昨日の朝日新聞『耕論』に,外圧をテーマとする3人の方の見解が紹介されていた。恐らく,相次ぐ「外圧」によるオリンピック組織委員会関係者の辞任・解任を受けてのことであろう。
猿田佐世さんは,外圧には市民団体が行った権利実現のための表現活動の結果のものと,国家権力が政策実現を目的として誘導したものがあることを指摘し,後者の例として,日本政府がアメリカのシンクタンクのWEBサイトに毎年5,500万円以上の寄付をしていることをあげている (これが本当だとしたら,ちょっとびっくりだ) 。いずれにせよ,国民はその外圧の由来を知り,受け入れるべきかどうかを自分で判断しなければならない,と述べている。
中野剛志さんは,日本は文明開化や戦後の民主化に見られるように,外圧がなければ変われない国と言われることがあるが,外圧は世界の各国に存在し,外圧によって近代化した国は日本以外にも多いことを指摘し,むしろ日本には外圧によって何かを変えようとする「外圧信仰」による自己催眠が存在するが,国際社会の一員として外圧と妥協するにしても,国民主権に基づいて行うことが大切で,この自己催眠には国を滅ぼしかねない危険性があると述べている。
斉藤美奈子さんは,日本の特徴は「恥の文化」であり,外の目を気にしてそれを行動規範とするという説に疑問を呈し,死刑制度,夫婦別姓,LGBT差別など,国連や国際社会からいくら言われても変わろうとしない鈍感さが日本にあると述べている。そして,しかるべき外圧に呼応する内圧が存在することで,社会は変わっていくと主張している。
これらの見解から導かれるのは,余りにも当たり前だが,主体的な判断に基づいて,柔軟に外圧に対峙することが大切だということだろう。
わたしにとっての最大の外圧は,カミさんの小言であるが,主体的に判断して柔軟に付き合えば,破局に至らず何とかなるだろう。