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今回は、後藤新平 氏(台湾統治時代41才)から学ぶ、彼の残した言葉
後藤は数々の名言をも残していますが、死の間際に言ったという
『 よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。
人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ 』
後藤新平は台湾近代化の父と言われています。
・今もそのまま残る南北縦貫鉄道、港湾、道路、ダムの建設。
・苗木の無料配布と補助金を交付し造林事業を推進。
・台湾銀行を設立して通貨金融制度を確立。
・阿片を始め、纏足、辮髪、先住民の首狩りなどの悪習の追放。
・学校を作り教育制度の整備。
・新渡戸稲造主導の製糖業などの産業育成
・台湾の気象に合ったコメ(蓬莱米)などの改良を始めとする農業指導
また、彼は事に当たって、こんな考えを現してます。
「社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、
無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって現地を知悉し、
状況に合わせた施政をおこなっていくべきである」という方針、つまり簡単に言うと
「ヒラメに鯛の目を付けることはできない」←<彼のこの
表現も知られてますね!
という「生物学的理論」的考えです。なかなか的を射た比喩ではあります。
後藤新平はもともと医師でした。しかし、その卓越した政治手腕と何よりも先を見通す卓見は、
医師という職業だけにとどまることはなく多くの業績を残しています。
満鉄初代総裁。 拓殖大学の創立。(同大学はそのせいで今も台湾との縁が深い)
日本ボーイスカウトの初代総長。 日本最初のラジオ放送をした東京放送局初代局長。
そして関東大震災後の帝都復興計画。(東京の現在の幹線道路網は後藤の主導で構築され現在に至る)
シチズン時計と言う名を頼まれて命名。
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著者の蔡 焜 燦 氏は「祖国・台湾よ永遠なれ!」「かつての祖国・日本よ永遠なれ!」
私は、”二つの祖国 ”の弥栄を祈り続ける。と ※ 蔡 焜 燦 の遺言とも言える著書の締めくくりの言葉
2017.7.17没
蔡焜燦氏は、こよなく日本を愛し、自ら、“親日家”を超える“愛日家”と称して日台交流の中心的役割を果たしてきた。
これまでどれほど多くの日本人が彼を訪ねていったことか・・
【歩きメモ】
2223歩・1.6km・20m・13g・1500kcal
日記風川柳
「日が差して 台湾紀行 司馬氏編」
「金美齢 サムライ魂 いぶし銀」
「漫画家で 小林よしのり 代弁を」
「学ぶべし サイコンサンの 心意気」
-1年前今日のブログ-
Q
MELOGOLDにこの頃はまってます!メロゴールドは (グレープフルーツ×ブンタン)× ホワイトグレープフルーツの掛けあわせでできた果物です。例えますと、ホワイトグレープフルーツの酸味を抑え甘味を引き立たせたより......
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