羽花山人日記

徒然なるままに

奇跡のシンフォニー(映画)

2024-03-13 17:21:48 | 日記

奇跡のシンフォニー(映画)

この映画のビデオを観るのは何回目か。視るたびに心が温まる。

2007年に公開されたハリウッド映画。音楽がつむぐおとぎ話である。

物語の始まりは,ニューヨークでのそれぞれの公演を終え,打ち上げを抜け出した男女の一夜の恋から始まる。

チェロ奏者のライラ・ノヴァチェクとロック歌手のルイス・コネリーは,ビルの屋上で偶然出会い,お互いに惹かれ合って一夜を共に過ごし,再会を約して別れる。

しかし,ライラのチェロ奏者としての成長を願う父親は二人の仲を裂き,ライラが身ごもった子供を死産と偽って,孤児院にあずけてしまう。

それから12年,孤児院で育ったエヴァン・テイラー,ライラ,ルイスそれぞれの物語が同時並行的に描かれる。

エヴァンは彼の心に聞こえてくる音に誘われ,まだ見ぬ両親を探して孤児院を飛び出し,ニューヨークにたどり着く。そして,路上でギターを弾く少年と知りあい,彼の住んでいるところについていく。そこは廃墟となった劇場で,マックスウェルという男が,孤児に路上で芸をさせて金を稼がせるたまり場だった。

たまたまエヴァンの奏でるギターを聴いたマックスウェルは,路上で演奏させるとともに,劇場演奏に売り込もうとする。その際,本名では孤児院に送り返されることを警戒して,オーガスト・ラッシュという芸名をつける。(映画の原題は”August Rush”である。)

たまり場に警察の手入れがあり,逃げだしたエヴァンはゴスペルの歌声に誘われて教会に入り込み,そこで一夜を明かす。翌日,ゴスペルを歌っていた少女に手ほどきされた音符を使って耳に入る音を楽譜に書きあげ,さらにパイプオルガンを弾き始める。

この様子を見た神父は,エヴァンをジュリアード音楽院に連れて行き,頼み込んで入学させてもらう。エヴァンはその時も本名を名乗らず,オーガスト・ラッシュで通す。

エヴァン(オーガスト)は耳に入る音を楽譜に取り入れ,狂詩曲を書き上げる。その曲はニューヨークフィルがジュリアードのために演奏するセントラルパークでの公演会でオーガストの指揮で披露されることになる。

しかし,オーガスト指揮の広告を見たマックスウェルが公演の前日にジュリアードを訪れ。父親と称して,エヴァンスを連れ出してしまう。エヴァンスは,一旦はマックスウェルに従うが,意を決して逃げ出し,セントラルパークに向かう。

失意のライラは演奏活動を止めていたが,臨終の床にある父から自分の子どもが生きていると聞き,さらにその子どもが孤児院にあずけられたことを知って訪ねるが,エヴァンが行く不明であることを知る。住まいのシカゴからニューヨークに引っ越し,エヴァンを探すがその名前の子どもは見つからない。

ライラはかねてから要請されていたニューヨークフィルとの共演を引き受け,自分のチェロの音をエヴァンに届けようと決意し,セントラルパークでの演奏会に臨む。

ルイスはやはり失意からバンドを止めていたが,兄からの強い要請で復帰し,ライラへの思いを込めた歌を歌う。そして,ライラがシカゴにいることを知り訪ねるが,すでに引っ越した後だった。

空港でふと気が変わり,ルイスはサンフランシスコに帰らずにニューヨークに向かい,ライブハウスに売り込み,バンドを呼んで演奏会を催し,喝采を浴びる。その帰路,道でギターを弾いているオーガスト(エヴァン)を見かけ,お互いに父子とは知らずに名乗り合い,ギターのセッションをする。(このシーンは泣かせる。)そして,オーガストがその夜自分の演奏会があるが行けそうにないと聞き,自分なら絶対に行くと励ます。

ルイスは仲間と空港に向かう途中のセントラルパークで,オーケストラの響きを聴き,広告にライラとオーガストの名前を見て,タクシーから飛び降り公演会場に向かう。

かくして,3つのおとぎ話は音楽に引き寄せられて1つになり,大団円を迎える。

エヴァンを演じるフレディ・ハイモアの演技は,巧まずして人を惹き付ける。公園のざわめき,街頭の騒音が全て彼の中で音楽になる。彼にとって音楽は天から降り,まだ見ぬ両親に向かって発せられる。

徹底した悪人は登場しない,善意と愛とペーソスが満たされた映画である。また観たい。

 

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あれから13年

2024-03-11 20:37:14 | 日記

あれから13年

東日本大地震から13年の月日が経った。その傷がまだ癒えぬうちに,地震と津波が日本海側を襲った。

今日はコカリナグループLove Peaceの例会日で,コカリナ協会の総帥,黒川黒太郎氏が作曲した『日和山』をみんなで合奏した。日和山は石巻市にある山で,多くの人たちがここに避難した。この曲を吹くたびに,あの日の津波の濁流が目に浮かぶ。悲しみと希望が込められたメロディーである。3月11日にはこの曲を吹くことにしている。

これも恒例になったが,石牟礼道子さんの詩に,思いを託す。

 

花を奉る     石牟礼道子

春風萌すといえども われら人類の劫塵いまや累なりて 三界いわん方なく昏し

まなこを沈めてわずかに日々を忍ぶになにに誘わるるにや

虚空はるかに一連の花 まさに咲かんとするを聴く

ひとひらの花弁彼方に身じろぐをまぼろしのごとく視れば

常世なる仄明かりを花その懐に抱けり

常世の仄明かりとは あかつきの蓮沼にゆるる蕾のごとくして 世々の悲願をあらわせり

かの一輪を拝受して 寄る辺なき今日の魂に奉らんとす

花や何 ひとそれぞれの 涙のしずくに現れて咲きいずるなり

花やまた何 亡き人を偲ぶよすがを探さんとするに 声に出せぬ胸底の想いあり

それをとりて花となし み灯りにせんとや願う

灯らんとして消ゆる言の葉といえども

いずれ冥途の風の中にて おのおの行くときの花あかりなるを

この世のえにしともいい無縁ともいう

その境界にありて ただ夢のごとくなるも花

かえりみればまなうらにある御形 かりそめの姿なれども おろそかならず

ゆえにわれら この空しきを礼拝す

然して空しとは云わず 現世はいよいよ地獄とやいわん 虚無とやいわん

ただ滅亡の世せまるを待つのみか

ここにおいて われらなお 地上にひらく一輪の花の力を念じて合掌す

2011年4月 大震災の翌月に

 

取手市の路傍で今日撮影

 

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鵜飼保雄君の手記(再掲)

2024-03-10 19:37:52 | 日記

鵜飼保雄君の手記(再掲)

この手記は昨年1月のブログで紹介したものである。

筆者の鵜飼保雄君はわたしの2年後輩で,大学院時代を一緒に過ごした。農林(水産)省の技官を経て,東京大学教授で現役を退いた。惜しくも一昨年亡くなり,この手記は共通の友人S・M君のもとに残され,そのコピーがわたしのところに送られてきた。

79年前のこの日,鵜飼君は東京の浅草で大空襲に遭い,惨禍の中を逃げまどった。その時の体験を記したのがこの手記である。

間接的にせよ預かったこの貴重な手記を,できるだけ多くの人に読んでもらうのがわたしの責務だと考え,再掲する。

 随想1 浅草大空襲

1945年3月9日の夜だった。わたしは7歳だった。店の商品である家具を少しどけてそこに掘った小さな防空壕の片隅で、じっと空襲の過ぎるのを母(当時39歳)と待っていた。もう何回にもなるので、深夜にたたき起こされるのにも慣れていた。空襲警報のサイレンがなるときは、いつも小学校の学生服に手を通し、手縫いの防空頭巾をかぶり、小さな藍色のカバン-それには僅かばかりの薬や包帯が入っていた-を肩から下げて、壕の真っ暗な空間に逃げ込んだ。いつもより空襲が長いな、と思っているとき、父(35歳)が防空壕の戸板を持ち上げて大声で叫んだ。「ここにいてはだめだ。焼けてしまう。すぐに外に逃げよう」。急いで防空壕を出て、店の表戸を開けて、通りを隔てた前の家並みを見たとき、真向かいの洋品屋も、その両隣の家も2階の窓から火を吹いていた。周りはすっかり黒煙とともに燃えさかる焔に囲まれていた。子供心にも今夜が死ぬ時かと、身体がこわばった。

外に出ると顔が焼かれるような熱風を感じた。空は赤黒く、雲とも煙とも分からない黒い気体がちぎれるように流れていた。一瞬なぜ自分がこのような光景の下にいるのか分からなかった。恐いという感情は不思議と増さなかった。「どっちへ逃げたらいいの」「みんなは浅草公園のほうだ」。父と母は短く言った。「でもここからでは、とても浅草公園までは歩けない」と母が言った。母のおなかの中には出産間近い妹がいた。それで家から100米ほどの吉原の公園の方へ逃げることにした。公園といっても、小さな池を囲むように作られたもので、周りから襲ってくる火の手に呑み込まれそうだった。この公園は、関東大震災のときの付近住民の犠牲者を弔うために作られたもので、数メートルの高さの観音像が立っていた。近くには他に逃げる場所がなかった。父が先頭に立って、3人で手をつなぐようにして走った。60センチほどの長さで六角柱の形をした焼夷弾が雹か霰のように降って来ては、地面に当たって火炎とともに油をまきちらした。身重の母に、小さな子供の私がいては、あまり速くは走れなかった。途中に野外に掘った防空壕を見つけた父は、わたしたちにそのなかに避難するように言った。近所の一家族がもう入っていた。お互いに狭い中で身をよじるようにしてしゃがんでいた。しかし、十分もしないうちに、その壕の中にも煙が入ってきた。人息きれだけではない熱さが加わってきたことが顔や肌に感じられた。「ここもだめだ。出よう」と父が言った。もう火の粉が降りかかってきた防空壕を這いだして、池の水辺の小さな石畳の所へ来てしゃがんだ。

そこにはもう何人かの人たちが避難していた。黒く沈んだ人影の中に、声はなかった。火の粉は、ここにも降ってくるようになり、池の水に当たって音を立てた。父はもってきた毛布をわたしたちにかぶせて、だれからか借りたバケツで毛布の上から池の水をかけつづけた。家族だけではなく、周りにいた他の人たちにもかけた。防空訓練のバケツ・リレーがこんなところで役に立った。3月上旬の夜でも、かけられる水に冷たさはなく、火の熱さだけが感じられた。火の粉が毛布の中にまで舞った。父が突然「おじいさーん」と大声で何度も叫んだ。家を出るときにはぐれた祖父を呼んだのだ。

朝がきた。しゃがんだままの長い夜が過ぎた。水を含んだ重い毛布を引きずるようにして立ちあがったとき、目の前にした町並みは何もなかった。半分焼け残った家の柱が黒く立ったままくすぶっていた。それ以外は、どこまで見ても焼け落ちた家の残骸だけだった。そのようなときにも、神佑ともいえることがあった。焼け跡から、ご飯の入ったお釜が偶然見つかったのだ。どこかの家で前夜といだ米を入れて水を張っておいた釜が、家が焼けたときの熱で炊きあがったものらしい。墨のように焼けた蓋をとり、焼け焦げを払うと、白米が暖かい香りとともに出てきた。手づかみでその飯を握って、何家族かの人々が焼け出された第1日目の朝の飢えを免れることができた。祖父はまだ見つからなかった。

誰が言うともなく、小学校に行けば、避難してくる他の人たちにも会えるし、食糧の配給にもありつけるだろうということになって、千束小学校に向かって歩き出した。みんなほとんど裸足だった。舗装された道路はまだ熱をもっていて、場所によっては足が焼けるように痛かった。倒れた電信柱がまだくすぶっていて、道をふさいでいた。安全な避難場所と思ってみんなが小学校に着いたとき、それが全くの見込み違いだったということを知った。校舎のガラス窓は、アメのように溶け、外壁は焼けて黒く崩れ落ちていた。校門を一歩入ると、焼け跡の道路で見たよりも無残な光景があった。門から校庭に入るまでのわずか数米の間に何体もの黒く焼け焦げた死体が転がっていた。生徒らの下駄箱が燃え尽きて墨のようになっていた。犬を連れた家族と思われるいくつかの焼死体がひと塊になっているのもあった。手を宙につきだしたまま黒く焼けた中空の骸骨の顔は、幼かった私の脳裏にはっきりと焼き付いた。校庭にも、あちこちに、煙に巻かれて死んだ人たちの寝ているかのような姿があった。学校の地下に設けた防空壕では、大勢の人々が逃げる機会を失って、重なり合って死んでいたと、誰かが見てきて話していた。

千束小学校がそんな状態だったので、やはり浅草公園の方へ避難しようということになった。どこまで行っても普通の木造の家はすべて焼け落ちて、目を遮るものはほとんどなかった。遊び慣れた下町の町並みはすべて灰と煙の下に沈んだ。ときどき質屋の倉だけが、煤で汚れた白壁だけを残して立っているのが異様であった。いつも通っていた町のどの辺なんだろうと思いながら歩いた。普段は遠いと思っていた浅草の松屋デパートや上野駅がすぐそばのように見渡せた。浅草公園では、三社様を残して本殿も仲見世も燃え尽きて跡がなかった。大きな銀杏の樹はまだ幹から煙を吐いていた。その下では子供をまじえた数人が寄り添うように死んでいた。父は、いつのまにか、わたしたちを置いてどこかへ行った。はぐれた祖父を探しに行ったのか、徴用で知り合った秋葉さんの家にでも行ったのか、わからない。浅草小学校では、夕方小さなおにぎりの配給があった。

それから、指定されて、母と私は重い足を引きずって焼け残った金竜小学校へ行った。たどりついたときには日が暮れていた。母は私を連れて居場所を見つけるために、校舎内をめぐり歩いた。どこかの男の人が、幼い私がお腹をすかせているのを見て、薄暗闇の中で爆弾あられ(ポップコーン)をひと袋譲ってくれた。わたしは、母が学童用の机を寄せてくれたその上にじかに横になった。大人の人は、みな床の上に寝た。怪我をしているのか、死んでいるのか、ほとんど動かずしゃべらない人もいた。その夜父は帰って来なかった。

2日目の朝、小学校の講堂でまたおにぎりが一人1個ずつ配られた。行列に並んでいるとき、父が帰ってくるのを見つけ、知らせに母の所へ走った。昼には、秋葉さん宅へ、みんなで世話になりに行くことになり、大森まで電車で行った。家族の人はみんなとても親切だった。同じ年くらいの小学校の娘さんがいた。夕方疲れて寝ていると近くの街角で豆腐屋や金魚屋の売り声がのどかに聞こえ、今朝出てきた浅草の惨状が目に浮かび、同じ東京なのにと思った。焼け出されてから、4日目の14日に妹が生まれた。はぐれていた祖父も、いつの間にかまた一緒になった。

それからさらに10日くらいしてから、わたしたちは上野駅から昼ごろ汽車に乗り、17時間くらいかかって、明け方に滋賀県の琵琶湖畔にある下坂本村の母の実家へ着いた。そこには、学童縁故疎開で4歳上の兄(11歳)が一人でお世話になっていた。ニワトリが数羽けたたましく鳴く庭先で、兄に一年ぶりに会った。わたしたちが東京に戻れたのは、その後4年たってからであった。祖父は疎開先には来なかった。その後一人で満州に渡ったと父が言った。

(鵜飼保雄)

 

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これは便利

2024-03-08 20:05:29 | 日記

これは便利

友人のブログに,文旦の皮むき器が紹介されていて,Amazonに出ていたので早速購入した。

二段重ねになっていてはずして使う。

白い方の先端がとがっていて,皮に切れ目を入れる。

黄色い方は溝があって,その一端に刃がついている。溝に内側を下にして房を乗せ,刃の方向に滑らせると,

房の口が開いて食べやすくなる。

甚だ便利で,文旦があっという間に終わりそうで,夏蜜柑が待ち遠しい。

 

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AIと方言

2024-03-06 19:39:12 | 日記

AI と 方 言

昨日の朝日新聞「メディア空間 考」の欄に,『被災地での語り 記事からこぼれ落ちる方言の機微』と題して,宮崎陽介記者によるコラム記事が載っていた。

方言で語られる能登半島地震被災者の嘆きや悲しみ,決意や希望は,標準語で書かれた新聞記事には抜け落ちてしまうものがあるのではないかという。

わたしは宮崎記者の感慨が理解できる。信州弁で語ったことが標準語に直されると,ニュアンスがどことなくちがう感じがすることがあるからだ。
この記事の中で,宮崎記者はAIと方言とのかかわりについて,2点触れている。

ひとつは,『じょっぱりアオモリの星』という小説の主人公が話す津軽弁を,弘前大学の「弘大×AI×津軽弁」が監修したという話だ。恐らくこのAIは膨大な津軽弁の単語や言い回しを記憶しているのであろう。こういうAI利用すれば,失われつつある方言を保存して利用することができるようになるかもしれない。

もう1点で,ChatGPTが生活空間に入り込んでくると,言葉の標準化が進むだろうと,宮崎記者は憂慮している。しかし他方でAIを使って方言に命を吹き込むことも期待している。

早速わたしは,ChatGPTの方言についての能力を試してみた。以下はその会話である

 

You

あなたは日本語の方言を知っていますか。

ChatGPT

はい、私は日本の様々な方言について基本的な知識を持っています。例えば、関西弁、広島弁、福岡弁などがあります。これらの方言は、日本の異なる地域で話されており、それぞれ独自の特徴や発音があります。

You

いくつくらいの方言を知っていますか。

ChatGPT

私は多くの日本語方言について基本的な知識を持っています。いくつかの主要な方言には、関西弁、広島弁、福岡弁、仙台弁、北海道弁などがあります。ただし、日本国内にはさらに多くの方言が存在し、地域によって独自の言語特性を持っています。

You

では,「わてほんまによういわんは」を標準語に直してください。

ChatGPT

「わてほんまによういわんは」を標準語に直すと、「私は本当に良く言わないね」となります。

You

ちょっと直訳すぎますね。「あきれてものが言えない」という意味です。覚えてください。

ChatGPT

失礼しました。「わてほんまによういわんは」の意味は「あきれて物が言えない」ですね。ありがとうございます。

You

では,「またしくじって,わてほんまによういわんは」を標準語で言ってください。

ChatGPT

ChatGPT

「また失敗して、私は本当に言葉が出ないよ」

You

結構上達しましたね。では関西弁で「おおきに」はどんな意味ですか。

ChatGPT

「おおきに」は関西弁で「ありがとう」や「感謝しています」という意味です。

You

では,あなたが知っている東北弁の単語を三つあげてください。

ChatGPT

東北弁の代表的な単語を3つ挙げると、次のようなものがあります:

  1. ばってん(=そうだそうだ、本当にそうですか)
  2. げんきん(=今度、今)
  3. なまら(=とても、非常に)

これらは東北地方でよく使われる表現です。

You

「ばってん」は九州地方の言葉ですよ。「なまら」は北海道で使われていて,新潟県でも使われているようですね。それに若い人たちが使っているようですね。

ChatGPT

申し訳ありません、誤解がありました。ありがとうございます。東北弁の代表的な単語を3つ挙げると次のようになります:

  1. なんだら(=何か、どうかの意味)
  2. でんがな(=本当に、本当のところは)
  3. かねがね(=以前から、ずっと前から)

これらは東北地方で一般的に使われる言葉です。

You

どうも怪しいですね。「かねがね」は標準語で使われています。「でんがな」という言葉は本当にあるのですか。「なんだら」は信州でも使いますよ。

ChatGPT

申し訳ありません、情報の不正確さをお詫び申し上げます。修正します。

東北弁の代表的な単語を3つ挙げると次のようになります:

  1. なんだろ(=何だろう、どうだろう)
  2. まったり(=のんびり、ゆっくり)
  3. わんさか(=たくさん、大勢)

これらの単語は東北地方で一般的に使われる言葉です。

You

ますますでたらめになってきたようですね。では,質問を変えましょう。東北弁で「べこ」とは何のことですか。

ChatGPT

「べこ」という言葉は、東北弁で「ばか」「間抜け」という意味です。

You

間違いです。「べこ」は牛のことですよ。

ChatGPT

申し訳ありません、誤解がありました。確認いたしましたところ、「べこ」は東北弁で indeed、「牛」を指します。ありがとうございます。

You

なんでindeeedが出てくるのですかね。では。「このべこはめんこい」を標準語に直してください。

ChatGPT

「この牛は可愛らしいです」

You

正解です。どうかもっと方言を勉強してください。信州弁でいうと,「ふんとにありがと。もっと方言を勉強しとくりや」になります。

ChatGPT

ありがとうございます!信州弁も興味深いですね。「ふんとにありがと。もっと方言を勉強するんだな」と覚えておきます。

 

ChatGPTは平気で嘘を言い,ほらを吹く。上の問答をしながら,わたしはおかしくて,何回か吹き出した。

この会話から24時間近く経って,同じ質問をしたところ,まったく同じ間違いをしていた。そこで,次のようにいちゃもんをつけ,反応を試した。

 

You
やっぱり昨日教えたことを忘れていますね。どうやったらあなたに言葉を覚えてもらえますか。

ChatGPT

申し訳ありません。私は会話の中で教えられた言葉や情報を覚えることができません。ただし、同じ会話の中で再度教えられることで、その情報を再度利用することができます。また、繰り返し使用されるような言葉や文脈は、自然言語処理モデル全体において強化される可能性があります。

 

チャップ君に方言を教えて会話を楽しむことは,どうやら望み薄である。

 

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男女共学

2024-03-04 19:32:14 | 日記

男女共 学

一昨日の毎日新聞プレミアムメールに,作家で元外務省主任分析官の佐藤優さんが,「男女別学公立高校廃止の是非」という題で,一文を寄せていた。

埼玉県には男女別公立高校が12校あり,県の男女共同参画苦情処理委員会が「共学化の早期実現」を求める勧告を出し,公立高校における共学と別学の併存体制を変えようとする動きがある。 

 佐藤さんは男子校の県立浦和高校の出身で,1月に行われた県教育委員会の同窓会からの意見聴取会へに出席した。その場の意見には賛否両論があったが,主流は男子校,女子高,共学校の併存体制を維持せよということで,同窓会は昨年の12月にその旨の意見書を提出しているそうだ。

佐藤さんが紹介している,苦情処理委員会の勧告に述べられている共学化を求める理由は次の通りである。

「高校生活の3年間を一方の性に限ることは、人格形成からも、また男女共同参画社会づくりの視点からも問題である。高校生という多感な時期に、異性と真剣に向き合い共に協力し合って問題を解決していく体験こそ重要である。公立の高校として、男女の性差にとらわれることなく、個人の能力・個性を発揮していくため、男女別学校の共学化を早期に実現する必要がある。」

佐藤さんはこの勧告書について,国会議員を通じて政府に質問主意書を提出した。政府の回答は,「この件に関しては承知しておらず,男女別学の人格形成へ与える影響も不明で,答えられない」とし,「国立の高校にも別学があり,どのようにするかは,それぞれの学校の判断に帰属する」ということであった。

佐藤さんはこの回答を援用して,「男女別学が人格形成や男女共同参画社会づくりからも問題だ」とすることについては,苦情処理委員会が実証的なデータを出す必要があり,この理由付けによる勧告は杜撰であると指摘している。

さらに,埼玉県には同じ程度の難関校として,男子高校,女子高校,共学高校が揃っていて,受験生の進路が狭められているとは言えない,と佐藤さんは主張する。

わたくしは,埼玉県の公立高校について特に意見はなく,またいう立場でもないが,男女共同参画苦情処理委員会の勧告を批判する佐藤さんの意見には賛成する。男子高校あるいは女子高校出身者に知人は多いが,人格形成に問題のあった方には覚えがない。

忖度するに,佐藤さんは母校へのノスタルジアから,浦和高校はやっぱり男子校でいて欲しいという気分があったかもしれない。だから,勧告の不備を見つけられてホッとしているのだろう。

しかし一般論として言えば,わたしは入学の門戸に性別による制限は置かない方が望ましいと思う。特に少数者とはいえ性別不合者の存在を考えれば,男女という二分類は問題を含んでいる。

戦後,各地に設置されていた中学と高等女学校は新制高校になり,大多数は男女共学になった。

わたしの母校は,1949年に最初の女子生徒が編入学し,以後女子生徒は数を増し,わたしの学年では七分の一くらいを占めるようになっていた。

自身の経験に即していえば,女子生徒の存在は大変意義があったように思う。男子だけの級友からよりも,もっと大きな視野が得られたと感じている。

女性の出席があって華やかな,3月19日の同期会(七四会)を楽しみにしている。

 

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読書備忘(35)『怒りていう,逃亡に非ず』

2024-03-02 17:30:41 | 日記

読書備忘(35)

松下竜一

『怒りていう,逃亡に非ず 日本赤軍コマンド泉水博の流転』

河出文庫 1996年

(文中はすべて敬称を略す。)

この著者の本を取り上げたのは,これで連続して3回目である。

企業爆破容疑者として指名手配されていた桐島聡のことをブログに書き,その後松下竜一にこの著書があるのを知って読みたくなり,Amazonから古書を取り寄せた。

1977年に,日本赤軍によるハイジャック事件の際,人質と交換で超法規的措置によって釈放され,1987年にフィリピンで逮捕された泉水博についてのドキュメンタリーである。

著者の松下は,日本赤軍とは全く関係なかったが,1988年1月に突如として泉水の旅券訪違反容疑に関連して家宅捜査を受ける。これは全く的外れの捜査だったが,著者はそこで初めて泉水博の名前を知る。そして理不尽な家宅捜査を受けた人たちと国家賠償請求の訴訟を起こす。

そんないきさつもあって,著者は,はじめは固辞するが,泉水の弁護人,支援者,兄からの強い要請で,ドキュメントを書くことにする。直接本人とは話ができなかったが,兄への書簡,裁判記録,本人の供述記録などを調査し,著者は泉水の数奇な足跡を記述している。先ずそれに沿って,ことの経過をまとめてみる。

泉水博は1937年二人兄弟の二番目として生まれる。父は消息不明,兄は住まい定まらない状態で,貧困の中母と暮らす。高校中退後職を転々とし,1960年強盗殺人事件で逮捕起訴され,無期懲役の判決を受ける。この事件では,彼は従犯の立場にありながら,主犯が獄中で自殺したため,その罪までかぶせられ,警察や司法に不信を植え付けられる。

千葉刑務所に服役し,仮釈放間近の1975年に仲間の病気の診察を要求して看守を人質にとろうとしたが失敗し,旭川刑務所に移される。しかし,この行動は右翼の野村秋介によって世に広められる。

1977年9月の日本赤軍によるハイジャック事件で,釈放要求リストに泉水博が指名される。この事件では,日本政府が人質の生命を優先して,超法規的措置による被指名者の釈放を決定する。

看守からその知らせを受けた時,彼は釈放を拒否しようとするが,自分が応じなければ人質が殺されると聞いて承諾する。羽田空港で,泉水は法務省の係官から,「それほどまでにして逃げたいのか」と侮辱を受け,「行きたくて行くのではない。人質の安全のために政府に頼まれていくのが分からないのか」と啖呵を切っている。

釈放後,日本赤軍のメンバーに合流するが,そこで彼はリーダーとの面談を要求し,人質全員の無事釈放を要請する。

アルジェ空港で人質全員が解放され,連合赤軍はアルジェリア軍に降伏する。その時点で,泉水は離脱することが可能だったが,そのまま日本赤軍に同行する。

その後,1988年にフィリピンで旅券法違反の容疑で逮捕されるまでのことについて,泉水は一切沈黙を守っている。しかし,関係者の証言などから,著者は次のように推測している。

泉水は,自分に接したリーダーらの態度に信頼感を抱き,また恩義も感じて,日本赤軍に同行する。パレスチナでは,コマンドとしての活動も担い,頭でっかちの学生上がりのコマンドとは違って実行力があり,人柄も馴染みやすいところから,現地人からは親しまれ,信頼されていたらしい。

泉水は,はじめは思想的な訓練もない自分が厄介者になるのではないかと感じていたが,人間らしく認めてくれる日本赤軍の対応に,開放感を覚え活動していた。裁判の席で弁護人の質問に答えて「日本赤軍の一員であったことを誇りに思っている」と答えている。

著者の松下は,日本赤軍の綱領や行動に関して特段のコメントはしていない。しかし,このグループが起こした事件に巻き込まれた泉水博が,正義感と義侠心をもって生きてきた足跡を,世に知らしめたいという気持ちが,この著書に込められているのではないだろうか。

その思いは,『怒りていう,逃亡には非ず』というタイトルのもとに,十分表現されている。

松下は「あとがき」で,この本を差し入れた泉水から何の反応もないことについて,「その沈黙の重さの前に作者はたじろいでいる」と記している。わたしはこの言葉に重みを感じる。

3冊の本を読んで,松下竜一という作家は,「やさしさ」を言葉・文章にしようとしていると感じた。泉水の「義侠心」は「やさしさ」に通じるところがあるのではないだろうか。

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