(昨日の続き)
何しろ当時としては究極の知性の持ち主と思われるヒュパティアでさえ、奴隷がいるのは当然だと思っているのです。彼女を深く愛し忠実に仕える奴隷のダオスに暴言まで吐いています(最後はダオスを解放し自由人にするのですが)。
キリスト教は人間の価値を決めるのは信仰の深さで、それは個人の努力で実現できるものであって、生まれや身分は一切関係なく貴族も奴隷も平等だというのですから、当時の虐げられていた下層民がみんなそっちに行くのは当然のことでしょう。こうなると歴史の進歩とは何なのかよく分からなくなります。キリスト教は聖書は絶対、神の言葉は絶対という立場で科学の進歩を徹底的に押し止めます。以後1000年にわたって。しかし一方で奴隷制度に基づくローマ・ギリシャの古代世界を見事に転覆してしまいます。そして、いったん勢力を得たキリスト教会は旧来の多神教徒を排斥しはじめたばかりか、ユダヤ教徒の大量虐殺を始めます。映画の中ではナチスも真っ青になりそうな惨たらしい迫害を行います。
皮肉なことに、この時代から250年経つと、アレクサンドリアはイスラム教徒に占拠されキリスト教徒の居場所がなくなってしまいます。さらに皮肉なことには古代ローマ・ギリシャの学問はイスラム世界に継承されて1000年間保存され、ルネッサンスに至って西欧キリスト教社会に逆輸入されるのです。
人類がヨーロッパ・オリエント世界の中で、宗教や価値観の多様性への「寛容」を学び、理解するのに1500年の学びの年月が必要だったということでしょう。いや未だに十分に学び理解できている訳ではないということも今日の中近東の混乱や西欧各国における移民問題を見てもわかります。そのこともこの映画の主題なのでしょう。