称讃寺の和尚さんの独り言。お坊さんって こんなんでいいのかなぁ~と思いながらの毎日です。ナマクラ坊主のブログです。

浄土真宗本願寺派(西本願寺派)称讃寺の住職の瑞田信弘です。毎日忙しくしておりますが、ふと気づいた事を書いてみます。

冬のオリンピックの真っ最中です。

2010年02月21日 15時06分05秒 | 独り言 ぼやき

毎日 スポーツニュースが楽しみです。

男子フィギュアースケート、スノーボードハーフパイプ、スキーのジャンプ、スケルトン、カーリング、・・・・。一昨日のカーリングのカナダ戦、負けてしまって 何かモヤモヤしていましたが、昨日のイギリス戦に大勝していっきにモヤモヤが吹っ飛んでしまいました。毎日毎日一喜一憂しています。日の丸を背負った選手達に 見ている私達がパワーを戴いています。

昨年末の政府の事業仕分けで 「一番になる必要はあるのでしようか?!」と発言なさっていましたが、スーパーコンピューターでもオリンピックでも当然一番を目指さなくてはならないと思います。

文化・芸術・スポーツなど 健全な肉体と豊かな心を育む分野に対して 相応の予算手当てができないと言うのは 先進国の姿ではありません。まさしく 発展途上国です。

現政権の無駄を省いて福祉へ、コンクリートから人へ、のスローガンはきわめて抽象的です。3年先・5年先・10年先にどの様な社会を造ろうとしているのか、国民に分かりやすく説明する事が 急務だと思います。

税金の再分配で お金を配る事によって 戴いた人々が幸福になるでしようか?子供手当てを 26000円戴いて 幸せになるでしようか?おそらく もっと欲しいと思うようになると思います。小手先の手練手管よりも 国民一人一人が小さな幸せを感じる事ができるような国のビジョンを指し示しその為に具体的に色々な施策を提案すべきだと思います。


たまきさん 再コメント 有難うございます。

2010年02月09日 23時39分45秒 | 独り言 ぼやき

たまきさん 再コメント 有難うございます。伯母様が お寺の坊守様でいらっしゃったのですか!驚きました。

私は 昭和30年生まれの54歳ですが、私達の親の世代 昭和の一桁から終戦までに生まれた世代は、先の大戦の影響もあり 全ての人々が 想像を絶する様な大変な人生を送られました。長編小説が書けるくらいの大変な想いをして毎日毎日 頑張っていました。終戦で 男はいなくなり 食べ物も 着る物も 何も無い社会での生活をスタートし、昭和30年代40年代と 高度経済成長時代を駆け抜けたのです。皆 必死に生きました。必死に生活しました。前向きでした。目標がありました。自分を犠牲にしました。

時代は貧しく大変でしたが、絆がありました。人と人との結びつきは とっても深かったのではないでしようか?人と人が想いあって 気遣いあって 感謝し合って 生きていました。これこそが まさに 「生かされて 生きる」でしよう。

現代社会では 縁が薄くなりつつあります。お坊さん達が 「生かされて 生きる」との講話をして説明をしなければならない社会になってしまいました。

私達の親の世代は 「生かされて 生きる」など 当たり前で 説明など不要だったのです。

お2人の伯母様の人生をしんみり振り返って 「生かされて 生きている」意味を再度噛締めてみる事が、結果として たまきさんのこころの整理の手助けになるのかも知れません。

                                      称讃寺 住職


西本願寺の 自殺対策フォーラムに行ってきました。

2010年02月05日 23時53分25秒 | インポート

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 大阪大学学長の鷲田清一先生の基調講演

         人が生きているのは「生かされている」と云う事。

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 それぞれの専門家のパネルディスカッション

         僧侶の私に 何ができるだろうか と 考えさせられました。


たまきさん コメント有難うございました。

2010年02月05日 23時37分14秒 | 独り言 ぼやき

たまきさん、これからも感じた事を書き込んでください。

たまたま 本日 京都の本願寺の聞法会館での[自殺対策フォーラム・命と向き合う]に参加して来ました。大阪大学学長の鷲田清一先生の基調講演は 素晴らしかったです。動物や植物は「生きている」のですが、人は「生きている」ということは「生かされている」と言うことを 例を交えて判りやすく説明下さいました。お坊さんもよく「生かされて 生きる」とのテーマでお話をしますが、鷲田先生の仏教抜きの説明に 聴衆皆ストンと納得なさっただろうと思いました。

過去に私も 自死の方の葬儀をした事が何回もあります。最悪なのは 30才台の青年が自死し、そのショックか数ヵ月後に母親が自死してしまった家があります。奥様を自死で亡くした方が今 自殺対策のボランティアをなさっています。彼によると、自死なさった奥様は 自死なさる直前には 「人は どう生きていくかを選択する権利を持っているように、どう死ぬか、も選択できていいはずだ。」と語っていたそうです。返事に困る難しい問答です。

さて、自死は仏教・真宗では どうとらえるのか?

私は学者ではありませんので このテーマで研究した事はありません。死には病死・事故死・自死・戦争死・犯罪による死・などいろいろありますが、仏教では死については区別していないように思います。お釈迦様のお弟子さんの一人が自死と思われる亡くなり方をしていますが、それに対して特段のコメントはありませんでした。すなわち 仏教・真宗では 自死だけを特別扱いはしていないと言う事です。

しかし、遺族の方々に特別の思いがずっと残るのは容易に想像がつきます。この遺族の心情のケアがきわめて大切です。どうでしょうか、これこそが お坊さんの役割でしょう。遺族の心情をじっくりお聴きし、自分を責めないようにとアドバイスし続ける事が必要です。また 同じように大切な方を自死で亡くされた方の話を聴き、自分も話し、私だけではないんだ、と実感してもらうのも とても効果的だと言われています。各地に 自死遺族の支援組織があります。お話をお聴きしているお坊さんが 紹介してあげればいいと思います。

いずれにしても 遺族の方々は いつまでたっても心の整理がつかないままでしよう。時の力を借りる事も必要でしよう。

最後に云える事は、ご自分も回りの人達にこの様な想いをさせない為にも、人生をまっとうする事です。

ご参考になりましたか?また、コメント 下さい。