昨年の9月の「直葬」についての私のぼやきに 神学を勉強なさっていると言う[やま]さんからコメントがありました。葬儀は やりたい人がやればよく、無理強いする必要は無い、とのご意見です。どうぞ コメントをご覧になってください。
私の私見を少し述べます。葬儀をやりたい、とか やりたくない、とかの場合の主語は誰になるのでしようか?死んでゆく本人が 私の葬儀についての希望を述べる場合と、死んでゆく人のパートナーや子供など 喪主となり葬儀を主催する人が 葬儀についての希望を述べる場合があると思います。
この家での次の葬儀は私だと思う方は、自分の葬儀についての希望をノートなどに書きとめ 後に残る家族に見てもらったらいいと思います。
後に残る家族は 本人の葬儀に対する希望を十分尊重しながら どの様な葬儀にするのか、しないのかを決めます。
要するに 葬儀は 亡くなった方の為であり、また 残された家族・親族・友人・知人・・・の為でもあると思います。
[やま]さんが 神道の観点を抜きにしてコメントを戴いていますので 私も 仏教の観点を抜きにして述べます。
やはり 葬儀と言うかお別れ会と言うか 何かのけじめの儀式は欲しいと思います。よく引用される例ですが、一昔前までは、赤ちゃんは 家で生まれ、多くの人は 家で息をひきとっていました。人々は新しい命が誕生する瞬間や 一つの命の灯火が消えゆく瞬間を目の当たりにしてきました。特に学齢期あたりの子供にとっては 大変大切です。命のイメージ、生きる事のイメージ、命の重さ、皆の心の中の様子・・・、誰も教えない命の授業です。
今 赤ちゃんは 病院で生まれ 人は病院で亡くなります。
今 命・生きる・人生などのイメージが希薄になっているような気がしてなりません。生まれれば必ず死ぬ事、人は多様な縁で繋がっており決して一人で生きているのではない事、など、とっても大切なイメージです。
現代の社会が大変暮らしにくい状態である今こそ、自死が年3万人超、孤独死も年3万人超の今こそ 命を教える事が必要だと思います。
宗教者がいても いなくても 葬儀はやって欲しいものです。