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イサーン見聞記3

2022-03-24 07:31:48 | ハノイ


この章に入ってなかなかペンが走りませんでした。その原因は実はなんとか正確な記述 をしたいと思う私のこだわりからです。 しか もわずかのことなのです。 バンコックからナ コンラチャシマ(コラート)を通りコンケーンへつづく国道の距離のことです。 手もとに ある「某調査報告」の類いの本をいくらかみ てみると、ある本は五五〇キロと書いているし、また、ある木は六〇〇キロ弱と書いている し、四五〇キロってなのもあります。 私を案内してくれたタイ人の言をかりると六五〇 です。 どれが正確なのか、また実測記録が あるのか、ないのか私にはわかりません。

ただ、いえることはパンコックを夜十一時 にでてアスファルトの快適な高速バスのドラ イブで、朝六時十分にはコンケーンに着いた、という事実です。 途中三十分くらいの軽食の ための休憩をのぞいて、バスが八〇キロの平均速度で走ったとしてその距離を推定すれ ば、だいたい五五〇キロあるかないかではな いかと思います。 もっぱら、バンコックの北 のバスステーションから測るのか、国会から 測るのか、その出発点により五〇キロくらい の幅が出てくるのは当然でありましょうが、 いずれにしても京都から東京まで鉄道の駅間 五一三・六キロですから、それより少々長い くらいの距離だと思ってもらえばいいでしょ う。こんな事にはあまり意味はありません し、一昔前までタイの人々は道路なんていう ものはもたなかったし、そのかわり川の水路 を大いに利用してきたのですから。

さて、東北タイ 「イサーン」については最近になって少なからず立派なフィールド報告 がなされています。 日本人では一昨年現地調査中に発病され、おしくも亡くなられた水野浩一氏(京大東南アジア研究センター)がくわ しく報告しています。 最近になって水野氏の 「タイ農村の社会組織」1980創文社) が出版されています。 これは研究報告です が、もう少しイサーンの日常の空気を吸って みようとされるなら前に述べました 「田舎の先生」とか「東北タイの子」(井村文化事業社)などがとっつきやすいと思います。 これらの小説はタイ人の手で書かれたものですの 本当にイサーンに生きる人たちの風俗習慣 のひといきひといきを知る上では絶品ではな いかと思います。 英文になりますがシカゴ大 学の人類学者 S. J. TAMBIAH の「東北タ イにおける仏教と信仰」 (一九七〇、ケンブ リッジ大学出版も面白い本でしょう。

このイサーンについての有効な編纂史は 特にないようです。 この地域がいつのころか ら「イサーン」と呼ばれるようになったのか はわかりません。 タイ (シャム)の朝貢国としての従属時代からのものなのか、タイの近 代的な国家のワクが強化されてのものな のか。スミス氏(一九七六)によればシャム 人がこの地を支配下に入れてからのも ののようです。 「イサーン」が古代インド を表わすとするなら、バンコック朝側から起こった呼称であることは当然でしょう。 ラオスからみれば「南」であるからです。

シャム王国がアユタヤに遷都した14世紀 から18世紀にはこのイサーンは真の支配 下にはなく一つの周辺国周辺地帯にあったようです。 シャム人から見る限りでありま すが)このことはラオス側からみても同じで 一つの地方国〈朝貢国)でもあったのでしょ う。いずれにしてもこのイサーンはシャムと ラオスの機能を持ち、それ自体と してはあまり重要な地域ではなかったと考え るのが正しいでしょう。このアユテア朝の期 に何らかの誘因でタイ系諸族が南下し ていったのでしょう。 その前は元々ク メール文化が色濃く残っていた地域のようで そこへ文化が同化吸収していった 経過があるようです。一説にはイサーンのラオ族ははタイとの戦争に強制移住をさせられ た、だから今でもタイ人に劣等意識を持つん だ、という見方がありますが、すべてをうが ってはいないと思います。

近代の国家域の概念が入る以前は一つ一 つの地域がタコツボ状のコンパクト社会であ り、その外は友好関係を保つか、無視をするか、利害、敵対がからめば占拠するといったきわめて領域としてはあいまいなものだっ たのです。 これは東南アジアのほとんどの地域、 社会集団、国家にも当てはまる概念でしょ う。最近をみても、タイ側イサーンに住むラオ族とラオスに住むラオ族との結びつきは強い ようで、確かにラオス革命後はメコンを境に分断しているようですが心情的、文化的には依然 両岸を結びつけているようです。この 関係は今後も続くでしょうし、ラオス、カ ンボジアの難民もそのあたりから考えていく 必要もありましょう。

ヨーロッパの国家領域の概念がタイ中央政府をしてイサーンにどのように作用していっ たかの経緯は吉川利治氏(1980)の説明 がわかりやすいでしょう。 「東北地方は、19世紀末まで、政府が直接する ではなかった。19世紀後半、北ラオスの シップソーンチュタイで、フランス軍との軍事衝突を繰り返してのち、1892年2月 に、ピチットブリーチャーコーン親王を初代総督として、南ラオスのチャムパーサック に送り込んで直接統治するにおよんで、ようやくタイの領土として明確に意識さ れるようになった。 19世紀までの東北タイ地方は コーラートが東北タイからラオスをにらみ、この地方の動静を察知する要衝とし て、17世紀末に建設された砦を持つ町となり、 中央の統治下にあるだけであった。(中略) 18世紀ごろから、メコン河東岸より東北タイ地方に移住してくるラーオ族の人口が次第 に増加し、東北タイの各地に城市(ムアング) が形成されるようになる。したがって、東北 タイの住民は、国家への帰属意識など持ちあ わせていなかった。 1893年東北タイのウ ポンに赴任した二代目総督サンバシッティプ ラソン親王が、この地方で徴税を実施しよう としても、タイ人でないという理由で容易 支払おうとしなかった。」(東南アジア研究 Vol. 18, No. 3) 少々とこみ入った引用になり ましたが、だいたいのイサーンの変遷は御理解いただけたでしょうか。

こうしたイサーンはタイ国の一地域である という意識は今世紀になってようやく定着し てきました。 というよりタイ中央政府の政策 の実効が波状的であれその地に広がったと言 うべきでしょう。

その後の現代史を断間的に見ましても、イ サーン史のタイ国とのかかわりはまだまだ 紆余曲折、イバラの道のようです。 1930年代40年代にわたってイサーン出身の政治家がその出身地ゆえに暗殺されたり逮捕された り、投獄されたり、といった事件が頻繁に発 生しているようです。 どうしてそうなるので しょうか? 彼らイサーンの人々が結局は主 体的に反中央意識という土壌に根をはらざる を得ないのでしょうか? その問題を考える 前に政府が具体的にどのような国家政策を持 ってイサーンに切り込んでいこうとしている のか、またイサーン人即ちラオ族がどの程度 のアイデンティティをタイ国民としていだこ うとしているか、を知る必要がありましょ う。 今だに歴代の首相の課題の一つに「イサー ンの開発」という項目があるそうです。 現 地の人々の反応も是非くわしくこのあたりを聞きたいものです。

さて、この原稿を書いている、タイでク デターが発生しました。 現代に入ってから も何度も起こっているのでクーデター自体はあ まり感想をもちませんが現職のプレム首相が 革団に捕えられたのでなくパンコックから脱出したということがこれまでとちょっとちがうなあ・・・と思いました。 しかも国王、王妃 を擁して。その逃れた場所がこれまでふれて きたイサーンの中心地コラートなのです。 私 は「あのコラートに!」と一瞬驚きました。

プレム首相がこのコラート (ナコンラチャシ マ)に脱出し、再び実権を握る拠点としてと に腰を落ち着けたことは、やはりイサーン 人には人気のある政策を十分にやっていた政治家ではないでしょうか。 プレム首相が自分 の信頼を置く地として第二軍管区司令部の東 北タイを選んだことはここ数年間のタイ政府 のイサーン重視政策を背景としてはじめて可能であったと思われます。 (つづく)















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