goo

花探し

2013-11-11 22:27:13 | 山も海も 晩秋の花旅

 

 御池岳の麓から、次に訪ねたのは東近江市妹町にある、道の駅 あいとうマーガレットステーションです。

 

 しかし残念なことに、コスモスの最盛期は既に終わっていました。

 

 それでも、写真技術を駆使して、それなりの絵を得ることはできました。

 

 

 コスモス畑の周囲を歩き廻り、光と花のバランスや構図を考えてシャッターを切ります。

 

 と言っても、「仕事」ではないので、作業を楽しむだけで、結果は・・・  

 問いません。

 

 

 次に、日野町のブルーメの丘を目指しました。

 

 駐車場に車を停めたのが15時半を回っていました。

 

 正面ゲートのチケット売り場の小父さんに、「何か咲いていますか?」と尋ねますと「コスモスが咲いているけど、もう殆ど終わりかけ」との返事でした。

 

 ゲートの入り口から見えるバラもショボショボしていました。

 

 

 

 と言うことで、入園料を払うのは次の機会にして、駐車場を出た先の、数百メートル先の休耕田が一面のコスモス畑となっていたのです。

 

 綺麗ですね~

 

 

 

 ここのコスモスも最盛期は過ぎていましたが、花数が多く、随所に傷みの無いコスモスが咲いていたので、構図には困りません。

 

 ブルーメの丘に入ったら、夕暮れ前に、ここのコスモスは楽しめなかったかもしれません。

 

 

 既に16時を過ぎましたが、同じ町内に日野ダリア園があるはずです。

 

 ダリアなら、ぎりぎりで花の季節に間に合うかもしれません。

 

 しかし、ナビに住所を入れ、途中から路肩の「日野ダリア園」の標示を頼りに走り、ダリア園の横へ車を停めると、既に門は閉まっていました。

 

 入口に開園時間が9:00~16:00と表示されています。

 

 ウ~ン そうだったか。

 

 でも、折角なので、園の周囲をぐるり歩いて、金網の隙間から中の様子をパチリ。

 

 

 

 空を見上げると、一面の雲に覆われ、太陽の姿が見えません。

 

 すぐに黄昏がやって来ます、流石にもう、今日の花探しは限界でしょう。

 

 

 さて、どうしようかな?

 

 取りあえず、まずはお風呂を探すことにしました。

 

 山登りの汗を流さなくては、とても眠れたものではありませんので。

 

 近くの大きな街を目指しました。

 

 そして、近江八幡市街で銭湯を見付け、さっぱりと汗を流した後、駅前のイオンで閉店間際にパック詰めの寿司と日本酒と焼き鳥を買って、野田町のコスモス畑の横に車を停めました。

 

 明日の朝、目が覚めたら、コスモス畑に朝日が満ち溢れる光景が楽しめるはずです。

 

 登山の疲れもあって、日本酒も二口、三口で、夢の中へと旅立ちました。

 

 

 

※ 他の記事へは index をご利用頂くと便利です。  

 

  山も海も 晩秋の花旅  index 

 

  その他の「花の旅」はこちら →  旅の目次

goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )

たえて桜のなかりせば

2013-11-11 19:04:41 | 山も海も 晩秋の花旅

 

 霊仙山から下りてきました。

 

 今日はこれから、滋賀県の南東部に花を訪ね、日が暮れた場所で一夜を過ごすつもりです。

 

 最初に目指したのは御池岳でした。

 

 もう既に13時を過ぎましたから、山には登らず、山容を見ておこうとだけ考えていました。

 

 御池岳のピークへ近づく道が東近江市君ヶ畑町にあるので、ナビに住所を入力して走りだします。

 

 しかし、この方法で上手くいったためしは、めったにありません。

 

 山容を確認するのであれば、近づき過ぎると山が見えなくなるからです。

 

 でも、「何となく山に近づきたい」と思うのが何故なのか、自分でもよく分かりません。

 

 滋賀県南東部は三年前の9月にヒガンバナを訪ねていますが、それ以外は私にとって馴染みの薄い場所です。

 

 ナビのままに走っていると、多賀町の犬上ダム湖の畔に出ました。

 

 

 緑に包まれた静かな湖で、特別保護区域に指定されているようです。

 

 カワセミ、ヤマセミなどが見られ、3月上旬にはオシドリが200羽ほどやって来ると掲示されていました。

 

 

 山の道を走っていると、突然「惟喬親王御陵」(これたかしんのうごりょう)の看板が目に入りました。

 

 惟喬親王って誰なの?

 

 すいません、私は本当に日本史に弱いのです。

 

 

 

 帰宅後に調べてみますと、

 

 惟喬親王は844年(承和11年)に文徳天皇の第一皇子として生まれました。しかし、惟喬親王の母方の紀氏より権力のある、太政大臣・藤原良房の娘、明子に第四皇子が生まれると、都を追われ、872年(貞観14年)には出家し、近江国の小野などに隠棲したのだそうです。

 

 惟喬親王は在原業平と深い交わりがありました。

 

 親王が、今の枚方市にあった渚の院で遊んだ時に、同行した在原業平が

 

 「世の中に たえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」と詠み、

 

 それに応えて誰かが

 

 「散ればこそ いとど桜はめでたけれ 憂き世になにか久しかるべき」と返した、

 

 という話が伊勢物語にあるそうです。

 

 

 私はこの後、御池川に沿った道を君ヶ畑町最奥の「この先通行止め」まで走りましたが、案の定、御池岳を見ることはできないままに終わりました。

 

 

※ 他の記事へは index をご利用頂くと便利です。  

 

  山も海も 晩秋の花旅  index 

 

  その他の「花の旅」はこちら →  旅の目次

goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )