スミダマンのほのぼの奮戦記

~グルメ・旅・仕事・自然・地域~あらゆる出来事をフラッシュバック。

京都御苑

2022-08-31 06:16:09 | 旅 ~京都

京都の旅2日目の朝、恒例の早朝散歩。

さーて、どこに行こうか?と考えていたら今愛読書になっている

京都存住の作家・歯科医の柏井寿氏の著作「おひとりからのひみつの京都ー

カリスマ案内人が教える48の歩き方」に書かれていた

早朝の京都御苑を思い出し早速タクシーを飛ばした。

京都御苑は京都市の中心部に位置し、

東西南北を寺町通・烏丸通・丸太町通・今出川通に区切られた区域。

東西約700m、南北約1,300mの範囲で総面積は92ヘクタール。

そのうち環境省が管理する国民公園である京都御苑は65ヘクタールである。

9ヶ所の御門と6ヶ所の切り通しを持っている。

今回の早朝散歩は広大な京都御苑の南半分(御所建礼門の南側)を約1時間、

古の京都に浸りながらゆったり散策した。

(北半分は2021-4-28付ブログ、京都御所・御苑の桜を参照してください。)

御苑・間之町口から入ると左手に「閑院宮邸跡」がある。

四親王家のひとつ閑院宮のお屋敷跡だ。

創建当時の建物は天明の大火で惜しくも消生し明治16年に新築された建屋だが、

庭園を含めて忠実に再現されているので、

在りし日の宮家を偲ぶことができる貴重な場所となっている。

初夏は青々としたもみじが映える「床みどり」、

秋には燃えるような紅葉を映す「床もみじ」が有名だ。

閑院宮邸跡の向かい側には5摂家のひとつであった九条家の現存する建物で、

今から約200年前の江戸後期に建てられた「拾翠亭」がある。

今回の散歩で悔やまれるのは九条邸跡の九条池に浮かぶ

「厳島神社」に行きはぐってしまったことだ。

ここの石の鳥居は京都三鳥居のひとつに数えられるほど珍しい鳥居だ。

公家・花山院家の邸宅内にあった鎮守社で筑紫の宗像大社から勧請された宗像神社。

この神社は薬子の変で大いに活躍し、

奈良に都を戻そうという動きを封じ込めた人物として知られている

藤原冬嗣邸の鎮守社として建てられた。

つまりここは平安京の恩人ゆかりの神社というわけだ。

実は境内にはちょっと珍しい木が植わっている。

本殿の向かい側に植わるタラヨウの木がそれだ。

多羅葉と書き、葉っぱの裏側に経文を書いたり、葉をあぶり占いに使ったりされたそうだ。

これが葉書の語源になったと言われている。

宗像神社の境内にある京都観光神社。

猿田彦大神が御祭神で京都の観光関係者が昭和45年に建立したらしい。

いかにも国際観光都市の京都らしい発想だ。

遠くに見えるのが下立売御門。

京都御苑には市民にとって犬の格好の散歩コースみたいだ。

早朝6時半というのに多勢の愛犬家が集まって一大コミュニティーができている。

苑内には動物が多くみられる。

野鳥の観測地として知られ、100種以上の野鳥が確認され、

そのうち約20種は苑内で繁殖されている。

代表的な鳥としてはアオバト、ビンズイ、トラツグミ、そしてサギもいる。

この大きなサギがゆっくり低空で飛んできたのには驚いた。

明治の東京奠都の際、御所を囲んでいた公家屋敷の大半が東京に引越し廃れてしまったため、

その荒廃ぶりを悲しんだ明治天皇の命により緑化を行い住民の憩いの場とした。

約140あった宮家と公家の邸宅が撤去されて皇宮付属地として整備され、戦後国民公園となった。

その後環境省が管理し、整備が進んだ。

京都御苑内には500種以上の植物がある。

苑内には約5万本の樹木が生育されており、マツ、ケヤキ、シイ、カシ類、イチョウなどのほか、

ウメ、モモ、サクラ、サルスベリなどの花の咲く木も多く、

これら多彩な樹々が御苑の風格と四季の彩りをなしている。

「出水の小川」を北に抜けると右手奥に鳥居が見えてくる。

ここは「白雲神社」。

この神社のすぐ北側に西園寺邸跡の駒札が立っているように、

この辺りは西園寺家の屋敷があったところだ。

西園寺家は琵琶の宗家でもあり、妙音弁財天を祀っていることから

「御所の弁天さん」とも呼ばれている。

京都といえば水。

京都の地下水は一説には琵琶湖の水量と同じくらいの量があり、

飲み水、料理の水、お茶の水としても適している軟水で、

よくこのように井戸水をいただいている光景をあちこちで見る。

いよいよこの長く立派な土壁の塀の中が御所だ。

その横に添え木に支えされた大木が一際目立って生えている。

この大きなムクの木は、この辺りが清水谷家という公家の屋敷であったことから

「清水谷家の椋」と呼ばれている。

樹齢は約300年といわれ、苑内でも数少ないムクの大木だ。

またまた京都御苑の案内図。

1枚目の地図から約30分で御所の入口建礼門のところまで来た。

目を左手に向けると幕末の一大事件・禁門の変があった蛤御門が見える。

幕府軍(会津藩、福井藩、薩摩藩、桑名藩、新選組)vs長州藩、諸藩浪士が武力衝突した。

戦いそのものは1日で終わったが、

二箇所から上がった火を火元とする大火「どんどん焼け」により

京都市街は広い範囲で街区・社寺が焼失した。

京都御所の南側と西側の写真。

南側の中央に平安京内裏の外郭門の1つ、または京都御所の門の1つ「建礼門」がある。

天皇・皇后及び外国元首級のみが通ることのできる最も格式の高い門とされている。

京都御所の建礼門の南東エリアには御所と同じくらいの広さの大宮御所・仙洞御所がある。

寛永4年(1627年)京都新城の跡地に後水尾上皇のために造営されたもので

東側には広い池を中心に庭園が広がっている。

仙洞御所の建築群は嘉永7年(1857年)の火災後再建されず

現在では庭園のみが残っている。

この仙洞御所西北に隣接する京都大宮御所は後水尾天皇の中宮であった

東福門院の女院御所として造営された。

現在では大宮御所と仙洞御所を合わせた邸宅を単に大宮御所と呼んでいる。

この京都仙洞御所・京都大宮御所そしてもちろん京都御所の築地内は宮内庁が管理している。

故に警護は皇宮警察が担当している。

因みに京都迎賓館は内閣府が、それ以外は前述したように環境省が管理している。

この南側緑地は藤原北家嫡流近衛家の庶流で公家の五摂家のひとつ。

華族の公爵家のひとつ、鷹司家の邸跡だ。

この堺町御門は朝廷の内と外とを隔てる外郭九門と

呼ばれる門のうちのひとつで京都御苑の南側にある。

幕末「八月十八日の政変」では会津藩を中心に京都御所の外郭九門を閉鎖、

藩兵によって門を警護した、ここ堺町御門の警護を任されていた

長州藩は任を解かれ長州藩に近い公郷7人とともに京を追放された。

その1年後発生したのが禁門の変で、

真木和泉、久坂玄瑞らによって福井藩が守る堺町御門が攻撃され、

久坂は堺町御門に近い鷹司邸に立て籠もったが寺島忠三郎と刺し違えて果てた。

 

 

 

京都という街が京の都を名乗っているのは長く都が置かれていたからで、

その意味はただの制度に過ぎない東京都や大阪都構想とは根本的に異なる。

都が置かれていたということは、すなわち帝がお住いになっていたわけで、

その証が今も残されている京都御所だ。

帝に親しみを持ち続けている都人は京都御苑全体を「御所」と呼んでいる。

御所の中や京都迎賓館以外であれば24時間いつでも入れて、

この日のスミダマンのように自由に歩き回れるから、

京都御苑すなわち御所は鴨川と並んで都人のオアシスとなっております。

 

 


祇園祭 宵山編

2022-08-30 06:21:08 | イベント

コロナ禍で2年間中止になった京都祇園祭が今年は3年振りに開催され、

前祭(さきまつり)の宵山は7月16日(土)になった。

古来、日没とともに1日が始まるとされた。

従って祭の1日は今日風に言えば前日の夜から既に始まっており、それが宵山だ。

祇園祭の宵山は各山鉾町の駒形提灯に灯がともり、鉾からは祇園囃子が流れ、

町会所などには山鉾の人形・織物・金具などが美しく飾られ、

お守りを売る浴衣姿の子供たちの童歌を聞くことができる

最も祭の風情が盛り上がる時である。

宿泊したホテルの前の通り、新町通りを下るとすぐのところに

後祭に出る「南観音山」の屏風祭的な展示がされていた。

飾られているうちわは日本画の巨匠・加山又造画伯が寄進されたものとか。

因みに屏風祭とは宵山の数日間だけ京都の町に現れる期間限定のミュージアム。

旧家・老舗がそれぞれ所蔵するお宝を公開する。

よく屏風が飾られるのでこの名で呼ばれる。

京都ではこのような日を「ハレの日」、日常の日を「ケの日」という。

宵山の日の早朝5:45の錦小路の「霰天神山」。

この山は一度も火難に遭っておらず「火除け天神」とも呼ばれている。

新町通りを下り、四条通りに出る手前に鉾を建ててある「放下鉾」。

この鉾はくじ取らずと言って巡行の順番は7番目と決まっている。

放下僧をご神体とする鉾で稚児人形「三光丸」を操り、優雅な舞を見せる。

鉾頭は日・月・星の三光を象徴する洲浜を光苔を表す2本の棒。

ご利益は厄除けと疫病除けだ。

高さ26m、重さ12トン(巡行時)と全山鉾の中で最も大きく重い。

鉾頭は三日月で装飾は細部まで豪華。

動く美術館とも称される。

近くで各々の山鉾を見て堪能できるのはこの宵山が最後のチャンスだ。

ご利益は厄除け、疫病除け。

中国の説話に残る郭巨とその子供をご神体とする「郭巨山(かっきょやま)」。

ご利益は厄除け、金運向上。

各山鉾はそれぞれのご利益がある粽(ちまき)を売っている。

「蘇民将来子孫也」の護符の付いた粽を玄関・戸口に飾り

1年厄除けと幸せを祈願する風習が今日まで伝えられている。

この粽は現在も京都近郊の人々により手作りされている。

古い粽は各山鉾へお納めし、17日に八坂神社へお納めする。

町に古くからある「菊水の井戸」にちなんで名付けられた「菊水鉾」。

鉾頭には天に向いた金色の16弁の菊花をつけている。

各山鉾には町会所があり、この鉾も町会所に廊下でつながっている。

ご覧のように車輪は近くで見ると大きく迫力がある。

菊花の印が印象的だ。

木の棒や竹は交差点の辻回しで使うものだろう。

ご利益は厄除け、不老長寿、商売繁盛。

こちらの鉾もくじ取らずの「函谷鉾(かんこほこ)」、巡行は5番目。

孟嘗君(もうしょうくん)が鶏の声によって

函谷関(かんこくかん)を脱出できたという故事にちなんだ名。

鉾頭の山形と三日月は函谷関の山中の闇を表す。

2019年に天水引を新調した。

ご利益は厄除け、疫病除け。

大陸の呉の国の史話から、病身の母のために雪の中から掘り当てた筍を

喜々として持ち帰る孟宗の姿を表す「孟宗山」。

見送りは竹内栖鳳の複製原画。

別名・筍山という。

ご利益は厄除け、親孝行。

「占出山(うらでやま)」、別名・鮎釣山は身重の神切皇后をご神体とし、

安産のお守りと腹帯を授与。

安産のお礼に奉納された衣装には名品が多い。

山鉾町の町会所では飾り席が設けられ、

山鉾のご神体や豪華な懸装品などの貴重な所蔵品が一般公開される。

占出山の前掛・胴掛けは日本三景の綴織で水引の36歌仙図は総刺繍だ。

ご利益は厄除け、安産。

唯一、生稚児(いきちご)を乗せ、2人の禿(かむろ)を従える「長刀鉾(なぎなたほこ)」。

古来よりくじ取らずで巡行の先頭を行く鉾。

鉾の舞台で披露される稚児舞と四条麩屋町での注連縄切りが見もの。

注連縄切りとは神域の境界を示す注連縄を切り落とし、結界を解き放つ習慣から始まった。

鉾頭は疫病雅悪を祓う大長刀。

ご利益は厄除け、疫病除け。

「鶏鉾(にわとりほこ)」の鉾頭には諫鼓(かんこ)と鶏の卵を意味するといわれている。

見送は16世紀ごろのベルギー製で国の重要文化財に指定されている。

ここで鉾と山の大きな違いについて述べてみます。

鉾には真木を支える鉾頭があり、

山には山岳信仰に基づいて山を表す真松が立てられることだ。

「綾傘鉾」は山鉾の古い形態を残す2つの大きな傘の形をした風流鉾が特徴。

鬼形は太鼓に合わせて棒を振り回す「棒振り囃子」を披露。

6人の稚児も巡行に加わる。

ご利益は厄除け、縁結び。

当鉾の吉符入り(きっぷいり)はこの大原神社で行われる。

因みに吉符入りとは神事始めの意味で7月1日の午前中に行われ、

約1ヶ月におよぶ祇園祭りが始まる。

路上には種々な屋台が出る。

この屋台はきゅうりの一本漬け。

「めっちゃひえひえ!」本当に美味しそう。

琴の名人であった伯芽が琴を割る場面を再現する「伯芽山(はくがやま)」。

ご利益は厄除け、技芸向上。

重要文化財の京町屋の代表的な建物の杉本家住宅も

大屋根葺替工事中にもかかわらず3年振りの祇園祭ということで

屏風祭に参加して一部を公開した。

受付に聞いたら1時間待ちということで諦めた。

平安時代の大和物語に書かれている謡曲「芦刈」より、それを再現した「芦刈山」。

芦を刈る翁の旧御頭は運慶の流れをくむ康運の作。

山鉾中最古とされる重要文化財のご神体衣装が復元新調され

新しい水衣とともに今年の巡行で使用される。

ご利益は厄除け、夫婦和合。

「四条傘鉾」は歴史が古く、始まりは応仁の乱以前にさかのぼる。

赤幣と若松を載せた傘そのものがご神体。

色艶やかな衣装をまとった地域の小学生が踊り方として巡行に進加する。

ご利益は厄除け、縁結び。

午後2時半過ぎ、通りにはだいぶ人通りが増えてきた。

着物や浴衣姿にうちわ、雰囲気いいですネー。

御所車の上からからくり仕掛けでゆっくり動くカマキリは愛嬌たっぷりの「蟷螂山(とうろうやま)」。

首をかしげて手斧を振り、羽を広げる姿は巡行の大スター。

1864年(元治元年)から117年間は巡行されていなかった。

ご利益は学問成就、招福除災。

午後3時ごろの新町通り。

人通りがどんどん増え、祭りの雰囲気も高まってきた。

それにしても新町通りに立てられた提灯は京都の街に似合いますネー!

新町通りのみやげもの屋さんにも山鉾のミニチュアが並べられて、

お客の目を引きつけていた。

夜の8時過ぎ。

山鉾の提灯に灯がともり、いよいよ祇園祭宵山の雰囲気は最高潮。

人も広い通りにいっぱい。

まるで満員電車状態だ。

1枚目の写真の右側の灯りは全て屋台の灯りで、ずーっと並んでいる。

コロナ禍のためか、ほとんどが小・中・高・大学生、若いサラリーマン・OL。

宵山のカップルは結ばれるという都市伝説が若者を煽る。

巡行時に山鉾の上で囃され「コンチキチン」と呼ばれ親しまれている祇園囃子。

諸種の芸能の影響を受けて室町時代末期に成立していたという。

用いる楽器は鉦・太鼓・笛に限られ、

一般に少年期に鉦方からはじめ、成人して太鼓方や笛方に移る。

夜の菊水鉾。

幽玄の世界だ。

放下鉾のおねえさん「チマキ他みな売切れどす。」

女性の京都弁は東男のスミダマンの心を揺さぶる。

いよいよ明日は午前9時から山鉾巡行だ。

「コンチキチン」の祇園囃子がいつまでも耳に響いている。

1150年続くコロナの厄除け祭りだ!!

 

 


三井ガーデンホテル京都新町別邸

2022-08-29 06:02:51 | ホテル・旅館

https://www.gardenhotels.co.jp/

3年振りの祇園祭ということで今回はロケーションを中心にだいぶ前から予約を入れ

3泊分確保したのが近隣にあと4ヶ所もある三井ガーデン系の新町別邸さん。

娘のルートでディスカウントでまずはキャンセルのモデレートツイン、

途中から2泊はスーペリアツインにグレードアップしてもらった。

当ホテルは街並に古都ならではの風情を残す古くからの京の中心地

新町通りに位置し、目の前には有名な割烹料理「浜作」があり(後から浜作が来た)、

ちょっと先には三井財閥の発祥地を控えている。

当ホテルは旧松坂屋京都仕入れ店跡地の京町屋を改造して2014年3月にオープンした。

実は祇園祭で当ホテルのロケーションが素晴らしいのはわかっていたが、

前祭山鉾巡行で新町通りが最後の巡行通りとは知らなかった。

「伝統」「継承」「再生」をテーマにした新しいホテル。

京の華を今もこれからも。

この街、この土地に息づく美意識や精神性を受け継ぎながら新しい価値を生み出していくホテル。

お届けしたいのはこれまでを活かしたこれからのおもてなし。

古き良き時間と新しい心地よい時間が交差し華を咲かせる。

そんなホテルを目指している。

ホテルの中庭には坪庭的に秋には紅葉しそうなカエデが植えられ、

1部2階の天井には枯山水的石庭が造られている。

最近できたホテルは同じような意匠デザインが多く採用されているような気がする。

ホテルロビーには祇園祭開催ということもあって地元「北観音山」の模型、

そして「蘇民将来之子孫也」の粽(ちまき)、

やぐらを固定する網に飾られる網海老が飾られていた。

上の部屋はグレードアップをお願いしたスーペリアツイン(27㎡/29㎡)。

この部屋は下の写真のモデレートツイン(22㎡)と違って

バスルーム、パウダースペース、トイレが3点分離されている仕様で

快適性を高めた心地よさがずっとある。

部屋の雰囲気は両部屋とも京都の趣きを感じる和モダンな雰囲気が特色になっている。

ロビーやエレベーター前などにも「伝統」「継承」「再生」をテーマにした

京町屋を意識したホテルならではのしつらえが施されている。

京都の旅はとにかく歩くため、足腰を癒せる大浴場はとても価値がある

大事な設備だということが最近感じるようになった。

当ホテルも湯どころ「華」という人工炭酸泉と

和モダン空間を愉しめる大浴場が用意されていて素晴らしい。

以上、様々な点で当ホテルが京都が誇る地域力の向上に貢献している宿泊施設と認められ、

令和元年11月15日に「京都らしい宿泊施設」として京都市長より表彰をされている。

また、ロビー出口近くにホテル情報として「本日の祇園祭情報」を

宿泊客に提供しているのもおもてなしとして素晴らしいことだ。

朝食会場の1階レストラン居様(IZAMA)、6:00~10:00。

ここがまた素晴らしい。

想像するに三井ガーデンホテルは外部にここの運営を委託したのではないか。

何かホテル運営とは違う、この世界のプロフェッショナル性を感じた。

全部で69席+蔵に個室が用意されている。

朝食は2,500円。

1階の和モダンな店内からは坪庭や新町通りの街並みで京都を感じながら、

京野菜など、地元産のこだわりの食材を使用した京都ならではの料理が楽しめる。

朝食は体に優しいおばんざいを中心とした和様ビュッフェ。

そして紅茶はなんと10種類もセレクトできる。

さらにデザートとしてどら焼きとわらび餅までも用意されているとは驚いた。

 

 

 


浦和エリア旨い店シリーズ ~番外編403~

2022-08-26 06:21:54 | 食~番外編(京都)

懐石料理 瓢亭本店

京都市左京区南禅寺草川町35

TEL 075-771-4116

定休日 木曜日

http://hyotei.co.jp/

瓢亭は約400年ほど前、南禅寺へお参りする人々の休憩所として庵を結んだのが始まり。

この地は東海道の裏街道すじであったことから、

旅人はここで旅衣を更え草鞋を新たにして三条大橋へ向かったものでした。

当店は京都を代表する茶懐石の料亭の1つで料亭の暖簾を掲げたのが天保8年。

南禅寺門前の素朴な腰掛け茶屋から始まったのは前述した通りだが、

この玄関にはその名残りがあり、発祥を偶ばせる表構えがゆかしい。

平屋で看板1つ掲げず、床几と笠とわらじを飾っている。

そこに建つわらぶきの一棟はその歴史を語っている。

わらぶきの建物の横を抜けていくと素晴らしい苔の有名な

坪庭的な石畳の通りを過ぎていくと互い互いが離れの一軒家になっている部屋に案内された。

玄関から部屋までの通りをゆっくり歩むだけで

京都の「佇び」「寂び」の美意識が伝わってくる素敵な空間だ。

こんもりした林の中に点在している各部屋。

その中にさらさらと流れるせせらぎがあり、

小川の大きさのわりに大量の鯉が回遊している。

食事の途中、窓越しからこの鯉に餌をあげている

当店の有名な料理人店主高橋英一氏の姿が見えた。

2009年ミシュランガイド京都大阪版で当店は三ツ星を獲得。

これに対し当時の同店店主高橋英一氏は

「出る出ないはよういわんけど、まあ出えへん方がええわなあ」として

掲載拒否の姿勢を見せたがミシュラン側は掲載を強行した。

2013年、14代当主高橋英一氏は京都府指定無形文化財

「京料理の会席料理」の保持者に認定された。

スミダマンが通されたのは当店で一番古いという約400年前の建物。

いかにも茶懐石にぴったりの部屋。

何か歴史の重みの中でこれから京茶懐石のコースが始まろうとしている。

ここでさらに部屋の中の日本建築の素敵なディテールを紹介してみましょう。

手作りの硝子がはめられた障子戸の向こうには緑があふれるお庭が見える。

天井の古風な竹が歴史の重みを感じさせる。

京都は夏になると簾に変える。

仲間さんによると一連のこの作業が大変らしい。

また、料亭のすごさはさりげない室礼(しつらえ)。

この気配りが都人の気配りを表している。

料亭の床の間の掛軸は室礼の最たるもの。

この部屋の掛軸は富岡鉄斎の作品とか。

各部屋には専属の仲居さんが付き、料理運び、そして説明などのおもてなしをしてくれる。

当店は廊下など玉石が敷かれバリアーが沢山あり、着物姿で動くのは大変だと思う。

各料理の器も茶懐石のスタイルに従って趣き、味わいがある。

それでは瓢亭さんの懐石料理のスタート。

先付は海老、たこ、かぼちゃ、レンコン、姫おくらにトマト餡のソルベをかけた料理。

ガラスの器がとても涼しげだ。

お造りは夏の京都といったら鱧、明石の鯛等々を土佐醤油、塩、ゆずオイル仕立てのトマト醤油に

お好みでつけていただく。

鱧煮とひすい茄子のお椀。

味も上品で素晴らしいがその姿が洗練されていて美しい。

瓢亭の名物、一子相伝の瓢亭玉子という半熟煮抜き玉子。

粽風になっているのは鯛の寿司、たこの田楽、トウモロコシの真丈。

そしてガラスの器の料理はがらさ海老とクラゲの香酒漬け(?)

7月の京都の代表的な食材はやっぱり鮎。

鮎の料理法はやはりシンプルだが技がいる塩焼き。

蓼酢をつけて食する。

アー幸せ!

パプリカ、フルーツトマト、いちじく、ウニ、秋田産のじゅんさいを白和えにした逸品。

隠し味ははちみつ。

このレシピは14代(80歳)から15代(40代)への流れで

15代の考えたものでは?と勝手に推測した。

穴子と賀茂茄子、ししとう、その上にラッキョウのもみじおろしを乗せたものと

穴子の骨から取った出汁のあんかけ。

気持ちはわかるがラッキョウはちょっと浮いていた感じだった。

そして最終段階、〆に鱧ごはん。

これはすごい。

唸るほど美味かった。

デザートも超ハイレベル。

メロン、桃のコンポート、卵のアイスにモリッシュの酒ジュレ、オリーブオイル入り。

最後に京菓子司嘯月(しょうげつ)の水々しい「青紅葉」でおしまい。

やはり瓢亭さんは一度は来なくてはという気持ちの期待に

それ以上応えてくれたすごい料亭であった。

いつまでも残ってほしい、続けてほしいと心から思いました。

瓢亭本店は1棟ずつ独立した茶室が建てられ創業当時(1837年オープン)から

そのままの茅葺屋根の建物だが、2015年には改修工事を終えた。

98席(78席、座敷20席)ある。

瓢亭はこの本館と隣り合わせに別館(2017-12-18付 番外編174参照)があり

究極のおかゆとして美味しんぼにも取り上げられた粥などが有名だ。

本店は完全予約制で因みに15代は金沢「つる幸」で修業したとの事。

 

 


八大神社と一乗寺下り松

2022-08-25 06:11:12 | 旅 ~京都

詩仙堂のほぼ隣りに位置している「八大神社」。

一乗寺下り松の決闘で名高き剣聖宮本武蔵ゆかりの神社でも有名だ。

創建は1294年(永仁2年)一条寺の産士神として祇園神社から勧請され、

「北天王」「北の祇園社」とも称される。

京の東北「表鬼門」に位置していることから方除の神として知られている。

https://www.hatidai-jinja.com/

当神社の旧社格は村社で、主祭神は祇園神社からの勧請ということで

すさのうの命(牛頭天王)、稲田姫命、八王子命、

また、崇徳天皇、伊予親王、藤原夫人、橘逸勢、文室宮田麻呂、吉備真備、火雷神の

八所御霊を祀ったことが八大の由来ともいわれている。

応仁・文明の乱で焼失した後、安土・桃山時代に再建され、

現在の本殿は大正時代に造営されたものです。

この宮本武蔵像は平成15年御鎮座710年を迎え武蔵の決闘から

400年を迎えることから宮本武蔵像が建立された。

これは決闘当時の再現ということで、とっても若い頃の宮本武蔵です。

慶長9年(1604年)八大神社境内地(一乗寺下り松)において、

剣聖宮本武蔵が吉岡一門と決闘したと伝わる。

この古木は決闘当時の松の一部であり、

昭和20年に神社に遷され、御神木として祀られている。

本殿の一段下の片並びに7棟並んでいたお社。

これが何かわからないが、本殿に負けずに存在感のあるお社に見えた。

当神社はこんもりした森の中に静かに佇んでいて、蝉の声が松尾芭蕉の俳句ではないが

シンシンと染み入ってきてここは一体どこ?と瞬間わからなくなるほど

人気のない印象的な神社であった。

境内の一角に置かれた木のたらい。

水の中には数色の美しい玉が沈んでいる。

これは何かと思ったが水みくじであった。

水に浸すと図柄・文字が浮かんでくるという仕掛けだ。

神社から坂を200メートル下りた左側に宮本・吉岡決闘の地「一乗寺下り松」がある。

ここは近江から比叡山を経て京に通じる平安時代からの交通の要衝で

この松は古くから旅人の目印として植え継がれ、現在の黒松は5代目に当たる。

江戸時代はじめ、この地で剣客宮本武蔵が吉岡一門数十人と決闘を行った伝説が有名で

ここから東へ200メートルのところにある八大神社の境内に

決闘を見下ろしたという初代の松の古株が保存されている。

武蔵は決闘に向かう途中、同神社で神頼みをすることを思い立ったが、

神仏に頼ろうとした自分の弱さに気付き、直前でやめたという話もある。

この一乗寺下り松のすぐ向かい側に八大神社の石鳥居、一の鳥居がある。

平安中期からこの辺りにあった一乗寺という天台宗の寺が地名の由来となったが、

南北期の動乱以降、衰えて廃絶した。

 

 


圓光寺

2022-08-24 06:01:31 | 旅 ~京都

昨日紹介した詩仙堂のごく近くの静かな住宅地の中に圓光寺はある。

当寺は瑞厳山と号し臨済宗南禅寺派に属する。

慶長6年(1601年)に徳川家康は国内数学の発展を図るため、

足利学校第9代学頭・三要元倍禅師を招き、伏見に圓光寺を建立し学校とした。

圓光寺学校が開かれると僧侶を問わず入学を許可した。

また、孔子家語・貞観政要など多くの漢籍を出版し、

これらの書物は伏見版または圓光寺版と呼ばれる。

当寺には出版に使用された木活字(重文)が現存しており、

我国出版文化史上特筆すべき寺院であるといえる。

その後、圓光寺は相国寺山内に移り、

さらに寛文7年(1667年)現在の地に移転した。

山門を入ると枯山水「奔龍庭」が目の前に広がる。

この枯山水庭園の作者は当寺の住職だと聞いた。

他の古い枯山水のお庭とは一味も二味も違うものを感じた。

渦を巻き、様々な流れを見せる白砂を雲海に見立て、

天空を自在に奔る龍を石組であらわした平成の枯山水である。

龍の頭部と背中付近にそびえ立つ石柱は、かつて当寺の井戸の部材として使われていたもの。

荒く切り立った石柱は、龍の周囲に光る稲妻をも表現し庭園全体に躍動感を与えている。

また、この庭園はあえて未完のままになっていて、

眺める方がその余白を埋め、それぞれの心の中で完成させてほしいとの事。

最後の写真の奥の方には京都の市街地が見えるように

当寺は高いところのロケーションにあるのがわかると思います。

宝物館瑞雲閣には円山応拳筆の「雨竹風竹図」(重要文化財・・・2枚目)、

松下寿老人図、渡辺始興筆(1枚目)ほか、圓光寺版(伏見版)、

木活字(重要文化財)・・・慶長4年(1599年)家康公に贈られた日本で最古の木活字。

伝運慶作本尊先手観世音菩薩坐像などの文化財がある。

このお庭は「十牛之庭」の一部。

新緑の時期には眩い緑と生命の躍動を感じる。

今キャンペーン中(6月25日~9月30日)の「そうだ京都、行こう」京の涼さがし

影の涼編では建仁寺、天龍寺、常寂光寺そして当寺圓光寺が紹介されている。

本堂玄関の正面襖絵が華やかで今風。

目にその存在を訴えてきた。

この絵は「琳派彩還」といって17世紀初頭に起こった琳派が400年後の21世紀、

螺旋状の時の流れを巡り還り、新しい時代の感性を取り入れ

彩り鮮やかに再現されることを新たな言葉「琳派彩還」として言い表している。

牛を追う牧童の様子が描かれた「十牛図」を題材にして

近世初期に造られた池泉回遊式庭園「十牛の庭」。

周囲の山々を取り込んだおおらかな造りは、

尼寺として長い歴史を持つ圓光寺の家風そのものであります。

庭園南側には洛北最古の泉水、栖龍池(5枚目の写真に少し映っている)があり、

先人たちはここからの眺めを絶景として褒めたたえたといわれている。

十牛図に描かれた牛は人間が生まれながらに持っている仏心をあらわしている。

牧童が禅の語りにいたるまでの道程であり、

懸命に探し求めていた悟りは自らの中にあったという物語だ。

応拳竹林と呼ばれている竹林が十牛之庭を囲み、それは素敵な空間を造り上げている。

本当に素晴らしい。

本堂に上がると富岡鉄斎が明治期に訪れた際に描いたという「米點山水図」や

運慶の作と伝わる御本尊「先手観世音菩薩坐像」。

そして裏には岩倉具視が作ったという茶室「待月庵」の姿も。

縁側に敷かれた緋毛氈の上に座って感慨にふけっている青年。

ポエムですネー。

絵になっていますネー。

圓光寺は明治以降、日本で唯一の尼僧専門道場でした。

その当時の禅堂が現存しており、毎日曜早朝に坐禅会を開いている。

鐘楼が境内にひっそりと建っている。

除夜の鐘撞きは素晴らしいとか。

そういえば京都には数えきれないほどのお寺があり

鐘楼を有しているところも相当あるはず。

大晦日には一斉に除夜の鐘を打つはずで市内中がどんなになっているか一度体験したいものだ。

中門から庭園「奔龍庭」を望んだ一枚。

圓光寺はあまり知られた寺ではないが、とても雰囲気のあるお寺で

すっかり気に入ってしまった。


史跡 詩仙堂

2022-08-23 06:12:22 | 旅 ~京都

詩仙堂は曹洞宗の寺院で山号は六六山。

本尊は馬郎婦観音(めろうふかんのん)。

現在は丈山寺という。

ここは徳川将軍家の家臣であった石川丈山が寛永12年(1672年)に90歳で没するまで

ここで詩歌三昧の生活を送っていた山荘跡であり、国の史跡に指定されている。

この門は入口に立つ「小有洞の門」。

丈山はここに「凹凸窠」十境を見たてた。

この門は参道をのぼりつめたところに立つ「老梅関の門」。

現在、詩仙堂と呼ばれているのは正しくは凹凸窠(おうとつか)であり、詩仙堂はその一室である。

凹凸窠とは、でこぼこした土地に建てた住居という意である。

ここは堂上の楼で「嘯月楼(しょうげつろう)」といわれている。

この建物を造った石川丈山は天正11年(1583年)三河国(現在の愛知県安城市)に生まれた。

石川家は父祖代々徳川譜代の臣であり、丈山も16歳で家康公に仕え、近待となった。

松平正綱、本多忠勝等はその親族である。

33歳の時、大坂夏の陣では勇躍先登の功名を立てたが、

この役を最後として徳川家を離れ、京都にて文人として藤原惺窩(せいか)に朱子学を学んだが、

老母に孝養を尽くすため、広島の浅野候に十数年仕えた。

その後、母を亡くした丈山は54歳の時に京に帰り、相国寺畔に住居した。

寛永18年(1641年)59歳で詩仙堂を造営し、没するまで30余年を清貧の中に、

聖賢の教えを自分の務めとし、寝食を忘れてこれを楽しんだ。

寛文12年(1672年)5月23日に従容として90歳の天寿を終えた。

建造物は後の寛政年間に多少変更を見たが、天災地変の難を免れ、

庭園と共に往時をそのまま偲ぶことができる。

そういえば現在の住職も石川さんという。

石川丈山の一族の方でしょうか?

堂上の楼の中に入ると立派な祭壇のある部屋に出る。

ここには禁門の変(蛤御門の変)で自害した

久坂玄瑞(25歳)と同門下の寺島忠三郎(22歳)の位碑が祀られていた。

ここは詩仙の間。

石川丈山がこの堂に掲げるべき36詩人と、その詩を選定したのは寛永18年で59歳の時であった。

これは我が国の36歌仙にならったもので、その選定には林羅山の意見も求め、

左右18人それぞれの組合せに意味をもたせた。

また、2枚目の写真に写っている大きな扇のような彫物は左甚五郎作の

伏見桃山城の欄間と言われている。

嘯月楼から見た庭園がまた素晴らしい。

詩仙堂の四季にはそれぞれ趣きがあるが特に5月下旬のさつき、11月下旬の紅葉等が素敵だという。

庭園から見た嘯月楼と読書室である至楽巣(しらくそう)から見た嘯月楼。

3層の造りが個性的でしかも趣きがありますねー。

読書室の至楽巣(猟芸巣)の間は赤のじゅうたんが市松模様に敷かれ、

他の部屋との対比になっている。

詩仙堂には以前イギリスのチャールズ皇太子ダイアナ妃も訪問したようで

その時の記念の写真が飾られていた。

部屋を渡っていくと途中で台所コーナーに出る。

京都で言うかわいらしい「おくどさん」があった。

庭園から見た母屋にはどうしてもシャッターを押したくなる。

とても風情のある素晴らしい建物だ。

こちらは母屋から少し離れたところにある残月軒。

そして庭園の下の方に百花を配したという「百花塢」。

丈山が考案した園水を利用して音響を発し鹿や猪が庭園を荒らすのを防ぎ、

丈山自身も閑寂の中にこの音を愛し老隠の慰めとしたという僧都(そうず)。

(一般的には鹿おどしともいう。)

ちなみに詩仙堂の鹿おどしが発祥の地と言われている。

すっかりこの3層の建物が気に入ってしまったので3度表側からのアップをアップしました。

いい建物ですネー!

こちらも「そうだ京都行こう」の詩仙堂が取り上げられた時のポスター。

キャッチコピーは「そんなに急いで紅葉の秋に来られちゃ、ツマンナイ。」でした。

 

 


曼殊院門跡

2022-08-22 06:17:30 | 旅 ~京都

曼殊院は、もと伝教大師の草創に始まり(8世紀)、比叡山西塔北谷にあって東尾坊と称した。

天暦元年(947年)当院の住持、是算国師は菅原氏の出であったので、

北野神社が造営されるや勅命により別当職に補せられ、

以後歴代、明治の初めまでこれを兼務した。

また、天仁年間(1108~平安後期)、学僧、忠尋座主が当院の住持であったとき、

東尾坊を改めて曼殊院と称した。

現在の池に移ったのは明暦2年(1656年)で、

桂宮智仁親王の御次男(後水尾天皇猶子)、良尚法親王の時である。

親王は当院を御所の北から修学院離宮に近い現在の池に移し、造営に苦心された。

庭園、建築ともに親王の識見、創意によるところ多く、

江戸時代初期の代表的書院建築で、その様式は桂離宮との関係が深い。

歴代、学徳優れた僧の多かった名刹である。

当院の周辺の土塁には青々とした素晴らしい苔が生え、

その上を大きな青もみじが茂り、ホッとする時間と空間を作っている。

現在は通用口になっている重要文化財の庫裡。

石造の大黒天は鎌倉時代のもの。

甲冑を帯びた姿で仏教の守護神となしている。

入口の大妻屋根の額「媚竈」は良尚親王筆。

論語八佾篇に「その奥に媚びんよりは、むしろ竈に媚びよ」を引用した。

炎天下の中、無心に草取りをしていた院の女性が印象深かった。

庫裡と次の間の間にあった小さな枯山水の庭。

手の縁に閻魔様の人形で「危険 載ってはなりませぬ」と。

庫裡(台所)の中のおくどさん。

このあたりから基本撮影禁止なので、虎の間、竹の間、孔雀の間、滝の間、十雪の間など、

いくつもある重要文化財は残念ながら紹介できない。

非常に貴重な手紙など展示されていたが撮影禁止です。

ところで門跡寺院とは皇族・貴族の子弟が代々住持となる別格寺院のことであり、

青蓮院、三千院(梶井門跡)、妙法院、毘沙門堂門跡と並び、

天台五門跡の1つに教えられている。

そして国宝の黄不動、曼殊院本古今和歌集をはじめ、

多くの文化財を有し、紅葉の名所でもある。

京都では各家の戸口にこの疫病退散の御札が貼られているのを見かける。

984年、一元三大師良源は鏡の前で心静かに瞑想していると

この骨ばかりの鬼の姿が映り、弟子にその姿を写し取らせ、

版木に彫って刷り上げ疫病退散の御札として配布した。

重要文化財の大書院、小書院の前に広がる名勝庭園指定を受けている遠州好みの枯山水庭園。

この枯山水は禅的なものと王朝風のものが結合して、日本的に展開した庭園として定評がある。

大書院、小書院の釘かくしや引手等に種々の意匠(瓢箪、扇、等又、富士の形の七宝の雲)を

こしらえたものがあり文化財の貼紙が付いている。

このふくろうの手水鉢は京都検定2級の問題に出たと坂本ドライバーが説明していたが、

2級はそんな細かい問題が多く、とてもチャレンジする気も起きない。

JR東海の「そうだ京都行こう」の秋・紅葉の曼殊院門跡を取り上げたポスター。

キャッチコピーは「一年なんてアッという間に過ぎていく。それじゃいけない。」

そういえば当院には確か30代の頃に来たっけ。

その時は真冬の1月で床が氷のように冷たく足の裏が丸くなった記憶がある。

あれから月日はアッという間に流れ、このポスターをしみじみと見入ってしまった。

人生を振り返った瞬間であった。

 

 

 

 


浦和エリア旨い店シリーズ ~番外編402~

2022-08-20 06:12:43 | 食~番外編(京都)

すし・めんるい 満寿形屋

京都市上京区桝形通出町西入ニ上町177

TEL 075-231-4209

定休日 水曜日

http://aquadina.com/kyoto/spot/36/

若狭鯖街道、元祖鯖寿し、そして京うどん、そばの名店。

出町桝形商店街アーケードを入ってすぐのところにある創業100年の老舗の満寿形屋さんだ。

当店は度々TV等でも取材を受け、先日はNHK・BSプレミアムで

タレントの西川貴教がリポーターをやっている「いけずな京都旅」でも放送されたばかりだ。

当店は12時開店で11時50分に着いた時にはすでに長蛇の列。

幸いドライバーの坂本君が並んでいてくれると言ってくれたので、

約40分、商店街を見て歩くことができた。

店頭のショーケースも古めかしく、豊後産と書かれたプレートの前に

名物の鯖寿司4皿が雑然と置かれていた。

そしてなぜか大きな松茸もデーンと鎮座していた。

このショーケースの後ろが当店店主の職場。

厨房で真剣に鯖寿司を作っていたのが「いけずな京都の旅」で

西川氏と軽妙な会話をしていた明るい店主だ。

その時の印象的な言葉が「水が出なくなったらやめます。」

メニューは店外にホワイトボードで、店内には壁に木札で、

そしてテイクアウト用か鯖姿寿司(極上1本6,000円、特選1本5,000円)、

それ以外に、とろ鉄火巻、巻寿しもやっているようだ。

きつねうどんが660円、たぬきうどんが770円、そばは京都名物にしんそば1,100円のみ。

そしてなんと自家製中華そば770円までやっている。

また、丼物として他人丼(黒和牛)990円、

なんといっても当店の名物メニューは鯖寿司うどんセット1,100円らしい。

狭い店内を見渡すと一際目立った日めくりカレンダー。

日にちが漢数字のものはほとんど見た記憶がない。

いかにも京都らしいといったカレンダーだ。

ご覧のように店内は狭く、昭和の雰囲気が色濃く残る庶民的な店で、

テーブル4人掛けで6卓、24席しかない。

下の写真の扉の先にはまだウエイティングのお客が列を成しているのが写っている。

先ほど書いたがスミダマンも開店2回転目で並んで入店するのに約50分かかった。

そして通された席が西川貴教が座った席だった。

これが坂本ドライバーが注文した名物・鯖寿司うどんセット1,100円。

これには七味が付いている。

TVでも言っていたが、当店の命は水(地下水)。

これは当店に限らず京都の料理店は命の地下水を使っているところが多い。

この地下水(井戸水)は軟水で出汁を取るのに最適な水だ。

この出汁の効いた汁に口当たりの優しいうどんがマッチして

奥の深い美味のうどんとなっている。

こちらはスミダマンがお願いした鯖寿司うどんセットで、

うどんをきつねにチェンジしたもの。

汁はややとろみがあり、おあげも若干甘味がある。

ネギはもちろん九条ネギ。

味?すごく優しい旨さですネー。

京都の料理は実に繊細だ。

これは相方がオーダーした、たぬきうどん770円。

京都のたぬきうどんは刻んだ油揚げがのったあんかけ。

一般的に「たぬきうどん」というと揚げ玉がのったうどんを指しますが、

京都では油揚げを短冊状に切り、九条ネギとともにうどんの上にのせて

あんかけにしたものを「たぬきうどん」という。

当店のはその上におろし生姜がのっている。

お味の方は?と聞くと一言では言い表せない美味しさ。

ファンタスティック、グレート、超最高に美味かったそうだ。

そして当店の看板メニューの鯖寿司。

浅めの〆具合と肉厚の豊後産の鯖が特徴。

5切2,250円から2,500円とその日の鯖の種類によって値段が変わってくる。

目の前に海がある江戸とは違い、海の遠い京都で根付いたのは塩と酢で締めた寿司。

地下200mから湧き出る地下水を使い、

古くから伝わる調理法で店の看板メニューの元祖「鯖寿司」。

木の芽山椒の風味がよりアクセントになり、口いっぱいに芳醇な旨みと風味が広がる絶品だ。

これもTVで見たが京都国際写真祭2020が京都市内各地で9月19日から10月18日まで開催された。

この写真祭は多様性に富んだ国内外のアーティストの写真を

京都ならではの空間を活かして展示する写真展で第8回のテーマは「VISON」。

ここ出町桝形商店街ではセネガルのアーティストが店主を撮影した

ポートレート作品が登場した。

左上端の鯖1本姿寿司を持ったポートレートが満寿形屋の店主だ。

 

 


出町桝形商店街

2022-08-19 06:03:29 | 旅 ~京都

今年の6月、長岡京で1日お世話になった彌榮自動車の坂本ドライバーに

今日も1日一乗寺エリアを案内してもらった。

彼は広島出身で高野山の宿坊で外国人相手の仕事をした後、

3年前に外国人観光客対応のハイヤーのドライバーとしてヤサカタクシーに入社。

あいにくコロナ禍でスタートした為全く目的の仕事ができず、

最近ようやく修学旅行の生徒達の仕事で忙しくなってきたと言っていた。

彼は京都検定2級を取得。

3級取得のスミダマンとは大いに京都の話題で盛り上がる関係となった。

(2022-7-7付、京都の街あれこれPART9の6枚目参照)

この商店街は出町商店街の一角桝形通りにある全長164mのアーケードで、

食料品店や衣料品店を中心に44店舗が軒を連ねている。

また、この地は京都御苑からもほど近く、鯖街道の終点としても知られている。

先日「京都の街あれこれPART10」にもアップしましたが、

「出町ふたば」さんは伝統的な和菓子を売る、昔ながらの老舗和菓子店さん。

鴨川のそばのノスタルジックなムードが漂う商店街に明治32年から続く老舗「出町ふたば」は

平日にも関わらず店の前には途切れることのない人の列がご覧のようにずらり。

なかでも人気の「名代豆餅」。

塩茹でされた大きめな黒豆がたくさん入っている豆餅。

ふわふわ柔らかなお餅に包まれたたっぷりの大粒の豆。

全体的に塩が効いていて夏の塩分補給にもぴったりだ。

その人気の理由を4つ。

(その1)あくまでおやつの親しみやすさ

(その2)厳選した赤えんどうがアクセント

(その3)2度づきするから餅がきめ細やか

(その4)餅の風味と豆の歯ごたえが絶妙

この商店街は「ことまきプロジェクト」

「テレビアニメ作品 たまこまーけっと」「京都国際写真祭オープン会場」など、

活性化のために様々なことに取り組んでいる。

アーケードの上には「今日も元気だ!」「うれしいなあ たのしいなあ」

「いつもあなたのそばにある」などのスローガンを掲げている。

墨で書かれた手書きの文字が人の温もりを感じさせる。

鯖街道に因んで平成20年(2008年)12月にアーケードに吊られた

サバのモニュメントが造られ、公募により「わかさばちゃん」と名付けられた。

平成29年(2017年)12月28日に開館した映画館「出町座」。

最近できたばかりなのになんとなく昭和チックな香りがする。

昭和47年より天ぷら一筋で頑張っている「天鈴」さん。

うどん、和そば、生ラーメンも販売している。

京・出町・豆腐工房の「いづもや」。

国産大豆(滋賀県産)、にがりにこだわった各種豆腐、

北海道産男爵いもを使用したコロッケやカツも取り揃えている。

美味しい天然魚をより安く!をモットーに季節感・鮮度を重視した

旬魚にこだわっている「さが喜」さん。

こちらの旦那さんと話をしたがすごく感じがよかった。

活気一番、出町の「井上果物店」。

季節ごとに変わる豊富な果物を安く仕入れ頑張っている。

164メートルある商店街の反対側出口、どことなく錦市場とイメージがダブるが、

まだ観光地化されてなく、ましてやコロナ禍で、いまいち活気はなかった。

https://www.norohonten.co.jp/

とうとう来てしまいましたヨ、京漬物「出町野呂本店」。

柏井寿さん著の「おひとりからのひみつの京都」にも書かれている当店の漬物は

家庭的なやさしい自然な味わいでありながら、プロならではの小技を利かせ、

店先に並ぶどの漬物もこれぞ京漬物という至極の味がする。

当店は京都駅伊勢丹の地下の一角にほんの少し売る場があるが、基本ここでしか買えない。

実は伊勢丹浦和店でやっていた京都展に出店。

ここの若大将とは何度も会ったが、

この日は出かけていてお姉さんが対応してくれた。

(2021-11-25付ブログ7枚目参照)

鯖街道の終点にあることにちなみ、

地元の子供によりサバなどの海の生物が描かれた陶板がアーケードの歩道に埋め込まれている。

出町枡形商店街の人々の思いが伝わってくる。