フェイスブックやらツイッターやらが更新の中心に移っているけど、
たまには、こちらにUPしてみる。(同じ記事だけど)
終戦の日に街頭から訴える 鈴木やす子 北茨城市議。
福田明日本共産党茨城北部地区委員長とともに。
って、
少し別な書き方で紹介すると、
すずき産地の母ちゃんと、
すずき産地の中学時代の同級生。
4279 写真、向こう側の2人は、北茨城の市会議員サン。 訪ねた先は、下記のとおり、どっかで聞いた大都会? って、 このエントリーは余談。 じつは事態は深刻です。(つづく) 4280 |
01/03、鈴木耕太 撮影 No.3995 |
まだ1月中なので、なんとかセーフ と、勝手に安心しつつ遅ればせの写真は、お正月の3日、 街頭から訴える母ちゃんたち市議団です。 昨年中も、毎週 欠かさず発行してきた → 「北茨城民報」にリンクしておきます。 |
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No.3991 |
3.11では、 茨城県東海村の原子力発電所も危機一髪でした。 参考 → こちらなど その東海村で、議員選挙が始まりました。 が、たとえば → こんな報道も。 ことここにいにって、まだ 故郷より、子どもの未来より、 目先のカネが大事だということか。 ちなみに、ありがたくも もったいなくも 「技術に“絶対”ということはありえません」 とか 「機械は必ず故障するものです」 とは、 東海原発の広報サンからお説教いただきました。 参考 → こちら 勇敢?な村議や村民がすがる安全神話はともかく、 原発の過酷事故が現実に起きているのだから、 せめて避難訓練くらいはやってみるべきでしょ。 あ、たとえば 30キロ圏内に住む100万人が移動するとなると、 いわゆる経済波及効果とやらも大きいはずだし、 そうしたら、また原発利権も増えることになって、 きっと「勇敢」な人たちも積極的に参加してくるぞ(^_^; というような ぶっちゃけた演説をしているわけではない写真は 鈴木やす子北茨城市議と、江尻かな水戸市議。 川崎あつ子東海村議の応援に立っています。 |
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No.3919 |
うちの母ちゃんたち日本共産党北茨城市議団(2名)が毎週発行している「北茨城民報」。 震災後(たとえば → 直後号)、Webへの掲載は滞っていましたが、ようやくそれが追いつきました。言ってみれば家内制手工業なもので。ふぅ。 こちらに → INDEX |
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06/04 No.3867 |
東京目黒区の区議会議員森美彦さんと、どっかの市議会議員です。 ある若者の目黒区内の物件に関わる借金問題の解決の方向を見いだすために、森さんの事務所での法律相談に同行しました。 余談だけど(いや本題かな)、さかのぼること30数年、 森さん、母ちゃん、父ちゃん、学生時代の先輩・後輩です。 お互いの活動について交流するといった時間はほとんどとれなかったものの、それぞれの場での奮闘を期した、なつかしい再会の機会ではありました。 |
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No.3511 |
稚内出身、Tさん。31歳。
母子家庭で育ち、父親の顔は知らず、他に親戚もいない。本人は喘息とパニック障害という持病を抱えている。
その彼を支えて無理を重ねたこともあってか、母親が5年前にクモ膜下出血で急死。それまでの借家にもいられなくなった。
なんとか派遣で職を得て、一人で大阪に移り住んだのが、3年前。しかし持病もあって解雇され、それからは職を転々としながら、ネットカフェやあいりん地区で暮らしてきた。
いよいよどうにもならなくなって、ふるさとの親友を頼って稚内に戻ることにした。
今年の正月は、名古屋のネットカフェだった。たまたま隣のブースには、乳飲み子を抱えた若い母親が夫のDVから逃れてきていたりもした。
東京に入る前、藤沢あたりで見た海はきれいだった。
稚内で生まれ育って、はじめてみる大阪や東京の人の多さには驚いた。それを見ただけでも貴重な経験だったと思いたい。
途中、警察や役所の窓口を訪ねたりもしたが、どこも助けてはくれなかった。
東京の上野で、ある政党にも電話してみた。そしたら「そのあたりで死ぬ準備でもしていれば、誰かが何とかしてくれるだろう」と切られてしまった。政党というものも信用できなくなった。
北へ向かってたどりついたのが、たまたま北茨城市。ただし本人は、いったいどこなのかもわからなかった。
もう3日も食事をしておらず、JRの駅でも相手にされず、もはやこれまでかと観念しかかって、ふと頭をかすめたのが去年の選挙。非正規雇用の若者を守れと演説をしていたのが共産党だった。
話を聞いてくれるかもしれないと思い、市役所を訪ねた。議会事務局の窓から見えた海がきれいだった。もう海に入ってしまうつもりにもなっていた。最後の最後に、助けてもらえるという期待もなかったわけではないが、それよりも「自分のような目にあう人をつくらない社会にしてほしい」と訴えたかった。
「すいません。こんなご飯食べるの久しぶりだから、お母さんを思い出してしまって・・・」
と、涙をぬぐう。
飛行機に乗せてやるか、車で送っていってやるか・・・。しかし、パニック障害の発作が心配だから鈍行列車で帰りたいと強く固辞するので、北海道フリー切符にする。
ふるさとで待ってくれている親友ともしばらく連絡が取れず、心配していると思う。難聴で電話は使えないので、メールアドレス・・・。
少しでも北に近づきたいというTさん。時刻表を持たせ、大粒の春の雪が舞う福島県いわき駅まで送った後、さっそく友人の方にメールを送った。
はじめまして。
茨城県北茨城市の鈴木と申します。
きょうTさんが、うちに立ち寄りました。
少しゆっくりしてもらいたかったのですが、
先を急ぎたいとのことで、送り出しました。
親友のJさんに連絡しておいてほしいとのことでした。
とりいそぎメールを送らせていただきます。
また、何かありましたら連絡いたします。
夜中に返信が届いた。
初めまして。北海道稚内のJと申します。
Tの事は最近連絡もなくずっと心配していたので、鈴木様のご連絡で無事という事が分かってホッとしました。
助けて頂き有難う御座います。
Tと私は高校時代からの友人でして、既にお聞きしたかとは思いますが、私は生まれつき難聴の障害を持っておりまして、
小、中とイジメを受けて来た為、高校時代も一人でいようとクラスメイトになじめないでいた私をTはずっと話しかけてきてくれて、小学校から高校までの間でようやくできた大事な友達なのです。
本来ならば、迎えにでも行ければ良かったのですが、シフト制の仕事な為、なかなか休暇が取れずに自分の力のふがいなさを悔いていました。
仕事、家の面でも、私が責任を持ってTの世話を自立出来るまで支援することをお約束致します。
また何かありましたらご連絡お願い致します。
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