博多住吉通信(旧六本松通信)

 ブログ主が2022年12月から居住を始めた福岡市博多区住吉の生活や都市環境をお伝えします。

ルイセンコの再来2

2020年06月25日 | 時事

 ロフィム・ルイセンコ(1898年9月29日 - 1976年11月20日)は、旧ソ連の農学者です。ルイセンコは春まき小麦の種を冷やすことによって春まき小麦が秋まきに、秋まき小麦が春まきに変わることを発見したと主張しました。春化処理と呼ばれる手法です。ルイセンコはこれを遺伝的性質がこのような操作によって変化するものと見なし、獲得形質が遺伝されたと主張しました。この主張は明らかに間違っていたのですが、なぜかソ連の最高権力者スターリンに気に入られ、全ソ連農業科学アカデミー総裁の座につきます。そして自分に反対する遺伝学者、生物学者に対して科学的な批判ではなく警察権力を動員して排斥し強制収容所へ送りその生命を奪う暴挙を開始します。世界的に著名な生物学者のニコライ・ヴァヴィロフ(注)は投獄され1943年に55歳の若さでサラトフ監獄で餓死させられました。実に3千人を超える生物学者が研究機関を解雇され追放されたそうです。

 独裁者スターリンが死去したのちの1956年に開かれたソ連共産党第20回大会でフルシチョフ第一書記による有名なスターリン批判が行われ、その権威が失墜したのちもルイセンコはしぶとく生き残りました。しかしDNAの発見など世界的な生物学の進歩の中で遂に1964年にルイセンコも失脚します。1930年代初頭から、実に30年にわたって猛威をふるったルイセンコのためにソ連生物学とソ連農業は壊滅的な打撃を受け、ソ連は慢性的な農業不振に苦しむことになりました。

 ルイセンコの学説は西側諸国では、イギリスのJ.D.バナールのように心を寄せた科学者はいたことはいたのですが、あまり相手にはされませんでした。しかし東欧や中国、北朝鮮では部分的に受け入れられ当該国の農業生産に被害を与えました。そんな中で驚いたことにわが日本ではルイセンコ学説は結構広く受け入れられ1940 年代後半から全国に広まりました。日本ミチューリン会という団体が組織され、農学者、農業者を中心に全国に広がりました。左翼とか共産党系以外の人々にも受け入れられたことに日本の特徴があります。当時の保守系の国会議員からも結構期待されていたようです。もちろん批判する専門家もいて「ルイセンコ論争」と後に呼ばれるようになった活発な議論が展開されました。こういう歴史的な背景があるので、現代の自民党が21世紀の現代にルイセンコの亡霊を復活させようと試みても別に不思議はないのかもしれません。

(注)上の写真は死後33年後に名誉回復されソ連で発行されたヴァヴィロフの記念切手です。 引用元サイト:https://lori.ru/27404884


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