びわ湖・勝手気ままな日々!

温故知新!大切ですね、次代に生きる方々の知恵と活力となります。令和時代を健康で楽しみましょう。

先人に倣う!ーその2

2021年01月29日 | 日記

先人に倣(なら)う  

日本と台湾の歩みが教えるもの 早坂 隆

昨日、〇 李登輝元総統の言葉 〇「六氏先生」の献身性

昨日に残りについては続編でと申しました。

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後、残る4つ、〇八田與一の嘉南平野の大規模な灌漑工事の現場に

幸いながら訪問することが出来、既にその様子をブログupしている。

また〇二・二八事件の勉強会の様子も既にブログupしております。

今回は、私が学ばして頂いた中、詳しく知らなかった。〇飛虎将軍

の自己犠牲について早坂氏レポートから自分なりに説明させて頂き

たいと思います。

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〇 八田興一の功績  〇 飛虎将軍の自己犠牲 〇 二・二八事件下で

〇 継承される日本人の心             示された正義と勇気

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〇 飛虎将軍の自己犠牲 

昭和19年(1944)には、日本を巡る戦況はますます悪化した。日本領台湾も

米軍の攻撃に晒された。10月12日には、台湾各地へ大規模な空襲が開始され

「台湾沖航空戦」の勃発であった。米軍投入の戦闘機総数は1400機に及ん

だ、これを迎え撃つ日本軍は30機ほどであった。その中の一機に搭乗していた

のが海軍兵曹長の杉浦茂峰であった。茨城県水戸市出身の杉浦は、海軍飛行

科練生(予科練)、飛行練習生過程(飛練)などを経て台湾に赴任していた。

そんな杉浦が台南の空で、米軍の最新鋭戦闘機群を相手に戦うことになった

である。零戦32型に搭乗した杉浦は、懸命に操縦桿を操ったが、激しい交戦

ついに被弾。機体は尾翼部から黒煙をはきながら高度を失っていった。機体

海尾寮という村に向かって真っすぐに落ちて行った。その光景を見ていた村

達は恐怖に慄いた。しかしその後、機体の軌道が明らかに変化した。体勢を

て直した零戦32型は、村内に落ちることなくそのまま村の東側を通過。郊外

畑地の方へ蛇行しながら飛び去って行った。その直後、機体から落下傘が飛

出した。機体は空中爆発した。脱出した杉浦の背後には米軍機が肉薄して、

烈な機銃掃射が彼を襲った。杉浦はこうして命を落とした。享年20才

その後、村の人々は口々に、「機体が村に直撃するのを避けて、搭乗員は逃げ

遅れた」「本当なら彼はもっと早く落下傘で逃げられた。それをしなかったの

は、村の人を守るためだった」戦後、海尾寮村の人々は杉浦への恩義をわすれ

ないよう。小さな祠(ほこら)建て、その後、祠は「廟」に拡充され、今に至

っている。その名を「飛虎将軍廟」という。「飛虎」は「戦闘機」、「将軍」

は「兵士」の尊称である。 以上

 

(参考)アドレスclick

https://www.city.naka.lg.jp/sp/page/page002054.html

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※既にブログupした案内は後程にさせて頂きます。


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