街。

人口は約350万人(2007年時点)。

ここはもともと東アフリカ・インド・東アジア貿易に携わるオランダ船の食糧基地として建設された町で、

南アフリカに初めて白人が入植した土地だ。

ここを起点に内陸部へ開拓された所から「マザー・シティ(母なる都市)」との愛称で呼ばれている。

19世紀のビクトリア調の雰囲気を再現した巨大ショッピングスポットのビクトリア&アルフレッド・ウォーターフロント。

ケープタウンの旧港を再開発して建てられ、400を超えるショップやレストラン、映画館、水族館、ホテルが

集まっている。

これがその案内図。

どこの都市も港の古い倉庫などの建物をリニューアルして再開発する手法を採っている所が多い。

横浜のみなとみらい然り、ちょっと小さいが函館、門司然りだ。

1Fのショッピングモールと2Fの巨大なスーパーマーケット。

お土産用の南アでも評判のリキュール入りチョコレートは多くの人が購入する為、在庫がなくなってしまった。

スーパーの一角に今や世界のSHUSHIバーを発見。

サーモンの刺身、握りが中心で、やはり海外なのか巻物も多い。

それにしてもこのキッコーマンの醤油瓶の多さ・・・もはやインテリア化している。

夕食のレストランから見たウォーターフロントの夜景。

港に映る街の灯りは、どこも大人心をくすぐるものを持っている。

 

夕食後、市街地の隣にあるシグナルヒル(350m)に登ってケープタウンの夜景を観賞した。

100万$の夜景などと喩えられる景観もあるが、ここは何と表現するのが適切だろうか・・・。

とにかくファンタスティック。

ケープタウン空港内でロータリークラブの募金箱を発見。「健康・飢餓・ヒューマニティ」のタイトル。

同じロータリアンとして、財布にに残った南アの「ランド」を笑顔で入れてきた。

そういえば今回の旅ではほとんどロータリーのマークは見ることができなかった。

いよいよ帰国の朝、前日の曇天が嘘のような快晴。

飛行機越しにテーブルマウンテン、ライオンヘッドなどケープタウンの山並みが朝日に当たって

美しいシルエットを見ることができた。