羽花山人日記

徒然なるままに

読書備忘(35)『怒りていう,逃亡に非ず』

2024-03-02 17:30:41 | 日記

読書備忘(35)

松下竜一

『怒りていう,逃亡に非ず 日本赤軍コマンド泉水博の流転』

河出文庫 1996年

(文中はすべて敬称を略す。)

この著者の本を取り上げたのは,これで連続して3回目である。

企業爆破容疑者として指名手配されていた桐島聡のことをブログに書き,その後松下竜一にこの著書があるのを知って読みたくなり,Amazonから古書を取り寄せた。

1977年に,日本赤軍によるハイジャック事件の際,人質と交換で超法規的措置によって釈放され,1987年にフィリピンで逮捕された泉水博についてのドキュメンタリーである。

著者の松下は,日本赤軍とは全く関係なかったが,1988年1月に突如として泉水の旅券訪違反容疑に関連して家宅捜査を受ける。これは全く的外れの捜査だったが,著者はそこで初めて泉水博の名前を知る。そして理不尽な家宅捜査を受けた人たちと国家賠償請求の訴訟を起こす。

そんないきさつもあって,著者は,はじめは固辞するが,泉水の弁護人,支援者,兄からの強い要請で,ドキュメントを書くことにする。直接本人とは話ができなかったが,兄への書簡,裁判記録,本人の供述記録などを調査し,著者は泉水の数奇な足跡を記述している。先ずそれに沿って,ことの経過をまとめてみる。

泉水博は1937年二人兄弟の二番目として生まれる。父は消息不明,兄は住まい定まらない状態で,貧困の中母と暮らす。高校中退後職を転々とし,1960年強盗殺人事件で逮捕起訴され,無期懲役の判決を受ける。この事件では,彼は従犯の立場にありながら,主犯が獄中で自殺したため,その罪までかぶせられ,警察や司法に不信を植え付けられる。

千葉刑務所に服役し,仮釈放間近の1975年に仲間の病気の診察を要求して看守を人質にとろうとしたが失敗し,旭川刑務所に移される。しかし,この行動は右翼の野村秋介によって世に広められる。

1977年9月の日本赤軍によるハイジャック事件で,釈放要求リストに泉水博が指名される。この事件では,日本政府が人質の生命を優先して,超法規的措置による被指名者の釈放を決定する。

看守からその知らせを受けた時,彼は釈放を拒否しようとするが,自分が応じなければ人質が殺されると聞いて承諾する。羽田空港で,泉水は法務省の係官から,「それほどまでにして逃げたいのか」と侮辱を受け,「行きたくて行くのではない。人質の安全のために政府に頼まれていくのが分からないのか」と啖呵を切っている。

釈放後,日本赤軍のメンバーに合流するが,そこで彼はリーダーとの面談を要求し,人質全員の無事釈放を要請する。

アルジェ空港で人質全員が解放され,連合赤軍はアルジェリア軍に降伏する。その時点で,泉水は離脱することが可能だったが,そのまま日本赤軍に同行する。

その後,1988年にフィリピンで旅券法違反の容疑で逮捕されるまでのことについて,泉水は一切沈黙を守っている。しかし,関係者の証言などから,著者は次のように推測している。

泉水は,自分に接したリーダーらの態度に信頼感を抱き,また恩義も感じて,日本赤軍に同行する。パレスチナでは,コマンドとしての活動も担い,頭でっかちの学生上がりのコマンドとは違って実行力があり,人柄も馴染みやすいところから,現地人からは親しまれ,信頼されていたらしい。

泉水は,はじめは思想的な訓練もない自分が厄介者になるのではないかと感じていたが,人間らしく認めてくれる日本赤軍の対応に,開放感を覚え活動していた。裁判の席で弁護人の質問に答えて「日本赤軍の一員であったことを誇りに思っている」と答えている。

著者の松下は,日本赤軍の綱領や行動に関して特段のコメントはしていない。しかし,このグループが起こした事件に巻き込まれた泉水博が,正義感と義侠心をもって生きてきた足跡を,世に知らしめたいという気持ちが,この著書に込められているのではないだろうか。

その思いは,『怒りていう,逃亡には非ず』というタイトルのもとに,十分表現されている。

松下は「あとがき」で,この本を差し入れた泉水から何の反応もないことについて,「その沈黙の重さの前に作者はたじろいでいる」と記している。わたしはこの言葉に重みを感じる。

3冊の本を読んで,松下竜一という作家は,「やさしさ」を言葉・文章にしようとしていると感じた。泉水の「義侠心」は「やさしさ」に通じるところがあるのではないだろうか。

STOP WAR!

コメント (3)
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