北欧スウェーデン の生き方情報 スウェーデン報

北欧スウェーデンの日常を生活者目線でお伝えします。
幸せの国、北欧スウェーデンのなるほど〜な生き方をお伝えします。

北欧スウェーデン人の名前

2020-05-17 12:41:59 | スウェーデン

北欧スウェーデンの生き方をエッセイで伝えます。

「今回は、スウェーデン人の名前」

 スウェーデンで一番多い苗字はAndersson。人口1023万人弱のうちの23万人の苗字である。

 以下、Eriksson, Gustafsson, Johansson, Karlsson, Larsson, Nilsson, Olsson, Persson, Pettersson, Svensson と続く。お気付きのとおり、最後にsonがつく。sonのつかない名前では、17位にようやっとLindbergが登場する。

 

 というのも、スウェーデン人に苗字が義務付けられたのは、かなり最近のことなのだ。それまでは、江戸時代の庶民と同じように、権兵衛とか与作とか名前だけの場合も多かった。それで、人の名前を認識するのに、父親の名前を基準にしていた。父親の名前の後に息子を意味するsonという単語をつけたのである。

 

つまり、ヨハンの子供のニルスは「ニルス・ヨハンソン」ということになる。そして、ニルスの子供のペーターは「ペーター・ニルソン」代々、苗字に当たるところが変わっていくわけですね。うーん。混乱しそう。

 

 当然、女の子には、娘を意味するdoterがつく。ニルスの娘のアナは、「アナ・ニルスドッテル」。兄弟でも男と女では、苗字?が違っていた。

 

 さらに200年ほど前、戦争にあたって兵隊を管理する必要があった時、苗字のない兵士に、軍隊が勝手に苗字をつけた。そうしないと、山ほどのエリクやカールがいて、区別がつかないからであった。あくまで、便宜上つけているので、有名な軍人や将校の苗字が、多く利用された。強そうに見えるからである。

 

 その後(1901年)、苗字が義務付けられるに従って、娘でも息子でもsonという語尾に統一された。そして、代々変化しない恒久的な苗字とすることに決まったのである。

 

 面白いことに、さすが、個人主義の国。苗字が気に入らない場合、役所に届け出て、登録料を払うと変更することができる。ただし、その場合、ごく少数の人々が使っている特殊な苗字を使う時は、あらかじめ、その苗字の人の許可を得なければいけない。そして、常識上、受け入れがたい名前は、受付を拒否される。

 

 スウェーデンでも「悪魔くん」という名前は、拒否されるだろうとは、知人の弁。「ブルーベリーちゃん」というのも拒否されたのだそうだ。可愛いと思うけどね。

 

 

 

多い名前ベスト10

 

女性

Maria (約45万人)

Elisabeth

Anna

Kristina

Margareta

Eva
Linnea

Karin
Birgitta
Marie

 

男性

Karl (約34万人)

Erik

Lars

Anders
Per

Mikael
Johan
Olof

Nils

Jan

 

2019年の新生児名前のベストテンは以下の通り。

 

女の子                                           

Alice

Olivia

Astrid

Maja

Vera

Ebba

Ella

Wilma

Alma

 

 

男の子

Lucas

Liam

William

Elias

Noah

Hugo

Oliver

Oscar

Adam

 

 

 お子様にスウェーデンテイストを加味されたい方は、ご参考になさってくださいませ。

ちなみに私は五人のクリスチナと三人のエバと友達です。

 そして、友達の半分以上が上の名前の中にいるかも。

 

 欧米人には、ミドルネームをもっている人が多い。スウェーデン人も多くの人がミドルネームを持っている。そして、それは、多くの場合、キリスト教の聖者の名前をもらうことになる。例えば、アウグストとかイザベラとか。

 

 名前カレンダーを見ると、365日のそれぞれに聖者の名前が書いてある。12月31日はシルベスター。私の誕生日の1月5日はハナ。

 それを、命名日などと呼ぶ。そして、誕生日以外に、ミドルネームの聖者の日には命名日のお祝いをする。

 つまり、カッレ・インゲボルグ・ニルソン君は、誕生日以外に、5月28日のインゲボルグの日にもプレゼントをもらえるわけですね。いいなあ。

 誕生日と命名日を同じ日にされた子は、お気の毒。1回しか祝ってもらえない。

 

 さて、私がいた年のスウェーデン第3位の大都市マルモ市で生まれた赤ちゃんの中で一番多い名前は・・・?

 

なんと、ムハメッド君だとか。イスラム圏の赤ちゃんには、ムハメッドが一番人気の名前で、移民の多いマルモ市では、スウェーデン名のエリク君やカール君より集中したのでした。

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世界一臭い魚スールストロミング(surstroming)

2020-05-06 11:16:43 | 食べ物

 

 

「ヤノスが今日魚料理に誘えっていうんだけど。来ない?」

と、スウェーデン人と結婚してマルモに住んでいるクリスティナに誘われた。

ヤノスというのは彼女の夫。クリスティナはニュージーランド人だ。

クリスティナが続けていうには

「ただ、この魚料理は特別で、すごく好きっていう人と、見たくもないという人に完全に別れるのよね。どっちでもないっていう人がいないの」

 

 大いに興味をそそられる料理である。

 

「で、あなたはどっち」と尋ねると、しばしの沈黙の後で

「うん食べられないことはないけどね。どっちかっていうと嫌いかな。でも、ヤノスは大好物。どうする?食べてみる?」

 

 魚の国、日本で育った私が尻込みするわけには行かない。

 

「ごちそうになるわ」

 

すると、クリスティナ

「じゃ、なるべくお腹いっぱいにして来た方がいいよ。特に子供達は」

 

う〜ん。いったいどんな料理なんだ。募る興味。

 

「魚を発酵させた料理なの。ともかくすごく臭いの」

会って話を聞くと、大島特産の「くさや」に似ているのではないか。

「くさや」なら大好物。募る期待。

 

「一年に一回だけこの時期に食べるの。4月に取れたニシンを発酵させて、今が、食べごろなのよね」

 

 時は8月の終わりである。

 

 まだ、帰宅しないヤノスや我が夫を待ちながら準備を手伝う。

 

「食べるのはベランダ。家の中だと匂いが二週間は抜けないから。食器も紙皿にしておこうかな」

 

 そこまで聞くと、ちょっと怖くなる。

 

そこへ、もう一組招待されていたヤノスの妹のカップルが到着した。妹ヘレナとボーイフレンド、アメリカ人のマークだ。

 マークは話を聞いて、嫌がるのを無理やり連れてこられたらしい。料理には全く期待していない。食べる前から

「俺は、その絶対に嫌いの仲間だね」と否定的。

 

 わたしはわたしで

「本当にトライしてみるの」とヘレナに念を押されて、ますます怖くなる。

 

 さて、全員が揃うと、庭からヤノスの呼ぶ声がする。

「缶を開ける時には、全員が揃うのが決まりなんだ」

 

 その発酵した魚は、缶詰になっている。

 

 全員が庭に出て、缶切りが缶に食い込む瞬間を待つ。

 そして、その瞬間。

 なぜ、庭で缶を開けるのか。なぜ、みんな、臭いと言っていたか。なぜ、みんなしつこく大丈夫と聞いたか。全ての謎が解けたのだった。

 

 よく振ったコーラの缶を開ける時のような、凄まじいシューという音とともに、辺りに異臭が立ち込めた。

 息子いわく、10頭の象が同時におならしたみたい。

 

 開けた缶の中を見ると、頭のないニシンが並んでいる・・・・が、それより気になるのは、ぶくぶくと湧き上がる泡。本当にこれを食べて対丈夫なの。

 さて、これを食べるにもしきたりがある。

まずは、デュンプレーという薄いビスケットのようなパン(クネッケを連想して)にバターを塗る。茹でたジャガイモをスライスしながら載せる。その上にスライス玉ねぎ、そして、問題の魚を内臓をとって開いて載せる。最後にもう一枚のデュンプレーを乗せて、サンドイッチのようにする。

 その一連の行為を臭いと格闘しながらやるのである。

 ヤノスとヘレナは

「う〜ん。この匂いがたまらない」と嬉しそう。

日本人とアメリカ人は

「う〜ん。この匂いがたまらない」と辛そう。

 

 早速、デジカメを取り出して撮影しようとすると、アメリカ人マーク

「いいよな。インターネットは匂いが伝わらないから」

 

「えーと、この料理なんていう名前だったっけ」と聞くと

ヤノスが答えるより前に、マーク

「shoe strings(くつひも)」と吐き捨てるように。

 

本当は「SURSTROMMING(スールストロミング)」という。

 

 スウェーデンはもともとあまり裕福な国ではない。特に、北部は貧しかった。

春に取れた魚を塩漬けにして一年中食べていた。ところが、ある年、更に厳しい状況で、塩漬けにする塩をケチらざるを得なくなった。

 すると、塩が足りなかったために、魚が発酵してしまった。捨てるのももったいない。食べてみた。すると、思いがけず美味しかった。

 というのが、ヤノスの語る「SURSTROMMING」の歴史である。

 

 ディナーの話題は尽きない。

「イタリア赴任中の友達がSURSTROMMINGを食べていたら、翌日から近所の人の見る目が変わった。あんな臭いものを食べているなんて、あいつら人類じゃないアニマルだ、と言われたそうだ」

「別の国ではガス漏れだと通報された」

 

 で、味の方は生臭くて塩辛い。それも並大抵の塩辛さじゃない。

イギリスで暮らしていたこともあって、かなりのものまで、「おいしい」とお愛想が言える私でも、さすがに今回は「良い経験をさせていただきました」としか、言えなかった。

 

 でもね、これだけは、最後に心からヤノスに言いました。

「この料理は最高のディナーメニューだね。だって、話題がつきないもの」


リンドグレーンの世界

2020-05-03 09:44:31 | エッセイ

私が、スウェーデンに住んでいた頃、ノーベル賞受賞者の発表の頃になると、毎年、今年はリンドグレーンが文学賞を受賞するのでは・・・という話題が持ち上がった。
 
 リンドグレーンはとうとう、ノーベル賞を受賞しないまま、2002年に亡くなった。多くのスウェーデン人は、リンドグレーンがノーベル賞を受賞すべきだったと思っている。当時の新聞社の人気調査では、リンドグレーンはシルビア女王を抜いていつも女性部門の一位に輝いていた。

 

 アストリッド・リンドグレーンは1907年にスモーランド県のヴィンメルビーの農家に生まれた。
 4人兄弟の2番目。
 
「やかまし村のこどもたち」(岩波書店 以下翻訳されている本はすべて岩波書店です)を読んだことがある方には、イメージがわくだろう。あれが、アストリッドの子供時代だ。

 本人も「遊び死にしそうなぐらい遊んだ」と言っている時代。
 
 そして、それが、のちの児童文学者リンドグレーンの原点である。
 
 彼女の作品の多くに、春の一斉に花咲く頃の香りや、夏の沈まない太陽の中での開放感や、秋の干し草の感触や、冬のクリスマスを迎える興奮や・・・・・そう言った、自然と一体になった五感の感触が生き生きと書かれているのは、幸せな少女時代の賜物だろう。

 

 そして、彼女の凄さは、その後の人生の変遷を経ても、子供時代の思いや記憶を少しも忘れずに持ち続けていたことだ。
 
 それこそが、リンドグレーンの小説が、今子供である読者だけなく、既に大人になった読者にも長く愛されている理由だろう。
 

 スウェーデンで子供時代を過ごしたことのない私でも、リンドグレーンの作の世界に入るとその体験を文字の上で、一緒にたどることができる。自分も同じような体験をした記憶もまざまと蘇ってくる。
 
 私が小学生だった頃には、既に日本でリンドグレーンの作品が翻訳されていた。私は、友達と「名探偵カッレくん」の真似をして、探偵団グループを作ったこともある。

 「さすらいの孤児ラスムス」で、感想文を書いたこともある。

 そして、一番行きたい国はスウェーデンだった。

 
 スウェーデンに住んでいる日本人に聞くと、「長くつしたのピッピ」に憧れてとか、「やかまし村」が好きだったとか言う人が多い。そんな時、本の全く別の場所で、全く違った時に、同じようにスウェーデンへの憧れを抱いていた人が、いたんだあとちょっと感慨深い気持ちになったりする。

 

 さて、リンドグレーンは、ヴィンメルビーで幸せな少女時代を送った後、あまり幸せではないハイティーンの時代を送る。もう、ただ、遊んでいればいい年頃を過ぎてしまったが、自分が何者かわからない思春期を、リンドグレーンの感性が持て余したのかもしれない。長髪が普通だったその時代に、いきなり断髪して、周囲を驚かせたりしていたようだ。

 

 そして、就職。18歳の時に、未婚のまま妊娠。さすがにその時代のヴェンメルビーで出産するわけにはいかずに、ストックホルムに出る。19歳でデンマークで出産。

 なぜ、デンマークか。 その頃、唯一戸籍の提出なしで、出産させてくれた病院がコペンハーゲンだったからである。

 

 今でこそ、シングルマザーが珍しくないスウェーデンだが、やはりその時代、未婚で若くして子供を産むことは大変なことだった。結局、リンドグレーンは生まれた男の子を里子に出す。

 預けた先のデンマークまで、お金を溜めては、ストックホルムから通ったのだそうだ。片道500キロ以上ある。

 

 リンドグレーンの小説に、貧しい人々に対する共感が溢れているのは、そうした体験のせいだろうと言うのは、簡単だが、その時代のリンドグレーンの中に去来していたものを考えると、そうした分析な言葉は,陰がうすくなる。

 

 ストックホルムで、技術も学歴もない女性が、稼げるお金は、自分の生活を支えるのがようやっとのものだ。その中から、コペンハーゲン行きの費用を捻出するのである。

 しかも、休暇の許可をもらわずにコペンハーゲンに行ったことが原因で、仕事場をクビになってしまうのだ。

 

 その後、再就職した会社で、彼女の夫となるリンドグレーン氏と知り合う。運命というのは,粋なことをする。

 離れていた息子も引き取り、37歳から、本格的な作家の道を歩み始める。

 

 きっかけとなったのは、「長くつしたのピッピ」。

 娘のカーリーンが病気の時、話をせがまれて口から出まかせに話したのだった。その後、文章にまとめて、大手出版社に送ったところ、送り返された。

 

 世界一力持ちの女の子。しかも、お行儀が悪くて、一人暮らしで、金貨を山ほど持っていて、好き勝手に生きていて、大人も手玉にとってしまう。

 そんな教育的でない本は,出版できないというところだろうか。

 

 でも、ピッピのお行儀の悪さは,こんなだったらいいなあとか、こんなこと一度してみたいなあと誰もが思うようなことを実現するために起こることなのだ。

 例えば、枕にどうして足をせてはいけないの。わたしは、枕に足をせて寝るの、とか。クッキーを作るのにテーブルでは狭いので床の上で、延ばすの、とか。床を掃除するのに、足にブラシをつけて、スケートのように掃除したら便利・・・とか。

 

 でも、一人暮らしのピッピが必ずしもいつも幸せであるはずがなく、

「夜寝る時、誰も私に子守唄を歌ってくれない。だから、私は,自分で自分に子守唄を歌ってあげるの」

 

 そして、次に応募した小さな出版社の文学賞で、その感性は認められ、二位を受賞するのだ。批評家たちの中には、「こんな作品に賞を与えるとは、ふざけすぎ」のような酷評を書くものもいたが、まずは,お隣のデンマークで人気が出て、その後、世界中のいろいろな言葉で訳されるほど、爆発的に人々に愛された。

 

 というわけで、保守的だった、大手出版社は、この小さな出版社にその後のリンドグレーンの版権を全部取られてしまったのである。

 みる目って、ほんと、大事。

 この出版社ラーベン・オク・ショーグレン社は、もちろんその後、大手出版社になった。

 

 児童文学アストリッド・リンドグレーンを国民的アイドル?にしたのは,テレビの力が大きい。知人に頼まれて「二十の質問」という番組にレギュラー出演すると、彼女のユーモアのセンスや、頭の回転の速さに国民はほれぼれしたのである。

 

 そして、彼女の意見は、正統で偏見がなく、大衆の意見を簡便に伝えているため、知らず知らずのうちに、オピニオンリーダーのようになっていく。

 

 税制の改革で、リンドグレーンの税率が、102%になったことがある。すかさず、リンドグレーンは野党系の新聞で、ユーモアと皮肉を込めた小説を描いた。そしてそれは,すごくわかりやすかったため、大衆の支持をえた。税制は間も無く、再び改正された。
 
もちろん、政府は、その小説のためとは言わなかったが、国民はみんな、そうに違いないと思ったそうである。

 

 日本では一般的なケージ飼いの鶏(ずっと籠の中で、卵を産む機械になっている鶏)についても、短い物語を描いた。そして、その後スウェーデンでは,動物保護法が改正され、全ての鶏は平飼いになった。

 

 アストリッドの故郷のヴィンメルビーには,地元出身の大作家リンドグレーンにちなんで作られたテーマパークがある。アストリッド・リンドグレーン・ワールド。きっかけは,地元の数人のお父さんたちが、自分の子供たちのために何かを作ろうとしたことだ。

 何にするか考えた時、それはすんなり、リンドグレーンの物語の中の世界に決まったのだそうだ。

 

 それから、スポンサーを得て、今では、家族連れが一日中楽しめる場所になっている。残念ながら、夏(スウェーデンの夏休み期間中なので、6月から8月半ばごろまで)しか開いていない。しかも、スモーランドは日本人の観光コースから外れているので、旅行者にはちょっと不便かも。

 

 しかし、リンドグレーンを愛する人には,そこは,素晴らしいところだ。小説の中の主だった登場人物が、決まった時間に野外劇をしている。そうでない時間には,役者たちは,園内をまわりながら即興劇をしている。

 

 観客は、いつのまにか、ただの見ている人から、その村を訪れた知り合いのような気分にさせられる。

 

 ピッピはお巡りさんと追いかけっこをしている。

 

さすらいの孤児ラスムスとパラダイスのオスカルはアコーディオンを持ちながら、あちこで歌を聞かせてくれる。

 屋根の上のカールソンも通りすがりの客たちに、ちょっかいを出してくる。

 

 絶叫系のマシーンは一つもない。それどころか、機械仕掛けで動くアトラクションはひとつもない。

 あるのは、数十年前のスウェーデンの子供達が遊んでいただろう、干し草小屋や、イカダや、ボールを投げて缶を落とすような、素朴なあそびばかりだ。園内をまわる干し草馬車に乗って、ピッピのごたごた荘や、山賊の娘ローニャの山や、カールソンの家などを周ると気分はすっかり小説の中だ。

 

 ありきたりの言い方だが、こうした十分の自然体験や、遊び体験が、将来の人生の底力となるのではないだろうか。そういう意味で、十分遊んでいないように見える日本の子供たちが、気の毒になる。

 

 語学学校の教科書や、パブなどで出される余興のクイズなどにもリンドグレーンは、必ず出てくる。アストリッド・リンドグレーンは既にスウェーデンの常識である。そして、スウェーデンの良心でもある。

 

 アストリッドの訃報を聞いた時には、本当に悲しかった。

 あのとき、すべてのスウェーデン人が心から彼女の死を悲しんだ。テレビもマスコミも連日、彼女を追悼するプログラムを組んだ。
 

 彼女の元へは、各国の大臣や国王のような有名人から多くの追悼メッセージがとどいたという。
 


 しかし、もし彼女が生きていたら、そんなものより、きっと、数え切れないほど多くの世界の子供たちが彼女の死を悼んでいる事実を、誇りに思うに違いない。

 


 アストリッド。あなたは私の存在すら知らないけれど、私にとってあなたは、最初のスウェーデン人で、最大で最高のスウェーデン人でした。