「くわしくは後ほど」がたまってるけど、その一つ。
下記は「北茨城民報」からの転載です。
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今回、上記のとおり
撤去跡に残って杭を引き抜いたんだけど、
泥に埋まっていた部分は朽ちておらず、
まるで新しい材木みたいで驚きました。
で、
それを見た作業参加者の一人(市職員氏)が、
「昔ここに住んでいた巨人が使っていた鉛筆
とか何とか話を作ったら面白いんじゃないか」
だって。うん、それいただき!
というのが、こちらの伝説の真相でした。
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12月8日付け「読売新聞」(茨城版)です。
茨城県平和委員会が意見広告を出しました。
例年の取組みで、
一昨年の朝日新聞 → こちら
んんん、昨年は紹介を忘れたみたい・・・
後ほど、
賛同者のお名前を入れたチラシも作るはず。
個人1口1000円、団体3000円で、
まだまだ賛同カンパを募っています。
米代などと一緒に振込み歓迎(^^;
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破甲爆雷
2007-12-08 | ひと
合併して常陸大宮市の一部になったけど、
旧美和村と旧緒川村。写真は、
美和・緒川「九条の会」結成の集い です。
30数名の参加者の一人ひとりから、
ある人は長く、ある人は短く、
戦争体験や平和への思いが語られました。
その帰り道、参加者の一人でもあった
旧大宮町のNさんのお宅に寄りました。
これまでにも何度か体験談を聞いています。
たとえば・・・
10代のときに勤労動員された常磐炭坑で、朝鮮人労働者に対するひどい扱いを目の当たりにした。
結婚して1週間で赤紙が来た。徴兵検査では丙種合格だったが、ようやくお国のためになれると勇躍して出征した。
村長さんが「必ず鬼畜米英を倒して来い」と日の丸で送りだしてくれた。ところが、シベリア抑留を経て帰郷してみると、その村長はNさんとは目もあわせず、鬼畜だったはずのアメリカを賛美していた。
シベリアの収容所の中で、旧軍隊の地位がそのまま残されていたが、それを打ち破る運動にかかわった。
そして今回は、
終戦からシベリアへ送られるまでの話を聞きました。
駐屯していたのは中国東北部(満州)のハイラルだった。ソ連(モンゴル?)国境が目の前で、上官からは、
「日ソ中立条約があるからここは最後まで安全だ。万一、本国が焦土と化そうとも、富士山をめざして戦うのだ」
と聞かされていた。ところが、沖縄戦が伝えられた後だったから6月か7月、演庭に集められて「日ソ中立条約は破棄された。ソ連と戦闘になる」
と訓辞を受けた。
後に帰国してみると、8月9日にソ連が一方的に不可侵条約を破って攻め込んできたと教えられいることを知った。それは事実とちがう。現地の軍は、それ以前に情報を得ていた。
う~ん、私も数十年、
事実と異なる?教育を信じていたのかなぁ。
16名からなる決死隊が結成されて、
8個の破甲爆雷を渡され、匍匐でソ連戦車をめざした。
この後が1時間半にわたる話の本編だったんだけど、
また別の機会に。
あ、
表題の「破甲爆雷」は、音からなので不正確かもしれない。
松の板で火薬を囲った粗末な代物で、持ち手がついていて、
人が抱えて戦車の下に飛び込む自爆兵器だったとか。
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