宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

(四)宝について(5)

2014-10-26 08:16:59 | 祈り
        (前日からの続き)
 自分自身、こうやりたい、ああしたいとかいう
意気込みは大事だけれど、我(が)を出して
競争心が過剰になると、欲と二人連れになってね、
そのことによって執着が生まれ、その執着から
把われが出て来て、その把われがその人を離さ
なくなった時に、これが苦になっていく訳ですから、
その苦にならない為には、大事なことは、
その時に、守護霊さん守護神さんよろしくお願い
します、私ガンバリますが御心にお任せします─
というような気持ちで頑張ってゆくと、これが
執着にも苦にもならない。

 ところが、やっぱり人間ですから、色々頑張っ
たのに、あっちの方が成績が良くて、私の方が
成績が悪かったというようなことに把われて
くると、純粋に頑張っていても、だんだんと
頑張れなくなってきて、夜も眠れなくなって
きてしまう。次の日に仕事に行くのに、すごい顔
して行かなくちゃならないとか、そういうことに
なってくるでしょ。それは結局何かというと、
自分の気持ちの中で頑張ればいいものを、私と
あの人とか、相手と競争しようとするからです。
              (翌日に続く)

(四)宝について(4)

2014-10-25 07:10:55 | 祈り
        (前日からの続き)
 自分が体験してくるとね、神様の智恵
というのは私一人じゃなくね、色んな人に
色んなかたちで分けられている。その分け
られているものを、皆がそれぞれ自分自身を
いとおしんで、自分自身をいたわって
生きていく。神様から与えられたその宝物が
出て来る。自分がその宝物を引き出す
のではなくて、その宝物の方から、その人
自身を導いてくれて、その人が本当に
生き生きと生きてゆけるような所まで連れて
いってくれる訳ですよ。
             (翌日に続く)

(四)宝について(3)

2014-10-24 08:07:42 | 祈り
         (前日からの続き)
 自分が無くなるということは、自分らしさが
なくなってしまうということではないんですね。
 つまり、自分自身が本当に神様というものに
生命を返してしまう、朗(ほが)らかに生命を
返してしまうと、そこから新しい自分が現われて、
そのことによって自分が生き生きと生きていく
ことが出来る。そういう事が私の身の上に
起こったわけですね。これは何も私だけの特別な
事ではなくて、私の場合は、何がそうなったのか、
そのスイッチは何だったのかというと、私は
神様に対して素直であった。その事だけなんです。
 それと、世界人類のために私の生命を使って
下さい─そういうお祈りをずーっとしてきたわけ
です。主の祈りの後にそういうことをずーっと
つけ加えて祈っていたんです。どういうわけか、
自分の存在を投げ出して、永遠者というものに
対して、そうやって祈ってた訳です。
 そうすると、私が計(はか)らって何かが
起こった訳ではなくて、神様の方で計らって、
そうして、お前の生命はもらった、覚悟はいいか!
と聞こえた時に、私はハイと言えたんですね。
 ハイと言った時に、一人の平凡な青年だった
者が、運命がコロッと変わってね、今こういう風
になって、今もこうやって説き続けているわけ
です。
             (翌日に続く)

(四)宝について(2)

2014-10-23 06:01:38 | 祈り
       (前日からの続き)
 人間というのは、何だかんだと思う
もんですね。今晩のご飯は何かしらとか、
人としゃべっても何か色々と浮かんで来る
もんでしょ。
 ところが、全く何も考えちゃいけない
ということ。
 例えば、雨の降る日に傘もささずにね、
車道の真中を歩いて、さあどうなる?
というような事をさせられたわけですよ。
だけど私はもともとが常識的な人間で、
常識から一歩も出たことがない人間でね、
カチンカチンの人間ではなかったけれど、
そういう常識的なところを持たされた人間が、
そういう一見すると非常識なところを
通ってね、そうして超常識にさせられた
というのは、個人としてはとても辛い
ことだった。けれども、それを通して、
結局は人間の智恵ではなくて、肉体を
もって生きているということは、神様の
智恵が神様の方から流れてくるんだという
ことが実感として判った。自分が直霊に
合体した時に、自分の身体でもって
判ったわけですね。心でもって判った
わけですね。

 それで、人間というのは、誰一人として
例外なくそういう風になっていける
ということです。つまり、人間は、
我が有って苦しむけれども、我というものが
無くなって空っぽになった時、神の智恵、
神智に満たされて、自分自身を大事にして、
相手も大事にして、自分を赦し相手も赦し
愛してゆく時に、本当に朗らかになってゆく。
            (翌日に続く)

(四)宝について(1)

2014-10-22 08:33:17 | 祈り
 話すときには何にも考えていないんです。空っぽ
なんです。思い浮かべるということもない、流れて
くるままにしゃべります。
 どこかの本にも書きましたけれど、うしろに
釈迦がいたり、キリストがいたり阿弥陀さんが
いたり、まあ色々忙しいわけですね。
 私はその司会役をやっている。かといって、私の
自分の中の人間性が壊れるということは全く
なくって、五井昌久という人間性でもって
しゃべっている。皆んなそう思っているけれども、
私には私というものは全く無いんですね。
 私心とか、あいつが憎いとか、そういう想いが
全くなくって、ただ相手の心が映って来る。
 例えば、私に何を聞きたいのか、この人にとって
何を答えてあげれば一番本心を開発してゆけるか、
そういうところだけを見て、私という個人が何かを
判断するのではなくて、そこで私を支えている
守護霊や守護神、神様の方で必要な言葉や知恵を
与えられて私がしゃべっている訳ですね。
 そういう風になるまでに三ヶ月間位、想念停止
というものをやらされたんですね。それは本の
中にも書きましたけれど、本当に思っちゃいけない、
何にも考えちゃいけないとね。
              (翌日に続く)