鵜飼保雄君の手記(再掲)
この手記は昨年1月のブログで紹介したものである。
筆者の鵜飼保雄君はわたしの2年後輩で,大学院時代を一緒に過ごした。農林(水産)省の技官を経て,東京大学教授で現役を退いた。惜しくも一昨年亡くなり,この手記は共通の友人S・M君のもとに残され,そのコピーがわたしのところに送られてきた。
79年前のこの日,鵜飼君は東京の浅草で大空襲に遭い,惨禍の中を逃げまどった。その時の体験を記したのがこの手記である。
間接的にせよ預かったこの貴重な手記を,できるだけ多くの人に読んでもらうのがわたしの責務だと考え,再掲する。
随想1 浅草大空襲
1945年3月9日の夜だった。わたしは7歳だった。店の商品である家具を少しどけてそこに掘った小さな防空壕の片隅で、じっと空襲の過ぎるのを母(当時39歳)と待っていた。もう何回にもなるので、深夜にたたき起こされるのにも慣れていた。空襲警報のサイレンがなるときは、いつも小学校の学生服に手を通し、手縫いの防空頭巾をかぶり、小さな藍色のカバン-それには僅かばかりの薬や包帯が入っていた-を肩から下げて、壕の真っ暗な空間に逃げ込んだ。いつもより空襲が長いな、と思っているとき、父(35歳)が防空壕の戸板を持ち上げて大声で叫んだ。「ここにいてはだめだ。焼けてしまう。すぐに外に逃げよう」。急いで防空壕を出て、店の表戸を開けて、通りを隔てた前の家並みを見たとき、真向かいの洋品屋も、その両隣の家も2階の窓から火を吹いていた。周りはすっかり黒煙とともに燃えさかる焔に囲まれていた。子供心にも今夜が死ぬ時かと、身体がこわばった。
外に出ると顔が焼かれるような熱風を感じた。空は赤黒く、雲とも煙とも分からない黒い気体がちぎれるように流れていた。一瞬なぜ自分がこのような光景の下にいるのか分からなかった。恐いという感情は不思議と増さなかった。「どっちへ逃げたらいいの」「みんなは浅草公園のほうだ」。父と母は短く言った。「でもここからでは、とても浅草公園までは歩けない」と母が言った。母のおなかの中には出産間近い妹がいた。それで家から100米ほどの吉原の公園の方へ逃げることにした。公園といっても、小さな池を囲むように作られたもので、周りから襲ってくる火の手に呑み込まれそうだった。この公園は、関東大震災のときの付近住民の犠牲者を弔うために作られたもので、数メートルの高さの観音像が立っていた。近くには他に逃げる場所がなかった。父が先頭に立って、3人で手をつなぐようにして走った。60センチほどの長さで六角柱の形をした焼夷弾が雹か霰のように降って来ては、地面に当たって火炎とともに油をまきちらした。身重の母に、小さな子供の私がいては、あまり速くは走れなかった。途中に野外に掘った防空壕を見つけた父は、わたしたちにそのなかに避難するように言った。近所の一家族がもう入っていた。お互いに狭い中で身をよじるようにしてしゃがんでいた。しかし、十分もしないうちに、その壕の中にも煙が入ってきた。人息きれだけではない熱さが加わってきたことが顔や肌に感じられた。「ここもだめだ。出よう」と父が言った。もう火の粉が降りかかってきた防空壕を這いだして、池の水辺の小さな石畳の所へ来てしゃがんだ。
そこにはもう何人かの人たちが避難していた。黒く沈んだ人影の中に、声はなかった。火の粉は、ここにも降ってくるようになり、池の水に当たって音を立てた。父はもってきた毛布をわたしたちにかぶせて、だれからか借りたバケツで毛布の上から池の水をかけつづけた。家族だけではなく、周りにいた他の人たちにもかけた。防空訓練のバケツ・リレーがこんなところで役に立った。3月上旬の夜でも、かけられる水に冷たさはなく、火の熱さだけが感じられた。火の粉が毛布の中にまで舞った。父が突然「おじいさーん」と大声で何度も叫んだ。家を出るときにはぐれた祖父を呼んだのだ。
朝がきた。しゃがんだままの長い夜が過ぎた。水を含んだ重い毛布を引きずるようにして立ちあがったとき、目の前にした町並みは何もなかった。半分焼け残った家の柱が黒く立ったままくすぶっていた。それ以外は、どこまで見ても焼け落ちた家の残骸だけだった。そのようなときにも、神佑ともいえることがあった。焼け跡から、ご飯の入ったお釜が偶然見つかったのだ。どこかの家で前夜といだ米を入れて水を張っておいた釜が、家が焼けたときの熱で炊きあがったものらしい。墨のように焼けた蓋をとり、焼け焦げを払うと、白米が暖かい香りとともに出てきた。手づかみでその飯を握って、何家族かの人々が焼け出された第1日目の朝の飢えを免れることができた。祖父はまだ見つからなかった。
誰が言うともなく、小学校に行けば、避難してくる他の人たちにも会えるし、食糧の配給にもありつけるだろうということになって、千束小学校に向かって歩き出した。みんなほとんど裸足だった。舗装された道路はまだ熱をもっていて、場所によっては足が焼けるように痛かった。倒れた電信柱がまだくすぶっていて、道をふさいでいた。安全な避難場所と思ってみんなが小学校に着いたとき、それが全くの見込み違いだったということを知った。校舎のガラス窓は、アメのように溶け、外壁は焼けて黒く崩れ落ちていた。校門を一歩入ると、焼け跡の道路で見たよりも無残な光景があった。門から校庭に入るまでのわずか数米の間に何体もの黒く焼け焦げた死体が転がっていた。生徒らの下駄箱が燃え尽きて墨のようになっていた。犬を連れた家族と思われるいくつかの焼死体がひと塊になっているのもあった。手を宙につきだしたまま黒く焼けた中空の骸骨の顔は、幼かった私の脳裏にはっきりと焼き付いた。校庭にも、あちこちに、煙に巻かれて死んだ人たちの寝ているかのような姿があった。学校の地下に設けた防空壕では、大勢の人々が逃げる機会を失って、重なり合って死んでいたと、誰かが見てきて話していた。
千束小学校がそんな状態だったので、やはり浅草公園の方へ避難しようということになった。どこまで行っても普通の木造の家はすべて焼け落ちて、目を遮るものはほとんどなかった。遊び慣れた下町の町並みはすべて灰と煙の下に沈んだ。ときどき質屋の倉だけが、煤で汚れた白壁だけを残して立っているのが異様であった。いつも通っていた町のどの辺なんだろうと思いながら歩いた。普段は遠いと思っていた浅草の松屋デパートや上野駅がすぐそばのように見渡せた。浅草公園では、三社様を残して本殿も仲見世も燃え尽きて跡がなかった。大きな銀杏の樹はまだ幹から煙を吐いていた。その下では子供をまじえた数人が寄り添うように死んでいた。父は、いつのまにか、わたしたちを置いてどこかへ行った。はぐれた祖父を探しに行ったのか、徴用で知り合った秋葉さんの家にでも行ったのか、わからない。浅草小学校では、夕方小さなおにぎりの配給があった。
それから、指定されて、母と私は重い足を引きずって焼け残った金竜小学校へ行った。たどりついたときには日が暮れていた。母は私を連れて居場所を見つけるために、校舎内をめぐり歩いた。どこかの男の人が、幼い私がお腹をすかせているのを見て、薄暗闇の中で爆弾あられ(ポップコーン)をひと袋譲ってくれた。わたしは、母が学童用の机を寄せてくれたその上にじかに横になった。大人の人は、みな床の上に寝た。怪我をしているのか、死んでいるのか、ほとんど動かずしゃべらない人もいた。その夜父は帰って来なかった。
2日目の朝、小学校の講堂でまたおにぎりが一人1個ずつ配られた。行列に並んでいるとき、父が帰ってくるのを見つけ、知らせに母の所へ走った。昼には、秋葉さん宅へ、みんなで世話になりに行くことになり、大森まで電車で行った。家族の人はみんなとても親切だった。同じ年くらいの小学校の娘さんがいた。夕方疲れて寝ていると近くの街角で豆腐屋や金魚屋の売り声がのどかに聞こえ、今朝出てきた浅草の惨状が目に浮かび、同じ東京なのにと思った。焼け出されてから、4日目の14日に妹が生まれた。はぐれていた祖父も、いつの間にかまた一緒になった。
それからさらに10日くらいしてから、わたしたちは上野駅から昼ごろ汽車に乗り、17時間くらいかかって、明け方に滋賀県の琵琶湖畔にある下坂本村の母の実家へ着いた。そこには、学童縁故疎開で4歳上の兄(11歳)が一人でお世話になっていた。ニワトリが数羽けたたましく鳴く庭先で、兄に一年ぶりに会った。わたしたちが東京に戻れたのは、その後4年たってからであった。祖父は疎開先には来なかった。その後一人で満州に渡ったと父が言った。
(鵜飼保雄)
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